帰ってきたシャーロック・ホームズ(The Return Of Sherlock Holmes)

プロジェクト杉田玄白の『帰ってきたシャーロック・ホームズ』を転載しました。本家はリンク切れのため、インターネットアーカイブより転載。以下、転載。


空き家の冒険(The Adventure of the Empty House)

 きわめて異常な説明のつかない状況で起きたロナルド・アデア卿殺人事件に全ロンドンが巻き込まれ、 社交界が震撼させられたのは1894年の春のことだった。警察の捜査で明らかになったその犯罪の 顛末は既に世間一般に知られていたものの、証拠をすべて挙げる必要がないほど起訴事実が圧倒的だったので、当時は多くのこと が隠された。やっと今、十年近くたって、驚くべき鎖の全体を構成する、それらの欠けて いる環を埋めることを私は許されている。この犯罪はそれ自体興味深いものだが、想像を絶する後段と比較すると 私にとってはその興味も無いに等しく、それは私の冒険に富んだ人生の出来事の 中でも最大の衝撃であり驚きであった。長い間を経た今でさえ、気がつくと私はそれを考えてはゾクゾクし、 私の心にあふれたあの突然の喜び、驚き、信じられぬ思いの洪水をもう一度感じている。 あるきわめて非凡な男の考え方と活動について、時折私が披露した一端に多少とも興味を示してくださった一般の方々 に申し上げると、私が知識を共有してこなかったとしても私を責めてはいけない。 というのは彼自身の口からはっきりと禁じられているのでなければ、そうすることが私の第一の義務と考えるべきところで はあったが、その禁止がやっと先月の三日に撤回されたのである。
 想像に難くないことと思うが、シャーロック・ホームズとの親密な間柄から私は犯罪に深く興味を抱き、彼の 失踪後も、公になったさまざまな問題は決して読み落とすことなく注意を払い、大成功とはいかなかったものの個人的に満足を 得るために一度ならずその解決に彼の方法を用いる試みさえした。さりながらこのロナルド・アデア の悲劇ほど私を惹きつけたものはなかった。未知の人物もしくは人物たちによる謀殺の評決に至った検視 審問の証拠事実を読んだ時、私はシャーロック・ホームズの死により社会がこうむった損失をかってなく はっきりと理解した。この奇妙な事件には彼を特別に惹きつけるだろう点がいくつかあり、 ヨーロッパ随一の犯罪調査官の訓練を積んだ観察力と油断の無い知性により、警察の努力は補われ、いや おそらく先を越されることになるのは確かだった。終日、往診で馬車を走らせながら私は心の中で事件をあれこれ考 えたが、十分と思える説明は見つからなかった。言い古された話をすることになるのは承知の上で、検視 審問の結論として一般に知られていた事実を要約することにしよう。
 ロナルド・アデア卿は、その頃オーストラリアの植民地の一つで知事をしていたメイヌース伯爵の次男だった。 アデアの母親は白内障の手術を受けるためにオーストラリアから戻っていて、彼女、息子のロナルド、娘 のヒルダがパークレーンの427に一緒に住んでいた。上流社会に出入りしている青年は、知られる限り敵 も無く、特に悪癖も無かった。彼はカーステアスのエディス・ウドゥリー嬢と婚約していたが、その婚約 は相互の同意により数ヶ月前に破棄され、それが深刻な感情を後に残した兆候もあまりなかった。その他、 男の生活は限られた型通りのサークルへの出入りであり、というのも彼は平穏な習慣、非感情的性質の持ち主だった。 それにもかかわらずこののんきな若い貴族に、1894年3月30日の夜、十時から十一時二十分の 間に、ひどく奇妙な思いがけない形で死が訪れたのである。
 ロナルド・アデアはカードを好み、頻繁に遊んでいたが、困ったことになるような賭けはしなかった。 彼はボールドウィン、キャベンディッシュそしてバガテル・カードクラブのメンバーだった。死の当日の 夕食後、彼がバガテルでホイストの三番勝負をしていたことが明らかになった。彼はまたその午後もそこ で遊んでいた。彼とゲームをした人たち--マレー氏、ジョン・ハーディ卿、モラン大佐--の証言は、 ゲームがホイストであり、まずまず互角の勝負だったことを明らかにした。アデアは五ポンド損をしたか もしれないが、それ以上ではない。彼の財産はかなりのものであり、いずれにせよそのぐらいの損失が影 響するはずはなかった。彼はほとんど毎日どこかのクラブでゲームをしていたが、慎重なプレイヤーであ り、たいてい勝ち組になった。現に彼が数週間前、モラン大佐と組んでゴドフリー・ミルナーとバルモラル卿に対して一勝負で四百二十ポンド ほども勝ったことが証言でわかった。検視審問でわかった彼の 近況はそんなところだった。
 犯罪の夜、彼は十時きっかりにクラブから戻った。母親と妹は外出して親戚と宵を過ごしていた。 女中は、普段彼が居間として使っていた三階の正面の部屋に彼が入るのを聞いたと供述した。彼女はその部屋の 暖炉に火をつけ、煙っていたので窓を開けておいた。その部屋からは何の音も聞こえなかったが、 十一時二十分にはメイヌース伯爵夫人が娘と帰宅した。どうしてもおやすみを言おうと、彼女は息子の部屋に入ろ うとした。ドアは内側から鍵がかけられ、叫んでもノックしても答えがなかった。助けを得てドアがこじ 開けられた。不幸な青年はテーブルの近くに横たわった姿で見つかった。彼の頭はリボルバーの銃弾によ り恐ろしい損傷を受けていたが、室内にいかなる武器も見つからなかった。テーブルの上には二枚の十ポ ンド紙幣と金貨銀貨で十七ポンド十シリングがあり、金は整理されて額面ごとに小さく積み上げられてい た。その反対側にはまた何人かのクラブの友人の名とともにいくつかの数字を書いた一枚の紙があり、そ のことから彼が死の前にカードでの彼の損失と儲けを書き出そうと努めていたとの推測がなされた。
 状況を詳細に調査しても事件をますます複雑にするだけで役にたたなかった。まず第一に、青年が内側 から鍵をかけなければならなかった理由を挙げることができなかった。殺人者がそれをして、その後窓 から逃げた可能性はあった。しかし落差は少なくとも二十フィートあり、下には今が盛りのクロッカスの 花壇があった。花にも土にも乱れた痕は無く、家を道路と隔てる狭く細長い草地にも跡は何もなかった。 従って、明らかに青年自身がドアを閉めたのである。しかし彼はどのようにして死んだのか?跡を残さず に窓までよじ登ることができる者などなかったろう。誰かが窓越しに撃ったとすると、リボルバーでそれ ほど致命的な傷を負わせるとは実際驚くべき射撃手だ。そのうえ、パークレーンは人通りが多く、家から 百ヤードもないところに客待ちの馬車の待機所がある。誰も銃声を聞かなかった。それなのにそこには 死体があり、リボルバーの銃弾があった。それは先端の柔らかい銃弾らしく、きのこ型に広がり、それが きっと即死を引き起こしただろう傷を負わせたのだ。このような状況のパークレーンのミステリーをさら にわかりにくくさせたのがまったく動機が無いことだった。というのはすでに述べたようにアデア青年に 敵がいるとは知られなかったし、部屋の金や貴重品を持ち去る試みもなされていなかったからだ。
 一日中私はこれらの事実を頭の中でひねくり回し、すべてを一致させられる考えを何か思いつかないか、 そして今は亡き私の友がすべての調査の出発点であると断言していた最も楽な線を発見できないかと 懸命に努めた。白状するがほとんどはかどらなかった。夕方、私は公園をぶらぶらと歩き、気がつくと六 時ごろにはパークレーンのオックスフォード通りの側の端に来ていた。ある一つの窓をそろって見上げて いる舗道の怠け者の群れが、私が見に来た家を教えてくれた。背が高くやせて色眼鏡の、私がにらむとこ ろ私服の刑事の疑いの濃い男が何か自分の説を言って聞かせると、他の連中は回りに群がって彼の言う ことに耳を傾けていた。私はできるだけ彼の近くに寄ったが、彼の意見がばかげたものに思えたのでちょ っと嫌気がさして引き返した。その時私は背後にいた年配の醜い男にぶつかり、彼の持っていた本を何冊 かはたき落としてしまった。それらを拾い上げた時に見るとそのうち一冊は『樹木崇拝の起源』という題 で、この男は、商売にしろ趣味にしろ、世に知られない書物を収集する貧しい愛書家か何かにちがいない という考えが心に浮かんだのを私は覚えている。私はその出来事の謝罪にこれ努めたが、私が実に不運 にも酷い目にあわせてしまったこれらの本が持ち主の目には極めて貴重な物であるのは明らかだった。侮 蔑のののしりとともに彼はぷいと立ち去り、私は彼の曲がった背中と白い頬髯が群集の中へ消え行く のを見ていた。
 パークレーン427を観察したものの、私は興味ある問題をほとんど解けなかった。その家はせいぜい高さまる 五フィートの低い壁と柵により通りと隔てられていた。従って誰でも庭に入り込むのはまったく容易 だったが、いかに活発な人間でもよじ登る助けとなる水道管のようなものも無く、あの窓に近づくことは到底 不可能だった。ますます当惑して私はケンジントンまで来た道を引き返した。書斎に入って五分もしない うちに女中が来て誰だか私に会いたがっていると言った。驚いたことにそれは他でもない、あの本の収集家の見知らぬ 老人で、白い毛の縁取りの中にとがったしわくちゃの顔がのぞいており、そして貴重な書物は、少 なくとも一ダースはあろうか、無理やり右脇に押し込まれていた。
 「私を見てびっくりしたでしょうな」と奇妙なしゃがれ声で彼が言った。
 私はそうだと認めた。
 「どうも、あなた、気が咎めましてね、で偶然こちらにお入りになるのを見まして、いやよたよたとあ なたについてきましてな、心のうちで考えました、ちょっとお邪魔してあの親切な紳士にお目にかか ろう、そして私の態度がちいと無愛想だったとしても少しも悪意はなかった、あの人が本を拾ってくれ たことに深く感謝している、と言おうと。」
 「ささいなことで大げさですよ」と私は言った。「私が何者かご存知のわけをお尋ねしてもよろしいですか?」
 「それはまあ、あなた、私はあなたのご近所といってもあまり失礼にはあたらんと思いますがね、というのもチャ ーチ街においでになれば角に私の小さな本の店がをありまして、いやほんとにあなたにお目にかかれてと ても嬉しい。ことによるとあなたご自身も収集されてますかな。ここにありますのは『英国の鳥類』と 『カタラス』と『聖戦』--どれも特価品で。五冊あればちょうどあの二段目の棚の隙間を埋めることが できますよ。だらしなく見えますな、そうじゃないですか、あなた?」
 私は背後の飾り棚を見ようとして頭を動かした。私が向き直ると書斎机の向こう側にシャーロック・ホ ームズが私に微笑みながら立っていた。私は立ち上がり、すっかり仰天して数秒間彼を見つめ、それから どうやら生涯後にも先にも一度きりの卒倒をしたようだ。確かに私の目の前には灰色の霞が渦を巻き、それ が晴れた時、気がつくと私の襟の端が緩められ、唇の上のブランデーの名残がひりひりしていた。ホーム ズは小瓶を手に私の椅子にかがみこんでいた。
 「ワトソン君、」とよく覚えている声が言った、「本当にすまないことをした。君がそんなに動揺 するとは思わなかったんだ。」
 私は彼の腕をつかんだ。
 「ホームズ!」私は叫んだ。「ほんとに君か?まったく君が生きているなんて。あの恐ろしい奈落の底か ら登りおおせることが可能なのか?」
 「ちょっと待って」と彼は言った。「もう話をして本当に大丈夫なのかね?必要もないのに芝居がかっ た再登場をして君にひどいショックを与えてしまったからね。」
 「大丈夫だ、いやほんとに、ホームズ、自分の目が信じられないよ。何とまあ、君が--こともあろう に君がだよ--私の書斎に立っているなんて!」もう一度私は彼の袖をつかみ、その下の細く、筋骨たく ましい腕に触れた。「やれやれ、とにかく幽霊ではないね」と私は言った。「ねえ君、君に会えて大感激 だ。座って話してくれ、どうやってあの恐ろしい深い裂け目から生きて戻ってきたんだい?」
 彼は私の向かいに座り、例の無頓着なやり方でタバコに火をつけた。彼は書籍商のみすぼらしいフロッ クコートの装いでいたが、あの人物を示す残りのものはテーブルの上に白い毛と古書が積まれていた。ホームズはかってより さらにやせて鋭くなったように見えたが、彼の鷲鼻の顔には死人のような白さがあり、それは最近の 彼の生活が健康的なものではなかったことを物語っていた。
 「身体を伸ばせて嬉しいよ、ワトソン」と彼は言った。「背の高い男が何時間も続けて身長を一フィー トも縮めているのはつらいよ。さて、ねえ君、これを説明するについては僕たちの前にはだね、君に 協力をお願いできるなら、つらく危険な夜の仕事が待ち受けているんだ。たぶんその仕事が終わってから 君にすべての事情を話すほうがよかろう。」
 「好奇心でいっぱいだよ。今すぐにも聞きたくてたまらないところだが。」
 「僕と一緒に今夜来るかい?」
 「いつでもどこへなりと。」
 「まったく昔と同じようだね。行く前に夕食を一口食べる時間はあるだろう。ところであの裂け目だが ね。あそこから脱出するのはたいして難しいことではなかったんだ、というのは実に簡単な理由だが僕 はあの中にはいなかったんだ。」
 「あの中にいなかったって?」
 「そうなんだ、ワトソン、あの中にいなかった。君への僕の手紙はまったく本物だよ。狭い小道の向こうは安全だったが、 そこに立つ故モリアーティ教授のどこか不吉な姿を認めた時には僕の生涯も終わりに来たことを ほとんど疑わなかった。僕は彼の灰色の目の中に冷酷な意図を読み取った。そこで僕は彼と少々言葉を交わし、 彼の礼儀にかなった許可を得て、君が後で受け取ったあの短い手紙を書いたのだ。僕はそれをタバコ入れ とステッキとともに残し、そのままモリアーティを後ろにして小道に沿って歩いた。行き止まりに着 き、僕は追い詰められた。彼は武器も取り出さず、僕に向かって突進し、長い腕で組みついてきた。彼は 自身も万事休したことを知って、僕に復讐することだけを望んだのだ。僕たちは滝の縁でよろめいた。だ が僕は日本の格闘技の柔道をちょっと知っていてね、これがすごく役立ったことが何度もあるんだ。僕が 彼の腕をすり抜けると、彼は恐ろしい叫び声を上げて数秒間狂ったように足をばたばたさせ、両手で虚空 をかきむしった。しかしどんなにがんばっても彼は平衡を取れず、落ちていった。がけっぷち から顔を出して僕は彼がずっと遠くまで落ちていくのを見た。それから彼は岩にぶつかり、跳ね返り、水 の中へとしぶきを上げた。」
 私はホームズがタバコを吹かす合間に語ったこの説明を驚嘆しながら聞いた。
 「だが足跡は!」私は叫んだ。「私はこの目で見たんだ、二人が小道を下りていって誰も戻らなかった。」
 「こういうことだったんだ。教授が見えなくなった瞬間に僕はまったく驚くほどの幸運を運命が僕の行 く手に用意してくれたことに気づいた。僕の死を誓うのはモリアーティだけではないのを僕は知っていた。 首領の死により僕への復讐心をいや増すばかりの連中が他にも少なくとも三人はいたからね。彼らは皆、 最も危険な男たちだ。誰かが間違いなく僕をやっつけたろう。ところがもし世間が皆、僕が死んだものと確信 したら、彼らは、この連中は勝手な事をする、彼らは自分をさらけ出す、そして遅かれ早かれ僕は 彼らを全滅させられる。そうすれば僕がまだこの世にいることを発表する時がくる。頭はすばやく働き、 モリアーティ教授がライヘンバッハの滝の底に着く前に僕はこういうことすべてを考え終えたと思う。
 僕は立ち上がり背後の岩壁を調べた。それについては君の生き生きした記述を数ヵ月後に非常に興味 深く読ませてもらったが、君は切り立った崖であると力説しているね。これは文字通り真実とはいえな いな。いくつか小さな足場が見えていたし、岩棚もありそうだった。崖はとても高くて登りきるのは明 らかに不可能だし、後を残さずにぬれた小道に沿って行くのも同じように不可能だった。なるほど同じよ うな場合に何度かやったように靴を逆に向けてもよかったんだが、一方向に足跡が三組見つかっては間違 いなくごまかしとわかってしまうだろう。そこですべてを考えあわせると、最善は危険を覚悟で登ることだっ た。それは愉快な仕事ではなかったよ、ワトソン。滝は足元でうなりをあげていた。僕は徒な想像をするような 人間ではないけれども、誓って言うが奈落の底から僕に向かって叫ぶモリアーティの声を聞くような気が したよ。一つのミスが致命的なものになったろう。何度も、手につかんだ草の束が抜けたり濡れた岩のくぼ みに足を滑らせたりして僕はもうだめだと思ったよ。しかし僕はやっとのことで登り、とうとう数フィート の奥行きがあり柔らかな緑のコケに覆われた岩棚に着き、そこで僕は見られないようにしてまったく申し分な く快適に横になることができた。僕はあそこで手足を伸ばしていたんだよ、君や、ねえワトソン、君の連 れてきた連中みんなが同情あふれる無能なやり方で僕の死の状況を調査していた時。
 とうとう君は例のごとくまったく間違った結論を作り上げるばかりでホテルへと去っていき、 僕は一人残された。僕の冒険も終わりになったかと思っていたのだが、まったく予期せぬ出来事により、ま だなお驚くべきことが僕を待ち構えているのが明らかになった。巨大な岩石がね、上からドーンと落ちてきて僕の前を過ぎ、 小道にぶつかり、裂け目の中へとはね飛んでいったんだ。瞬間、僕はそれを事故と考えた。しかし一瞬の後、 見上げると、暗くなった空をバックに男の頭が見え、石がもう一つ、僕が手足を伸ばしているその岩棚の 僕の頭から一フィートもないところにぶつかった。もちろん、このことの意味は明らかだ。モリアーティ は一人ではなかったんだ。共謀者は--そして一目見ただけでもその共謀者がどれほど危険な男か僕には わかった--教授が僕を襲う間ずっと見張っていたんだ。遠くから、僕に見られずに、彼は彼の友人の死 と僕が免れたことを目撃していたのだ。彼は待っていた、そしてそれから、回り道してがけの頂上に行き、 僚友のしくじったところをやり遂げようと努めていたのだ。
 それを考えるのに長くはかからなかったよ、ワトソン。再びあの冷酷な顔が崖の上にのぞくのが見え、 それがもう一つの石の前ぶれだと僕はわかった。僕は小道へと這い下りた。それは平気でできることではな かったよ。登るよりも百倍も難しいんだ。だが危険を顧みている暇はなかった。岩棚の端に手をかけぶら 下がった時、別の石がうなりを上げて通り過ぎていったからね。途中まで下りて僕は滑った、しかし神の 御加護により僕は裂き傷で出血しながらも小道に着地した。僕は逃げた、山々を越え十マイルも暗闇の中を、 そして一週間後、僕はフローレンスにいて、世界中誰も僕がどうなったのかを知らないと確信していた。
 たった一人にだけ打ち明けた--兄のマイクロフトだ。君には大変すまないと思ってるよ、ワトソン君、 だが僕が死んだと思わせることが極めて重要だったし、まったく確実なところ、君自身が真実と思わなかったら僕の不幸な最後の 顛末を説得力十分に書くことはなかったろう。この三年間、君に手紙を書こう と何度もペンを取ったが、いつも僕が恐れたのは君が僕に対する優しい心づかいから何か秘密を漏らす ような無分別をする気になるのではないかということだった。そういうわけでさっき君が僕の本をひっ くり返した時、僕は踝を返して君から離れたんだ。あれは危険な瞬間で、君が少しでも驚いたり感激したりす る様子を見せたら僕の正体に注意を引き、ひどく嘆かわしく取り返しのつかない結果になったかもしれな いのだ。マイクロフトには必要な金を得るために秘密を打ち明けざるをえなかった。ロンドンでのことの 成り行きは僕の望んだようには進まず、モーリアティ一味の裁判ではもっとも危険なメンバーが二人、僕 にとっても最も執念深い敵が自由のままとなった。それで僕は二年間チベットを旅してラサを訪れ、 ダライラマと数日過ごして楽しんだ。君はシゲルソンというノルウェー人の非凡な探検記を読んだかもし れないが、友人の近況を受け取っているとはきっと思いもつかなかったことだろうね。それから僕はペルシャを 通り、メッカに立ち寄り、それからハルツームにハリファを訪ねたのは短期間だがおもしろかった。その結 果は外務省に伝えたよ。フランスに戻った僕は数ヶ月をコールタールの誘導体の研究に費やした、南フラン スのモンペリエの実験室でね。これに満足な結論を得た僕が今ロンドンにいる敵は一人だけであると 聞き知って、まさに帰ろうとしていた時に僕の行動をせきたてるようにこの非常に注目すべきパークレー ンのミステリーのニュース、というわけだが、これはこれ自体の真価が僕を引きつけるだけでなく、ここ でしか得られないある個人的な好機を提供してくれるように思えたのだ。直ちに僕はロンドンにやってき て自らベーカー街を訪ね、ハドソン夫人をひどいヒステリーに陥らせ、マイクロフトが僕の部屋と書類を 正確にいつもあったとおりに保存していてくれたことを知った。そういうわけで、ワトソン君、今日 の二時には僕は懐かしい自分の部屋の懐かしい肘掛け椅子に座って、あとはただ懐かしい友のワトソンが 昔そうだったようにもう一方の椅子に納まった姿が見られたらと思うばかりだったよ。」
 あの四月の宵に私が聞いた驚くべき物語はこのようなものだった--再び見られるとは思いもしなかっ た背の高いやせた姿、鋭く熱意に満ちた顔を現に見て確かめられることでなかったら、まったく信じられなかったで あろう話だ。どこからか私自身の悲しい死別の事を聞いていた彼は、言葉よりむしろ態度で同情を 示した。「仕事は悲しみの最良の解毒剤だよ、ワトソン君、」と彼は言った、「そして僕には一つ、今夜我々二人 でするべき仕事があり、それを成功裡に終わらせることができれば、それ自体この惑星の上 の一人の男の人生を正当なものとすることになる。」私はもっと話してくれと求めたがむだだった。「朝まで には十分見聞きできるよ」と彼は答えた。「僕らには三年分の積もる話があるじゃないか。九時半までは それを満足させようよ。それから世にも稀なる空き家の冒険を始めるんだ。」
 その時刻に、昔とまったく同じように、僕は辻馬車のホームズのそばに座り、リボルバーをポケットに、 冒険に心をわくわくさせていた。ホームズは冷静で人を寄せつけぬ顔をして黙っていた。街灯の薄明かりが 彼の厳しい顔の上にひらめいた時に見ると、もの思いに眉は寄せられ、薄い唇は固く結ばれていた。私は、 犯罪の闇のジャングル、ロンドンで私たちがどんな野獣を捕らえようとしているのか知らずとも、 この狩猟の名人の態度からこの冒険が極めて重大なものであることを十分確信したが、彼の苦行者のような陰鬱の中 に時おり垣間見える皮肉な笑みは私たちの追求の対象にとってよい兆しではなかった。
 行く先はベーカー街と私は思っていたが、ホームズはキャベンディッシュスクエアの角で馬 車を止めた。彼が外に出る際左右に非常に鋭い目配りをし、その後も通りの角に来 るたびに最大限、心を砕いてつけられていないことを確かめているのに私は気づいた。私たちのた どった道筋は確かに奇妙なものだった。ホームズのロンドンのわき道に関する知識は並外れたものであり、 彼はこの際、すばやく確かな足取りで、私がその存在すら知らなかった網目状の路地や厩舎を通り ぬけた。最後に私たちは古く陰気な家の並んだ狭い道へ出て、そこを通りマンチェスター街、そしてブラ ンドフォード街へと着いた。そこで彼はさっと狭い抜け道へ曲がり、木の門を通り荒れ果てた庭に 入り、それから鍵で一軒の家の裏口のドアを開けた。私たちは一緒に中へ入り、彼が背後の戸を閉めた。
 そこは真っ暗だったが、その家が空き家であることは明らかだった。足元のむき出しの床板がきしんだ り裂けたりして音を立て、さし伸ばした手に触れた壁からは壁紙が破れてぶら下がっていた。私の手首を 締め付けるホームズの冷たく細い指に導かれて進み、長い玄関ホールに着くと、ドアの上の陰気な明かり 取りがぼんやりと見えた。ここでホームズが不意に右手に折れると、私たちは、隅はすっかり陰になっ ているものの中央は向こうの街路の明かりにかすかに照らされた大きな、四角い空き部屋にいることに気 づいた。近くにランプもなく窓は厚いほこりにおおわれていたので、その中で私たちはかろうじて互いの 姿を認められるだけだった。私の友はその手を私の肩に置き、唇を私の耳に近づけた。
 「僕たちがどこにいるかわかるかい?」彼はささやいた。
 「もちろんベーカー街だ」と私はほの暗い窓越しにじっと見つめながら答えた。
 「その通り。僕たちは懐かしい我らが住み処の反対側に立つカムデンハウスにいる。」
 「しかしなぜここに?」
 「あの絵のような建築物のすばらしい見晴らしが望めるからさ。すまないが、ワトソン君、姿を見せ ないようあらゆる注意を払い、少し窓に近づいて、僕たちの懐かしい部屋を見てくれないか--数多くの 僕たちの小さな冒険の出発点を。三年の不在が僕から君をびっくりさせる力をすっかり奪ってしまったか どうか見てみようよ。」
 私は這うようにして進み、見慣れた窓を通り越しに見た。そこに目を向けた私は息を呑み驚きの叫びを あげた。ブラインドは下りていたが、室内は強烈な灯りが輝いていた。中の椅子に座った男の影が、窓 の明るいスクリーンにくっきりとした黒い輪郭として投影されていた。その頭のバランス、角張った肩、 鋭い顔つきを見間違えようがなかった。顔は半ば振り向けられ、私たちの祖父母が好んで額縁に入れたシ ルエットの一つといった印象だった。それはホームズの完璧な複製だった。すっかりびっくりした私は その人本人がそばにいることを確かめるためあわてて手を伸ばした。彼は小刻みに揺れながら声を殺して 笑っていた。
 「それで?」と彼は言った。
 「何とまあ!」私は叫んだ。「信じられん。」
 「僕の変幻自在が歳月により衰え、習慣により生気を失わないよう期待するよ。」と彼は言ったが、私 は彼の声の中に芸術家が自分の創造に抱く喜びと誇りを認めた。「本当にずいぶん僕に似ているじゃな いか?」
 「あれは君だと誓ってもいいところだ。」
 「制作の名誉は何日もかけて型を造ったグルノーブルのムッシュ・オスカー・ムーニエに与えるべきだろ う。あれは蝋でできた胸像だ。あとは僕が今日の午後ベーカー街を訪ねたときに自分で準備したんだ。」
 「だがなぜ?」
 「それはね、ワトソン君、実際は別の場所にいる僕をそこにいるとある人たちに思ってもらいたい極めて強 い理由があるんだ。」
 「では部屋は監視されていると考えたんだね?」
 「監視されている事を知っていたんだ。」
 「誰に?」
 「古い敵たちだよ、ワトソン。その首領がライヘンバッハの滝に眠っている素敵な集団だ。僕がまだ生 きていることを彼らが知っていたことを、そして彼らだけが知っていたことを忘れてはいけないよ。いず れ僕が自分の部屋に戻るものと彼らは信じた。彼らはずっと監視を続け、今朝僕が到着するところを見たのだ。」
 「どうしてわかった?」
 「窓から外をちらっと見て彼らの歩哨に気づいたんだ。これはまったく害のないやつだ、パーカーと言 う名の強盗稼業の奴で、優れた口琴の演奏家だがね。彼の事はどうでもよかった。しかし僕が大いに腐心した のは彼の背後にいるはるかに恐ろしい人物、モリアーティの腹心の友であり、崖の上から岩を落とした男で あり、ロンドンで最も狡猾で危険な犯罪者だ。その男は今夜、僕の追っ手であり、そしてねワ トソン、その男は僕たちが彼の追っ手であることにまったく気づいていないのだ。」
 私の友人の計画は次第にその姿を現してきた。この手ごろな隠れ家から監視者が監視され、追跡者が 追跡されているのだ。向こうの骨ばった影はえさであり、私たちが狩人なのであった。私たちは沈黙して 暗闇の中に並んで立ち、私たちの前を一人また一人と速足に通り過ぎる人影を見張っていた。ホームズは無 言で身動きしなかった。しかし彼が鋭い注意を払っていること、そして彼の真剣な目が通行人の流れにじ っと向けられていることはわかった。それは寒く、荒れた夜で、長い街路に沿って風が激しくうなりをあげ ていた。たくさんの人々があちらへこちらへと動き、その多くはコートやマフラーに身を包んでいた。 一、二度、私は前と同じ人影を見たように思い、とりわけ通りをかなり行った家の戸口に風を避けて 隠れたらしい二人の男が目についた。私は友の注意を彼らに向けようとしたが、彼はいらだたしげに小さな 叫び声をあげ、街路を凝視し続けた。一度ならず彼は貧乏揺すりをしたり、せわしく指で壁をたたいたりした。 彼が不安を感じ始め、彼の計画が必ずしも思ったとおりにいってないことは明らかだった。とうとう 真夜中が近づき、次第に人通りがなくなると、彼は動揺を抑えきれずに部屋を行ったりきたり歩き始めた。 何か彼に意見を言おうとしかけて明るい窓の方へ目を上げた私はまたもや前に劣らぬ激しい驚きを感じた。 私はホームズの腕をつかみ、上を指差した。
 「影が動いた!」私は叫んだ。
 実際、それはもう横顔ではなく、背中が私たちの方に向けられていた。
 どうやら三年という月日が、彼の辛らつな気性や自分より知性の働きの劣るものに対する苛立ちを静め る事はなかったようだ。
 「もちろん動いたさ」と彼は言った。「僕はそんなへまをするような間抜けかね、ワトソン、明らかに 人形とわかるものを立てておいてヨーロッパで最も抜け目のない男たちの中に騙される奴がいると思うほど? 僕たちはこの部屋に二時間いるが、ハドソンさんはあの人影に少しずつ八回変化をつけている、すな わち十五分ごとに一度ずつ。彼女は自分の影が決して見えないように正面からやってるんだ。ああ!」彼が興奮 して鋭く息を飲む音がした。ほの暗い光の中、彼が首を前に伸ばし、全身をこわばらせて注意を傾けるの が見えた。外はまったく人通りがなかった。例の二人の男はまだ戸口にしゃがんでいるのかもしれ なかったが、もう私からは見えなかった。すべてが静かで闇の中にあり、ただ私たちの正面の、中央に 黒く人影を描き出すスクリーンだけが黄色く輝いていた。再びまったくの静寂の中、私は押し殺した激 しい興奮を物語るかすかなシューという音を聞いた。その直後に彼は私を部屋のいちばん暗い隅に引き寄 せ、私は唇に警告を与える彼の手を感じた。私をつかむ指は震えていた。かって私の知らぬほど友は心を 動かされていたが、それなのに暗い通りは依然として寂しく何の動きもなく私たちの前に伸びていた。
 しかし不意に私は彼の鋭敏な感覚が既に識別していたものに気づいた。低い、ひそかな音 が私の耳に達したが、それはベーカー街の方からではなく、私たちが潜んでいるその家の裏からであった。 ドアが開き、そして閉じた。一瞬の後、足音が廊下を忍び寄った--音を立てまいとした歩みではあった が、耳障りな音が空き家に響き渡った。ホームズは壁を背にうずくまり、私もリボルバーの柄に手を 伸ばしながら同じようにした。じっと暗がりを凝視すると、ぼんやりした男の輪郭、開いた戸口の黒よ りさらに黒い陰影が見えた。彼は一瞬立ち止まり、それからかがみ、威嚇するようにして、部屋の前 方へそっと進んだ。私たちから三ヤードもないところにこの不吉な姿はあり、私は彼の跳躍に対処するた めに身を引き締めたが、すぐに彼が私たちの存在を知らないことに気づいた。彼は私たちのすぐそば を通り、窓に忍び寄り、それをそっと音を立てぬように半フィートほど持ち上げた。彼がこの隙間 の高さまで身を沈めると、それまでほこりだらけのガラスにかすんでいた街路の光がまともに彼の顔に あたった。男は興奮して我を忘れているようだった。その二つの目は星のように輝き、顔の造作は痙攣す るようにひきつっていた。彼は初老の男で、やせて突き出た鼻、高くはげた額、そして大きな白髪交じり の口ひげがあった。オペラハットは後頭部に押しやられ、夜会服のシャツの胸がコートからのぞいて いた。やせて日に焼けた顔には深く、残忍なしわが刻まれていた。手にはステッキと思われるものを持っ ていたが、それを床に置いた時には金属製のガチャンという音がした。それから彼はコートのポケットから かさばる物を引き出し、何かせっせとやっていたが、バネかボルトがぴったりはまったような、カチッと いう大きな鋭い音でそれは終わった。なおも彼が床にひざまずいたまま前かがみになり、全体重と力を何かの レバーにかけると、長々しい、ぐるぐる回ってうすを引くような物音が、それから最後にもう一度力強く カチッと鳴る音がした。そして彼が身体を伸ばすと、彼がその手に抱えているのは奇妙な格好の台尻のつい た一種の銃であるとわかった。彼はその銃尾のところを開け、何かを入れ、遊底をぱちりと鳴らし た。それから彼がかがみこみ、開いた窓の棚に銃身の端を載せると、私には銃床に垂れかかる長い口ひげ と、照準を凝視してきらめく彼の目が見えた。彼が銃の台尻を肩に抱き、あの驚くべき標的、すなわち 彼の前景の先にくっきりと立つ黄色い下地に浮かぶ黒い男を見た時の小さな満足のため息を私は聞いた。 一瞬、彼はこわばり、静止した。それから彼の指がぴんと張って引き金にかかった。高い、不思 議な音が風を切り、長い、銀鈴のようなチリンチリンという音を立てガラスは壊れた。その瞬間ホームズが虎の ように狙撃手の背に飛びかかり、彼をばったりうつぶせに投げ倒した。すぐに男は起き直り、必死に力をふり しぼってホームズののどをつかんだ。しかし私がリボルバーの台尻で彼の頭を打つと、彼は再び床に倒れ た。私が彼の上にのしかかり、彼を取り押さえると、我が友が鋭く合図の呼子を吹いた。ガタガタと舗道を走 る足音がして、二人の制服の警官と私服の刑事が表玄関から部屋に駆け込んできた。
 「君かい、レストレード?」ホームズが言った。
 「ええ、ホームズさん。私自ら乗り出したんで。あなたがロンドンに戻られてよかったです。」
 「君たちにはちょっと私的な助力が必要だと思ってね。年に三件も殺人を見逃してはいけないよ、レストレ ード。だが君、モルゼイのミステリーはいつもの君に似合わず--つまりなかなか君はよくやったね。」
 私たちは皆立ち上がっていたが、我らが捕虜は両側をたくましい巡査に挟まれ荒い息をしていた。すで に通りには暇人が少し集まり始めていた。ホームズは窓に歩み寄って閉め、ブラインド を下ろした。レストレードがろうそくを二つ取り出し、巡査たちはランタンの覆いをはずした。やっと捕虜 がよく見えるようになった。
 恐ろしく力強いけれども邪悪な顔が私たちに向けられていた。上には哲学者の額、下には好色漢のあ ごを持つこの男は、善行にせよ悪行にせよすばらしい能力を与えられていたにちがいない。しかし冷笑的な まぶたの垂れかかるその冷酷な青い目、凶暴で攻撃的な鼻、険悪なしわの深い額を見れば、誰でも自然が与 えた明々白々な危険信号を読み取らざるをえなかった。彼は私たちの誰にも注意を払うこ となく、ただ憎しみと驚きが等しく入り混じった表情でホームズの顔にじっと目を据えていた。「この 悪魔!」彼はつぶやき続けていた。「この賢しい、賢しい悪魔!」
 「ああ、大佐!」とホームズは乱れた襟を整えながら言った。「昔の芝居にある『 旅路の果ては恋人同士の出会い』だな。ライヘンバッハの滝の上の岩棚に横になっていた時にあのような親 切を賜って以来、拝顔の光栄には浴さなかったようだね。」
 大佐はなおも催眠術にかかったように我が友の顔を見つめていた。「この悪賢い、悪賢い悪魔!」と彼はやっ とそれだけを言った。
 「まだ君を紹介していなかったな」とホームズは言った。「諸君、セバスチャン・モラン大佐です、か っては女王陛下のインド陸軍に属し、我が東方の帝国がこれまでに生んだ猛獣狩りの最高の射撃手であります。これ は間違っていないと思うが、大佐、君が獲物にしたトラの数はいまだに並ぶものがなかったね。」
 凶暴な老人は何も言わなかったが、なおも我が友をにらみつけていた。残忍な目と逆立つ口ひげの彼自 身が驚くほどトラに似ていた。
 「僕の極めて単純な策略がこのように老練な狩人を騙せたのは不思議だな」とホームズは言った。「君 にはまったくなじみのものじゃないか。子ヤギを木の下につないでその上で銃を手に、えさがトラを呼 び寄せるのを待ったことはないかね?この空き家が僕の木で、君が僕のトラさ。あるいは君もトラが複数 いる場合や君の狙いがはずれるのではないかという万一に備えて複数の銃を用意しただろう。この人た ちが、」彼は周囲を指した、「僕の複数の銃だ。まったくよく似ているじゃないか。」
 モラン大佐は憤怒のうなり声を上げて前に飛び出したが、巡査たちに引き戻された。その顔に浮かべた 怒りは見るも恐ろしかった。
 「実を言うと一つちょっと驚いたことがある」とホームズは言った。「君自身がこの空き家、このおあ つらえ向きの正面の窓を使うのは予期していなかった。僕は君が通りから作戦行動をとると想像していたものだから、 友人のレストレードと彼の愉快な仲間たちは通りで君を待っていたんだ。それを除けばすべてが期待通りに 運んだよ。」
 モラン大佐は公職の探偵に顔を向けた。
 「君に私を逮捕するだけの根拠があるにせよないにせよ、」彼は言った、「少 なくともこの人物の愚弄を私が甘受しなければならん理由はなかろう。私が法の手にあるのならことは法 律にしたがってやってもらおう。」
 「そりゃあまったくもっともです」とレストレードは言った。「おっしゃるべきことはもうありませんか、 ホームズさん、我々が行く前に?」
 ホームズは強力な空気銃を床から拾い上げ、その仕組みを調べていた。
 「見事かつ独特な武器だね」と彼は言った。「音もなく、すさまじい力を持つ。フォン・ヘルダー、盲 目のドイツ人技師で、故モリアーティ教授の注文でこれを組み立てた男のことは知っていたよ。長年その存在に は気づいていたんだが手に取る機会はこれまでなかったんだ。これに注意を払うよう、特別にお願いする よ、レストレード、それからこれにつめる銃弾にも。」
 「それには気をつけますから大丈夫です、ホームズさん」とレストレードが言った時には全員がドアに 向かっていた。「何か他には?」
 「あとは何の罪で告訴するつもりか聞くだけだ。」
 「何の罪ですって?なに、もちろん、シャーロック・ホームズ氏殺害未遂です。」
 「そうじゃないよ、レストレード。僕はこの問題で顔を出すつもりはまったくないんだ。君の、君だけのものだ、 この君が成し遂げたすばらしい逮捕の栄誉は。そうだ、レストレード、おめでとう!いつものように君の 狡猾さと図太さが運良く重なり合って彼を捕らえたのだ。」
 「彼を捕らえた!誰を捕らえたんで、ホームズさん?」
 「全警察がむなしく捜索していた男--セバスチャン・モラン大佐、彼は先月三十日、パー クレーン427の三階正面の開いている窓越しに空気銃の広がる銃弾でロナルド・アデア卿を撃った。それ が容疑だ、レストレード。さてと、ワトソン、壊れた窓からのすきま風を我慢できるなら、僕の書斎で三 十分ばかり葉巻を楽しむのも何か得るところがありそうじゃないか。」
 私たちの懐かしい部屋はマイクロフト・ホームズの管理と直接的にはハドソン夫人の世話によりそのま ま残されていた。入ってみると、なるほどかってなく整頓されていたものの、目につくものは皆、昔の 場所にあった。化学の一角と酸のしみのあるモミ板のテーブル。棚の上に並んだ膨大なスクラップブック や参考図書は喜んで焼いてしまいたいという市民も我が街には少なくないことだろう。いろいろな図式、バ イオリンのケース、パイプ立て--タバコの入ったペルシャの室内履きまで--すべてが周りを見渡す 私の目に入ってきた。部屋には二人の人がいた--一人はハドソン夫人で、中に入る私たち二人にほほ えみかけた。もう一人はこの夜の冒険で非常に重要な役割を演じた不思議な替え玉人形である。その蝋色の我 が友の模型は見事なできばえで、完璧な複製であった。小さなテーブルの台座に立ち、ホームズの古い部 屋着をまとっていたので、通りから錯覚することは絶対に間違いなかった。
 「最大限、用心してくれましたね、ハドソンさん?」
 「ひざをついて近づきましたよ、おっしゃったとおりに。」
 「結構。非常にうまくやってくれました。銃弾がどこへ行ったか見ましたか?」
 「ええ、ええ。惜しいことに立派な胸像をだめにしてしまいましたわ、まっすぐ頭を貫通して壁にぶつ かってぺしゃんこですから。じゅうたんから拾い上げておきました。さあこれよ!」
 ホームズはそれを私に差し出した。「柔らかい拳銃の弾だ、わかるだろ、ワトソン。これぞ天才だ、だ ってこんなものが空気銃から発射されたなんて誰が発見できるものかね。結構ですよ、ハドソン さん、あなたの助力に深く感謝します。さてと、ワトソン、もう一度懐かしい椅子に座ったところを見せ てくれないか、いくつか君と話し合いたい点もあるし。」
 彼はみすぼらしいフロックコートを脱ぎ捨て、今は彫像から取ったねずみ色の部屋着を着て、昔のホーム ズであった。
 「老狩人はそのゆらぎない神経も鋭い目も失っていないね」と彼は胸像の粉砕された額を調べて笑いな がら言った。
 「垂直に後頭部の中央に、そしてまともに脳を貫いて。彼はインド随一の射撃手であり、ロンドンでも 彼に勝る者はほとんどいないと思うよ。名前は聞いたことがあるかい?」
 「いや、聞いたことがないね。」
 「おやおや、名声なんてそんなものか!だがそれにしても、確か君は今世紀の偉大な頭脳の一人、 ジェイムズ・モリアーティ教授の名を知らなかったな。ちょっと棚から僕の人名索引をとってくれたまえ。」
 彼は椅子の背にもたれ、葉巻の煙をもうもうと吹かしながらけだるそうにページをめくった。
 「僕のコレクションのMの部は見事なものだ」と彼は言った。「モリアーティその人だけでどの部に入れようと それを輝かしいものにするし、ここには毒殺者のモーガン、いまわしい思い出のメリデュー、そしてマシュー ズ、これはチャリングクロスの待合室で僕の左の犬歯を折った男だ、そして、最後に、ここに今夜 の僕たちの友人がいる。」
 彼がその本を手渡し、私は読んだ。
 「モラン、セバスチャン、陸軍大佐。無職。元ベンガル工兵第一部隊。1840年、ロンドン生まれ。サー・ オーガスタス・モラン、バス勲位、元ペルシャ公使の子。イートン及びオックスフォードに学ぶ。ジョワ キ戦役、アフガン戦役、チャラシアブ(派遣)、シャプール、カブールで軍務に服す。著書に『西ヒマラ ヤの猛獣』1881年、『ジャングルの三ヶ月』1884年。コンジューィト街在住。英印、タンカービル、バ ガテルクラブに所属。」
 余白にはホームズの几帳面な字で書き込まれていた。
 「ロンドン第二の危険な男」
 「これは驚きだ」と私は本を返しながら言った。「この男の経歴は名誉ある軍人のものじゃないか。」
 「その通り」とホームズは言った。「あるところまではよくやったのだ。常に鉄の神経を持つ男であり、 手負いの人食いトラを追って排水路を這い下りた話はインドではいまだに語り草だよ。木だってそうだ、 ワトソン、ある高さまで育って、それから突然見苦しく奇妙な具合に伸びるものがある。人間でもし ばしば見られるものだ。僕の考えでは、個人の発育は祖先の歩みのすべてを表し、こうした善もしくは悪 への突然の転換は代々血筋に受け継がれた強い影響力の表れなんだ。人は、いわば、一門の歴史の縮図に なるのだ。」
 「どうみてもかなり奇抜な考えだね。」
 「まあ、言い張りはしないがね。原因は何にせよ、モラン大佐は正道を踏み外した。何かあから さまな醜聞があったわけではないが、それでも彼はインドにはいたたまれなくなった。退役して、ロンド ンに来て、ここでもまた悪名を得た。この時彼はモリアーティ教授に見出され、しばらくスタッフの長を 務めた。モリアーティは彼に気前よく金を与え、一度か二度、普通の犯罪者では請け負いかねる非常に高級な 仕事にだけ彼を使った。君は1877年、ローダーのスチュアート夫人の死について何か記憶がないかな。 ない?そう、モランが黒幕であるのは間違いないんだ。だが何も証明できなかった。モリアーティ 一味が壊滅させられた時でさえ大佐は実に巧妙に隠れていたので、彼を有罪にはできなかった。あの日のことを覚え ているかな、僕が君の部屋を訪ねた時、空気銃をひどく恐れてよろい戸を閉めたろう?きっと君は僕の妄 想と思ったにちがいない。僕は自分のしていることを正確に知っていた、この驚くべき銃の存在を知 っていたし、その背後に世界最高の狙撃手の一人がいることもわかっていたからね。スイスでも彼はモリ アーティとともに僕たちを追っていたし、あのライヘンバッハの岩棚で最悪の五分間を僕にもたらしたの が彼であるのも疑いない。
 フランス逗留中も彼に足かせをかける機会を求めていささか注意して新聞に目を通していたんだ。彼がロンド ンで自由にしている限り僕の人生にまったく生きる価値はなかったろう。夜も昼も影 が覆っていたし、遅かれ早かれ彼に好機がめぐってきたにちがいないんだ。僕に何ができたろう?彼を見 つけ次第撃つことなどできない、僕自身が被告になってしまうからね。治安判事に訴えても無駄だ。彼らもでたらめ に思える容疑をもとに乗り出すわけにはいかない。だから僕は何もできなかった。しかし遅か れ早かれ彼をつかまえなければならないのはわかっていたので僕は犯罪事件のニュースを注意して見てい た。そこへ今度のロナルド・アデアの死だ。やっと僕のチャンスが来たのだ!僕の知っていることからすれば、 モラン大佐がやったことなのは確かじゃないか?彼は若者とカードをし、クラブから家まで後をつけ、開いた窓 越しに彼を撃った。それはまったく疑いないことだった。弾丸だけでも彼の首に縄をかけるに充分だ。 僕は直ちにやってきた。僕は歩哨に見られたが、彼が大佐の注意を僕の存在に向けさせるのはわかっていた。 僕の突然の帰還を彼は必ず自らの犯罪と結びつけ、ひどく警戒するにちがいなかった。 直ちに彼が僕を片付けようと試みること、そのために殺人兵器を持ってくる ことは確かだと思った。僕は窓の中のすばらしい標的を彼に残し、そして、警察に彼らが必要になるかもしれない と通告した上で--ところでねえ、ワトソン、君は彼らがあの戸口にいるのを過たず的確に見つけ出した ね--監視するのに賢明と思われる持ち場についたのだが、彼が同じ場所を攻撃に選ぶとは夢にも 思わなかった。さて、ワトソン君、何か説明すべきことが残っているかな?」
 「ああ」と僕は言った。「まだモラン大佐がロナルド・アデア卿を殺すべき動機を明らかにしていない。」
 「ああ!それはねえワトソン、推測の域を出ないので、どんな論理的な考えとて間違いかもしれないんだ。 現在ある証拠からそれぞれ仮説を立てるとして、君のも僕のと同様正しそうだ。」
 「で、君は仮説を立てたんだね?」
 「事実を説明するのは難しくないと思う。証言で、モラン大佐とアデア青年の二人でかなりの金額 勝ったのが明らかになった。ところでモランは疑いなくいかさまをやる--それにはずいぶん前から僕は 気づいていた。殺人の日、アデアはモランが不正をしているのを発見したのだと思う。おそらく彼は内密に モランと話をして自発的にクラブの会員を辞めて二度とカードはやらないと約束しなければ暴露すると脅したのだ ろう。アデアのような若者がいきなり自分よりだいぶ年上のよく知られた男を暴いて醜いスキャンダルにす るのはありそうもないことだからね。たぶん僕の言ったような行動をとったろう。不正なカードでの儲けで暮 らしているモランにとってクラブからの排除は破滅を意味する。そこで彼はアデアを殺したのだが、 アデアはパートナーのいかさまプレーで儲けるわけにはいかないから、自分がいくら金を返さねばな らないかをその時計算していたのだ。ご婦人方が不意に入ってきてこれらの名前とコインで彼が何をしているのか教え ろと強要する、そんなことのないように彼はドアに鍵をかけた。話は通るかな?」
 「真実を言い当てたのを疑わないよ。」
 「裁判で正しいか誤りかがわかるだろう。一方、何にせよ、もうモラン大佐に悩まされる ことはないだろうし、有名なフォン・ヘルダーの空気銃はスコットランドヤード博物館を飾り、もう一度 シャーロック・ホームズ氏はロンドンの複雑な生活がたっぷりと与えてくれる興味ある小さな問題の調査 に彼の人生を捧げる自由を得たのだ。」

ノーウッドの建築屋(The Adventure of the Norwood Builder)

 「犯罪の専門家の見地からすると、」シャーロック・ホームズ氏は言った、「故モリアーティ教授が死 んでからロンドンは極めておもしろくない街になってしまった。」
 「多くの善良な市民の賛同を得られるとはとても思えないな」と私は答えた。
 「やれやれ、わがまま言ってはいけないね」と彼は、微笑み、椅子を押しやって朝食のテーブルから離れ ながら言った。「社会は間違いなく受益者であり、損をした者はいない、仕事がなくなってしまった哀れ な失業中の専門家を除けばね。あの男の活動中には朝刊が無限の可能性を提供してくれたものだ。たいて いそれはごく小さな痕跡だけだったがね、ワトソン、ごくかすかな兆候といえども、そこに偉大なる 邪悪な頭脳の存在することを僕に告げるに充分であり、それは巣の縁のごく穏やかな震えがその中央に 汚らわしいクモの潜むことを気づかせるようなものだ。けちな盗み、気まぐれな襲撃、無意味な乱暴--手 がかりを握るものにすればすべてが一貫した一つの統一体を成していたのだ。高等犯罪の世界を科学的に 研究する者に当時のロンドンはヨーロッパのどの首都も持ち合わせない利点を提供してくれた。ところが 今や----」彼は肩をすくめ、彼自身が大いに貢献して生み出した事態に対してユーモアをこめて非 難を表した。
 それはホームズが戻って数ヶ月後のことで、私は彼の頼みで開業地を売り、元のようにベーカー街の懐か しい住居を分け合っていた。バーナーという若い医師が私の開業するケンジントンの小さな土地を、驚いたことに 私が思い切って言った上限の値にほとんど異議も唱えず買ったのだ--数年後にバーナーがホームズの遠 い親戚であり、実際に金を工面したのは我が友であるとわかって初めてはっきり説明のついたことだ。
 私たちの共同の月日は彼が言うほど平穏無事だったわけではなく、というのは記録に目を通してみると、 この期間にはムリーリョ前大統領の文書の事件があり、それにまたオランダ汽船フリー スランドの衝撃的な事件ではあやうく私たち二人の生命も犠牲にするところであった。しかし彼の冷淡で 尊大な性格はどんな形にせよ大衆の称賛を嫌い、もうこれ以上彼自身、彼の方法、彼の成功について一言も語 ってくれるなと極めて厳重に私を縛っていた--禁止は、すでに説明したように、やっと今、解除 されたのだ。
 シャーロック・ホームズ氏が妙な抗議をした後、椅子の背にもたれ、のんびりと朝刊を広げ ていると、すさまじい音でベルが鳴って私たちの注意を引き、続いてすぐに誰かがこぶしで外のドアをた たいているような、ドンドンというこもった音が聞こえた。ドアが開くと騒々しく玄関になだれ込む音がして、 急ぎ足がガタガタと階段を登り、一瞬の後、興奮して半狂乱の若い男が、真っ青になって髪 を振り乱し、震えながら部屋に踊りこんできた。彼は私たちを順に眺め、物問いたげな視線にあっ て、この不作法な登場には謝罪の一つも必要と気づいた。
 「ごめんなさい、ホームズさん」と彼は叫んだ。「私を非難なさってはいけません。気がおかしくなり そうなんです。ホームズさん、私が不幸なジョン・ヘクター・マクファーレンです。」
 まるでその名前だけで彼の訪問にもその様子にも説明がつくといわんばかりに彼は声明した。だが我が 友の顔に反応が無いのを見ればそれが私同様彼にも意味の無いものであることがわかった。
 「タバコをどうぞ、マクファーレンさん」と彼は言ってタバコ入れを向こうへ押しやった。「あなたの 症状にはここにいる友人のワトソン博士が鎮静剤を処方してくれると思いますが。ここ二、三日やけに暖 かいですからねえ。さて、いくらかでも落ち着かれたようでしたら、そちらの椅子に腰をかけてどうかゆっくりと冷 静にあなたがどなたで何を望んでいるのか、僕たちにお話しくださると嬉しいですね。僕に心当たりがあるのが当然のよう にお名前を口にされたが、あなたが独身、弁護士、フリーメーソンの会員、そして喘息であるという明らかな事実のほかに は何にせよ僕が何も知らないのは確かですよ。」
 私は友人の方法をよく知っていたので彼の推理についていくことも、乱れた身なり、法的 文書の束、時計の飾り、息遣いを観察してその結論に達することも難しくなかった。しかし私たちの依頼 人はびっくりして目を見張った。
 「そうです、まったくその通りです、ホームズさん、付け加えるなら私はこの瞬間、ロンドンで最も 不幸な男です。どうか私を見捨てないでください、ホームズさん!私が話し終える前に彼らが逮捕しに来 たら、すべての真実をあなたに語るだけの時間をもらってください。私のために外であなたが働 いていると知っていれば、喜んで拘置所に行きましょう。」
 「逮捕する!」とホームズが言った。「そいつはまったく非常にうれし--非常に興味あることです。何の罪で 逮捕されるとお思いで?」
 「ロワ・ノーウッドのジョウナス・オールデイカー氏殺害の罪で。」
 我が友の顔の表情は同情を示していたが、そこに満足がまったく混じっていなかったとは言えないと思 う。
 「これはこれは」と彼は言った。「たった今もね、朝食の時に友人のワトソン博士にセンセーショナル な事件は新聞から姿を消してしまったと言っていたんですよ。」
 私たちの客は震える手を前に伸ばして、まだホームズのひざの上にあったデイリーテレグラフを取り 上げた。
 「これをご覧になっていれば、私が今朝こちらに来た用向きが一目でわかったことでしょう。私には私の名前、私の不幸 がすべての人の口の端にのぼっているにちがいないと思われるのです。」彼はそれをめくって中央のページを広げた。「 ほらここです。よろしければ私が読みましょう。聞いてください、ホームズさん。見出しはこうです。『 ロワ・ノーウッドの謎の事件。有名な建築業者の失踪。殺人、放火の疑い。犯人の手がかり』。その手がかり を彼らは追っているんです、ホームズさん、そして私はそれが絶対確実に私につながると知っています。 私はロンドン橋駅からつけられていましたし、彼らがただ逮捕状を待っているだけなのは確かです。母は ひどく悲しむでしょう--ひどく悲しむでしょう!」彼は心痛のあまり両手をねじり合わせ、 椅子の中で身体を前後に揺らした。
 私は凶悪犯罪の加害者として告発されているこの男を興味を持って眺めた。亜麻色の髪でハンサム、疲れき った悲観的な様子で、おびえた青い目ときれいにひげをそった顔、弱々しく感じやすい口元をして いた。歳は二十七にはなっていたろうか。服装、態度は紳士のそれだった。明るいサマーコートのポケッ トから彼の職業を示す、裏書した書類の束がはみ出ていた。
 「持ち時間を利用しなければ」とホームズは言った。「ワトソン、すまないが一つその新聞の問題の記 事を読んでくれないか?」
 私たちの依頼人の引用した迫力ある見出しの下の、次のような暗示的な本文を私は読んだ--
 昨夜遅く、あるいは今朝早く、ロワノーウッドで起きた事件は重大な犯罪となる恐れがある。ジョウナ ス・オールデイカー氏はそのあたりの郊外ではよく知られた住民であり、現地で多年にわたり建築業を営んできた。オール デイカー氏は独身、五十二歳で、ディープディーン街道のシドナム側の端にあるディープディーンハウスに住 んでいる。風変わりな性質、秘密主義で打ち解けない人という評判だった。ここ数年はすでにかなりの資産を 残したと言われる事業から事実上引退していた。しかし家の裏手にはまだ小さな材木置き場があり、 昨夜十二時ごろ、積まれた木材の一部から出火したとの警報があった。消防車はすぐに現場に到着したが、 乾いた材木は激しく燃え、大火を阻止するのは不可能で、積まれた木材は完全に焼き尽くされた。この 時点ではこの出来事も普通の事故の様相を呈していたが、新たに発見された兆候は重大な犯罪を示すものと思われる。 火災の現場にこの世帯の主人が見えないことに驚きの声が上がったため取調べが行われ、その結果、 オールデイカー氏が家から姿を消したことがわかった。氏の部屋の調査から明らかになっ たのはベッドで寝た形跡がないこと、、室内の金庫が開けられ、たくさんの重要書類が部屋のあちこちに 散乱していること、そして最後に、殺害を思わせる争いの痕があり、かすかな血痕が室内で見つかり、 柄にやはり血のしみのついたステッキがあったことである。ジョウナス・オールデイ カー氏は昨夜遅く寝室に客を迎えたことがわかっており、見つかったステッキはその人物の持ち物と確認 された。男の名はジョン・ヘクター・マクファーレン、ロンドンの若い弁護士で、イースト・セントラル のグレシャムビル426のグレアムアンドマクファーレンの所員である。警察は犯罪の動機としてきわめて説得力のあるもの となる証拠を握っていると考えており、以上よりセンセーショナルな進展を見せるのは疑いない。
 最新情報--印刷にまわそうとしたところ現にジョン・ヘクター・マクファーレン氏がジョウナス・オー ルデイカー氏殺害の容疑で逮捕されたという噂が入った。少なくとも令状が発行されたのは確かであ る。ノーウッドでの調査ではさらに不吉な進展があった。不幸な建築業者の室内の争いの形跡のほかにも、 現時点で、寝室(一階にある)のフランス窓が開いていたこと、何かかさばるものを材木の山のところ まで引きずったような跡があることがわかっており、さらに最後に、火災により炭化した灰の中に黒焦げ の遺体が発見されたとの主張がある。警察の説では最もセンセーショナルな犯罪が行われ、被害者は 自分の寝室で殴打されて死に、書類は荒らされて盗まれ、遺体は材木の山のところまで引きずられ、それ から犯罪のすべての痕跡を隠すために火をつけられたとのことである。犯罪調査の指揮はスコットランド ヤードのベテラン、レストレード警部に委ねられ、警部はいつもの行動力、明敏さで手がかりを徹底的に追 跡している。
 シャーロック・ホームズは目を閉じ、指先を合わせてこの驚くべき記事に耳を傾けていた。
 「確かに事件には いくつかおもしろい点がある」と彼はいつもの気乗りしない様子で言った。「訊い てもよろしいですか、まず第一に、マクファーレンさん、あなたがいまだに自由とはどういうことですか、 だってあなたの逮捕を正当化する証拠は充分と思われますからね。」
 「私はブラックヒースのトリントンロッジに両親と住んでいます、ホームズさん。しかし昨夜は非常に 遅くにジョウナス・オールデイカー氏と仕事をしなければならず、ノーウッドのホテルに泊まり、そこから 仕事に向かいました。列車に乗って今あなたがお聞きになったものを読むまで、私はこの事件のことは何 も知りませんでした。私はすぐに恐ろしく危険な立場にいると知り、この件をあなたに任せようと急いで 来ました。シティのオフィスか家にいたら逮捕されていたのは確かだと思います。ロンドン橋駅から男が つけていましたし、疑いなく--おや、あれは何でしょう?」
 それはベルがガランと鳴る音で、すぐに階段の重々しい足音が続いた。一瞬の後、旧友、レストレード が戸口に現れた。彼の肩越しの外に制服の警官が一人か二人、ちらりと見えた。
 「ジョン・ヘクター・マクファーレンさん?」とレストレードが言った。
 不幸な依頼人は幽霊のような顔で立ち上がった。
 「ロワノーウッドのジョウナス・オールデイカー氏故殺の容疑で逮捕します。」
 マクファーレンは絶望のしぐさで私たちを見やり、打ちひしがれたようにもう一度椅子に沈み込んだ。
 「ちょっと待ってくれたまえ、レストレード」とホームズが言った。「三十分くらいの違いは君にとって何でもないだろう し、こちらの紳士がこの非常に興味深い事件の説明をなさろうとしていたところで、事件を解く助けになる かもしれないよ。」
 「事件を解くのに難しいことは何もないだろうと思いますが」とレストレードはいかめしく言った。
 「それでもね、君の許しを得て、ぜひこちらの話を聞いてみたいところだがねえ。」
 「そうですね、ホームズさん、あなたには何事にせよお断りしにくいですね、あなた には前にも一二度警察の役に立っていただいてますし、スコットランドヤードとしてもお返しをしなけれ ばね」とレストレードは言った。「同時に私は容疑者とともに残らねばなりませんし、そのいかなる発言 も不利な証拠となりうることを義務として警告します。」
 「何よりです」と私たちの依頼人が言った。「お聞きになって粉う方ない真実を認めていただきたいだ けなんです。」
 レストレードは時計を見た。「三十分だけ差し上げましょう」と彼は言った。
 「まず説明すべきは、」マクファーレンは言った、「ジョウナス・オールデイカー氏については何も知 らなかったことです。名前はよく存じてました。だいぶ前に両親と知り合いだったからですが、疎遠にな っていました。ですから昨日になって、午後三時ごろのことですが、あの人がシティの私のオフィスに来た 時は非常に驚きました。しかしあの人がその訪問の目的を話した時にはもっとびっくりしました。いっ ぱいに走り書きをしたメモ帳から切り取った紙を数枚手にして--これです--テーブルに置きました。
 『私の遺言書です』とあの人は言いました。『これをね、マクファーレンさん、法に適った形式にして 欲しいのです。その間、ここに座っていますから。』
 私はその写しに取り掛かりましたが、いくつかの条件つきで、あの人が私にすべての財産を遺すことを知 った時の私の驚愕はご想像がつきましょう。どこか妙な、小柄で、白いまつげのフェレットのような人で、 私が目を上げると、面白がるような表情で、鋭い灰色の目をじっと私に据えていました。その遺言書の条項 を読んだ時、私は自分の目を疑いました。が、あの人は独身でほとんど親戚もこの世になく、若いころ私 の両親を知っていたし、私のことは常々、大変立派な青年と聞いていたし、それで金はふさわしい人の手にわたるものと思 っている、そうあの人は説明しました。もちろん私は感謝の言葉を口ごもるのが精一杯でした。退屈な作 業が終わり、遺言書に署名、そして事務員が証人として署名しました。青い紙のこれがそれで、こちらのメ モ類が、先ほど説明したように、大ざっぱな下書きです。それからジョウナス・オールデイカー氏はたく さんの書類--建物の賃貸契約、権利証書、抵当権、臨時紙幣、など--私も見て承知していることが必 要なものがあると告げました。あの人はすべてのことが決着するまで気持ちが落ち着かないからと言い、 問題を整理するため遺言書を持ってその晩ノーウッドの家にやってきてくれと私に求めたのです。『ねえ 君、忘れないでくれ、すべてが片付くまでこの件についてはご両親には一言もしないように。ちょっとし た不意の贈り物ということにしておこうよ。』この点についてあの人はひどく執拗で、私に固く約束さ せました。
 想像できるでしょう、ホームズさん、私があの人の頼みならどんなことでも断る気にならないことは。 あの人は恩人ですし、私の望みはあの人が願うことをあらゆる点において実行することだけでした。 そこで私は家に電報を打って、重要な仕事の最中なので、どのくらい遅くなるかわからないと伝えました。オ ールデイカー氏は、九時に夕食を共にして欲しい、それ以前には家にいないかもしれないので、と言いま した。しかしなかなかあの人の家が見つからなくて、私が着いた時には三十分近く過ぎていました。 あの人がいたのは--」
 「ちょっと待って!」とホームズが言った。「ドアを開けたのは誰です?」
 「中年の婦人で、家政婦では、と思います。」
 「ではそのひとですかね、あなたの名に言及したのは?」
 「その通りす」とマクファーレンは言った。
 「どうぞ続けて。」
 マクファーレンはじっとりした額をぬぐい、それから物語を続けた。--
 「この婦人に質素な夕食が並べられた居間に案内されました。その後、ジョウナス・オールデイカー氏 に導かれ寝室に行きますと、大きな金庫がありました。これをあの人が開け、多数の書類を取り出し、そ れを二人で調べました。終わったのは十一時と十二時の間です。あの人は家政婦の邪魔をしてはいけないと 言いました。この間ずっと開いていたあの人の部屋のフランス窓から私を送り出しました。」
 「ブラインドは下りていましたか?」とホームズは尋ねた。
 「確かなことは言えそうもないのですが半分だけ下りていたと思います。そうだ、窓を開けるためにあ の人が引き上げていたのを覚えています。私のステッキが見つかりませんでしたがあの人が言いまし た。『気にすることないよ君。これからは何度も会うことだろうと思うし、君のステッキは預かっておく からまた来た時にそう言ってくれ。』私はあの人をそこに残しました。金庫は開き、作成した書類は束 にしてテーブルの上でした。もう遅いのでブラックヒースに帰ることはできず、それでアナリーアームズ で夜を過ごし、朝、この恐ろしい事件について読むまではそれ以上何も知りませんでした。」
 「他に何かお訊きになりたいことは、ホームズさん?」と、この驚くべき説明の間、一二度眉をつり上 げたりしていたレストレードが言った。
 「ブラックヒースに行くまではないな。」
 「ノーウッドのことでしょう」とレストレードは言った。
 「ああ、そうだね。確かにそうじゃなきゃならないところではある」とホームズは謎めいた笑みを浮かべて 言った。レストレードは、彼に見通せぬことでもかのかみそりのような頭脳なら切り開くことができる、 と認めようとはしないまでも、幾多の経験から学んでいた。私は彼が友の顔を好奇の目で眺めるのを見た。
 「ちょっと今お話したいと思うのですが、シャーロック・ホームズさん」と彼は言った。「さ、マクファーレ ンさん、そこのドアに警官が二人いて、四輪馬車も待っています。」不幸な若い男は立ち上がり、最後に 懇願の目ををちらりと私たちに向け、部屋を出て行った。警官たちは彼を馬車に案内していったが、レストレ ードは残った。
 ホームズは遺言書の大ざっぱな下書きである書類を手に取り、非常に強い興味を顔に、それを眺 めていた。
 「その文書にはいくつかポイントがあるねえ、レストレード、どうかな?」と彼はそれを押しやりながら言った。
 かの役人は当惑した表情でそれを見た。
 「最初の数行は読めますがね、それとこの二ページ目の真ん中と、終わりの一、二行。その辺は印刷 のようにはっきりしてる」と彼は言った。「だが間の筆跡はまったくひどいし、まったく読めないところ が三箇所ある。」
 「君はそのことをどう思う?」とホームズが言った。
 「さあ、あなたはどう思われるので?」
 「列車の中で書かれたのだ。ちゃんと書けているところは駅、ひどい字は動いている時、まったくひど いところはポイント通過中を示している。科学的専門家なら直ちにこれは郊外の路線で作成されたと断言 するね、というのは大都市のすぐ近くでなければこんなに短い間隔でポイントが連続することはない。仮 に彼が道中ずっと遺言書の作成に費やしたとして、その場合、列車はノーウッドとロンドン橋の間で一度 だけ止まる急行ということだ。」
 レストレードは笑い出した。
 「あなたがご自分の理論を進めだすと手に負えませんね、ホームズさん」と彼は言った。「それが事件 とどう関係があるんです?」
 「そうだね、遺言書がジョウナス・オールデイカーにより昨日の道中に作成されたという点で青年の話 を裏書するね。奇妙な--ことじゃないかな?--そんな重要な書類をそんなでたらめなやり方で作ると は。それが実質的にあまり重要なものになると彼が考えていなかったことを示唆するじゃないか。決して 効力を持たない遺言書を作る人間ならそうするかもしれない。」
 「それと、同時に彼は自身の死刑執行令状を作成した」とレストレードは言った。
 「おお、君はそう思うのかね?」
 「そうじゃないと?」
 「まあ、まったくありそうなことだ。だが僕にはまだこの事件ははっきりしないな。」
 「はっきりしない?おやおや、これがはっきりじゃなくてはっきりするものなんかあるんですか?ここ に若い男がいて、ある老人が死ねば財産を相続することを突然知る。彼は何をするか?彼は誰にも何も言わず に、何かの口実でその夜依頼人に会いに出かける手配をする。彼はその家にいる唯一の他の人間が寝る まで待ち、それから男の部屋の寂しさに乗じて男を殺し、材木の山の中で死体を焼き、近くのホテル へと立ち去る。血のしみは室内のも、ステッキのも非常にかすかなものだ。たぶん彼は自分の犯罪に流血は なかったと考え、死体を焼き払えば死をもたらした方法の痕跡はすべて隠せると思ったのでしょう--何らかの理 由で彼を指し示すに違いない痕跡をね。これが皆、明らかじゃないですか?」
 「僕はねえレストレード、ほんの少し明らかにすぎる感じがするんだ」とホームズが言った。「君は想像力を君のいろいろある 優れた性質に加えることをしないけれどね、しかしちょっと君もこの若い男の身になって考えてみるとし て、遺言書が作られた当日の夜を選んで罪を犯すかね?二つの出来事をそんなに接近した関係にするのは 危険に思えないかね?さらに言えば、君がその家にいたと知られている、召使が君を通した折を選ぶのか? そして最後に、大変な苦労をして死体を隠したのに犯人でございとばかりに自分のステッキを置いていく のかね?白状したまえ、レストレード、どれもこれもまったくありそうもないことだろう。」
 「ステッキのことならホームズさん、よくご承知でしょうが、犯罪者は多くの場合あわてて、冷静な人 間なら避けるような事をしますよ。たぶん部屋に戻るのを恐れたのでしょう。ひとつ事実に合う別の説を 教えてください。」
 「苦もなく半ダースはあげられるよ」とホームズは言った。「たとえば、非常にありうるし、たぶんそうだと 言っても通用するのを一つ。ただでプレゼントするよ。老人が明らかに価値のある文書を広げている。通りす がりの浮浪者がブラインドの半分しか下りていない窓越しにそれを見る。弁護士退場。浮浪者登場!その 場で見つけたステッキをつかみ、オールデイカーを殺し、死体を焼いた後立ち去る。」
 「なぜ浮浪者が死体を焼かなけりゃならんのですか?」
 「そのことならマクファーレンはなぜ?」
 「いくつかの証拠を隠すため。」
 「あるいは浮浪者は人が殺されたということを完全に隠したかったのかもしれないね。」
 「ではなぜ浮浪者は何も取らなかった?」
 「金に換えられない書類だったから。」
 レストレードは首を振ったが、それでも彼の態度からさきほどまでの絶対の自信が薄らいだように見 えた。
 「さて、シャーロック・ホームズさん、あなたはその浮浪者を探すのでしょうが、そいつを見つけてい る間、我々はこっちの男でがんばるとしましょう。どちらが正しいか、未来が教えてくれるでしょう。ち ょっと注目していただきたいのは、ホームズさん、我々の知る限り、証書類が一つも持ち去られていない こと、そして容疑者は法定相続人であり、いずれにせよ彼が受け継ぐものですから、それらを持ち去る理由 を持たない世界でただ一人の人間であること、ですな。」
 我が友もこの言葉には打たれたようだ。
 「証拠がいくつかの点で非常に強く君の説を支持するのを否定するつもりはないよ」と彼は言った。「 ただ他にもいろんな説がありうることを指摘したかっただけなんだ。君の言うように未来が決定する。ご きげんよう!おそらく今日のうちにもノーウッドに立ち寄って、どのくらい君がはかどっているか見にいく よ。」
 探偵が立ち去ると、我が友は立ち上がり、性に合った任務を目前にした人のきびきびした態度でその日の仕 事の準備をした。
 「最初の行動はね、ワトソン、」彼はせわしくフロックコートに袖を通しながら言った、「やはりブラ ックヒースの方でなければいけないね。」
 「それでなぜノーウッドではないのかね?」
 「それはこの事件では一つの奇妙な出来事がもう一つ奇妙な出来事のすぐ後に続いたからだ。たまたま そちらが実際の犯罪だからといって警察は第二の事件に注意を集中する誤りを犯している。しかし僕には 明白なことだが、最初の出来事に光を投げかける努力から始めるのが事件に取り掛かる論理的な方法だ --すなわち奇妙な遺言書、あまりに突然に作られた、そしてあまりに意外な相続人への。それで後に起 こったことがわかりやすくなるかもしれないよ。いや、君、君のすることはないと思う。危険はありそうにな いし、そうじゃなきゃ君なしで動き出そうなんて夢にも思わないよ。夕方君に会う時には僕の保 護にすがりついてきたこの不幸な若者のために何かすることができたと報告できると思うよ。」
 遅くなって友は戻ったが、そのやつれて案じ気な顔を一目見れば出かけた時の大きな希望が満たされ なかったことはわかった。彼は一時間ほどバイオリンを手にのらくらして、かき乱された精神をなだめようと 努めていた。やっと楽器を放り出し、彼は、出し抜けにその災難の詳しい報告を始めた。
 「何もかもまずいよ、ワトソン--すべてが最悪だ。レストレードの前では何くわぬ顔でいたがね、 いやまったく、今回は向こうが本筋で僕たちは誤った道にいると思うよ。僕のあらゆる本能はこちらを指すが あらゆる事実はあちら、そして英国の陪審はいまだレストレードの事実より僕の推理を優先するまでの知性を 獲得してはいないと思わざるをえない。」
 「ブラックヒースに行ったのかね?」
 「そうだ、ワトソン、あそこへ行って、故オールデイカーがかなりひどい悪党だったことはすぐさまわ かったよ。父親は息子を探しに出ていた。母親は家にいた--小柄で、ふんわりとした、青い目の 人で、恐怖と憤激に震えていた。もちろん彼の有罪の可能性さえ認めようとしなかった。しかしオールデ イカーの悲運については驚きも哀悼も表さなかった。それどころか彼女の彼についての話はあまりに辛ら つで、知らず知らずのうちに警察の言い分をかなり強めているね、というのはもちろん、人のことをあん なふうに彼女が話すのを息子が聞かされていたら、彼を憎悪と暴力へとしむけただろうからね。『あの人は人 間というより有害で悪賢いサルでした、』彼女は言ったよ、『いつもそうでした、若いころから。』
 『そのころからご存知だったんですね?』と僕は言った。
 『ええ、よく存じてました。実は昔私に求婚していたんですよ。ありがたいことに私にはあの人から目 をそむけ、貧しくてもよりよい人と結婚する分別がありました。あの人と婚約中のことです、ホームズさ ん、あの人が鳥の檻に猫を放したというぞっとするような話を聞きまして、その冷酷残忍さが怖くなり、 それ以上お付き合いしようとはしませんでした。』彼女は書き物机をひっかき回し、まもなく 恥ずかしいほど損なわれ、ナイフで切り刻まれた女の写真を出して見せた。『私の写真です』と彼女は言った。 『あの人がそんな状態にして呪いの言葉とともに私の結婚の朝、送ってきたのです。』
 『まあ、』』僕は言った、『少なくとも今では彼もあなたを許したようですね、全財産を息子さんに遺 したのですから。』
 『息子も私もジョウナス・オールデイカーからは何も欲しくありません、生きていようが死んでいよう が』と彼女は叫び、健全な気持ちを表した。『天には神様がいますわ、ホームズさん、あの邪悪な人に罰を 下したその神様が良いと思われる時に息子の手が血に穢れてないことをお示しになるでしょう。』
 それでねえ、一、二の手がかりに当たってみたんだが我々の仮説の役に立つものは何もつかめなかった上、 いくつか不利になりそうな点が出てきた。ついに僕はあきらめて退散してノーウッドに向かった。
 この屋敷、ディープディーンハウスは総レンガ造りの大きく近代的な邸宅で、庭園の奥に立ち、 前は月桂樹の木立のある芝生になっていた。右手の道路から少し離れたところが材木置き場で、火災の現 場となったところだ。ほら、手帳の一枚にざっと図面を書いてみた。この左手の窓がオールデイカーの部 屋に通じるものだ。道路から覗き込むことができるからね。これが今日得られたほぼただ一つのわずかな慰めだ。 レストレードはいなかったが巡査長が職務を果たした。彼らはちょうど大変貴重なものを発掘したところだ った。午前中を費やして焼けた材木の山の灰の中を丹念に探した彼らは、黒焦げになった有機物の残骸 のほかにいくつかの色の落ちた円形の金属を手に入れていた。僕は注意してそれらを調べたが、ズボンのボタン であることに疑いはなかった。その一つにオールデイカーの仕立て屋である『ハイアムス』の名が入っ ていることさえ識別できた。そこで僕は非常に注意して痕跡を求めて芝生を採掘したが、この干ばつです べてが鉄のように硬かった。材木の山と並ぶイボタノキの低い生垣を通って死体か包みか何かが引きずられたこ とを除けば何も見つからなかった。もちろんこれは全部あのお役人の説にぴったり合う。僕は八月の太陽を背に 芝生に腹ばいになってやったが一時間後には何も得るところなく立ち上がった。
 さて、この大失敗の後、僕は寝室に入りそこもまた調べてみた。血痕はどれもかすかで、しみ、変色部にすぎなか ったが、疑いなく新しかった。ステッキは動かされていたが、そこにもまたかすかなしみがあった。ステ ッキが依頼人の物であるのは確かだ。彼が認めた。どちらの男の足跡もじゅうたんの上に見分けることがで きたが、第三の人物のものはまったくなく、また相手側が一本取ったわけだ。あちらが続けざまに得点を重ね、我々は行 き詰まりだ。
 唯一つ小さな希望の微光を僕は手に入れた--それでも無いに等しいんだが。僕は金庫の 中身を調べたが、大部分は取り出されてテーブルの上に置かれていた。書類は取りまとめていくつかの封 筒に封をされていて、一つか二つは警察により開けられていた。それらは僕の見る限りたいした価値は無 く、また銀行通帳もオールデイカー氏がそれほど富裕な境遇であることを示すものではなかった。だが僕 には書類がすべてそこにあるのではないように思えた。いくつかの権利証書--おそらくもっと価値のあ る--について言及されたが、僕には見つからなかった。これは、もちろん、明確に証明できれば、レスト レードの論拠が彼自身にそっぽを向くことになる、つまりじきに相続するとわかっているものを誰が盗むものか?
 ほかの隠れ家を残らず狩り立てたものの、何一つ臭跡の発見もなく、最後に、僕は家政婦で運を試した。 レキシントン夫人という名で、小柄で陰気、無口な人物で、疑い深く横目を使っていた。彼女はその気に なれば何か話すことがある--と僕は確信しているよ。しかし彼女は蝋のように打ち解けなかった。はい、彼女は九時半にマ クファーレン氏を通しました。この手が腐ってもそんなことをするのではありませんでした、と彼女は言っ た。彼女は十時半に寝てしまった。彼女の部屋は家の反対側の端にあり、何があったか聞こえな かった。マクファーレン氏は帽子と、確かステッキも玄関に置いた。彼女は火事の警報で 目を覚ました。お気の毒にご主人様は間違いなく殺されなすった。彼に誰か敵は?ええ、ええ、誰にでも 敵がございます、しかしオールデイカー氏は極端に人付き合いを避けていたし、商売で人に会うだけだった。彼女は ボタンを見たことがあった、前の晩彼が来ていた服には確かにそれがついていた。一月雨が降らなかっ たので材木の山はとても乾燥していた。猛烈に燃えていて、彼女が現場に着いた時には炎のほ か何も見えなかった。彼女も消防士たちも皆、その中に焼けた肉のにおいを感じた。彼女は書類について も、オールデイカー氏の私的な事柄についても何一つ知らなかった。
 これこのとおり、ワトソン君、失敗の報告だ。しかしだねえ--しかしだ--」--彼は固く握ったやせたこぶしに発作的な確 信をこめた--「僕にはわかってる、何もかも間違ってるんだ。僕の直感だ。 姿を見せない何かがあって、家政婦はそれを知っている。彼女の目にはすねた反抗のようなものが あり、それは罪の意識にのみ伴うものだ。しかしこれ以上それを言ってもしょうがな いね、ワトソン。しかしいずれ辛抱強い読者は我慢しなければならないのだろうが僕たちの成功の記録ね、 何か幸運なことが起きない限り、ノーウッドの失踪事件はそこには加えられないと思うよ。」
 「きっと、」私は言った、「あの男の外見は陪審に訴えるんじゃないかな?」
 「危険な論拠だね、ワトソン君。覚えているだろう、恐ろしい殺人者のバート・スティーブンスを、八十 七年に刑を免れるよう、我々に頼んだ?日曜学校の青年だって、あれより物腰の柔らかいのがいるか い?」
 「なるほど。」
 「我々がうまく代わりの説を立証しない限り、あの男は負けるよ。彼に不利なものとして今提出することができる 訴訟事実に欠陥は見つけられそうにないし、調査をすればするだけそれを強化するのに役立つばかりだ。ところで例の書 類に一つちょっとした奇妙な点があって、調査の出発点として役に立つかもしれない。銀行通帳にざっと 目を通したら、残高が少なくなっているのは主に去年一年間にコーネリアス氏宛てに振り出された多額の小切 手のためとわかった。実のところ、引退した建築屋がそんな多額の取引をするこのコーネリアス氏が何者 か知りたいね。その男が事件に関与した可能性はあるか?コーネリアスはブローカーかもしれないがこのような 多額の支払いに相当する受領証は見つかっていない。ほかに何も発見できないとあれば僕の調査も今や これらの小切手を現金に換えた紳士のことを銀行に問い合わせる方に向けなくてはなるまい。しか し、ねえ君、この事件は間違いなくスコットランドヤードの勝利となってレストレードが僕たちの依頼人をつるし、 僕たちには不名誉な結果になりそうだ。」
 その夜シャーロック・ホームズがどのくらい眠ったのかわからないが、朝食に下りた私が見た彼は青 ざめ、疲れ果て、その輝く目は周りの黒い隈のためますます輝いていた。彼の椅子の周りのじゅうたんに はタバコの吸殻と朝刊の早版が散らかっていた。テーブルの上には電報が開かれていた。
 「これをどう思う、ワトソン?」それを放ってよこして彼が尋ねた。
 それはノーウッドからで次のように書かれていた--  『ジュウヨウナ シンショウコ ニュウシュ。マクファーレンノ ユウザイ メイカクニ リッショウ。 ジケン ダンネン サレヨ。--レストレード』
 「容易ならんようだね」と私は言った。
 「レストレードのつまらない勝どきの声だ」とホームズが苦笑いをして答えた。「でもまだ事件をあき らめるのは早すぎるかもしれない。だって重要な新証拠は両側に刃があって、ことによるとレストレー ドが思っているのとはまったく別の方向に切れるかもしれないよ。朝食を食べたまえ、ワトソン、それか ら一緒に出かけて僕たちに何ができるか見てみよう。今日は君の同行と精神的援助が必要になる気がする。」
 彼自身は朝食を取らなかった。というのも彼は、その異常な習性の一つとして張り詰めた時には食事をするのを よしとせず、鉄の体力を頼みとしてついには単なる栄養失調で倒れたこともあるのだった。 「今はエネルギーや神経の力を消化に割くわけにいかない」と彼は私の医学的諫言に答えて言ったものだ。 従ってこの朝彼が食事に手をつけぬままに私とノーウッドに出発したとて私は驚きはしなかった。たくさ んの悪趣味な見物人が依然ディープディーンハウスの周りに寄り集まっていた。そこは私のまさに想像通りの 郊外の邸宅だった。門の中で出迎えたレストレードの顔は勝利に紅潮し、ひどく勝ち誇った態度だった。
 「さて、ホームズさん、もう我々が間違っていることを証明しましたか?浮浪者は見つかりましたか?」と レストレードは叫んだ。
 「僕はまだ何の結論も出していない」と我が友は答えた。
 「しかし我々のは昨日出しましたし、それが今正しいとわかるのです。そういうわけで今回は我々が少し 先んじていたことを認めていただかないといけませんな、ホームズさん。」
 「君の様子ではきっと何か異常なことが起こったんだね」とホームズは言った。
 レストレードは大声で笑った。
 「あなたも私たち同様、負かされるのはお好きじゃない」と彼は言った。「人はいつも思い通りになる と思っちゃいけない、でしょう、ワトソン博士?こちらです、どうぞ、皆さん、これでもうこの犯罪をや ってのけたのはジョン・マクファーレンであると確信していただけると思いますよ。」
 彼は通路を通って、その先の暗い玄関へと私たちを導いた。
 「ここにマクファーレン青年は犯行後、帽子を取りに現れたにちがいないのです」と彼は言った。「さ、 これを見てください。」彼は芝居のようにさっとマッチをすり、その光で漆喰の壁の上の血のしみをあらわに した。彼の持つマッチが近づくとそれはしみ以上のものであることがわかった。それははっきりとした親指 の痕だった。
 「あなたの虫眼鏡でご覧くださいよ、ホームズさん。」
 「ああ、そうするところだよ。」
 「二つの親指の痕がそっくりなことは無いのをご存知ですな?」
 「そのようなことを聞いたことはあるよ。」
 「さて、それではですね、すみませんがその痕と、こちらの蝋の今朝命令して取らせたマクファーレン 青年の右親指を押した跡を比較していただけませんか?」
 彼が蝋の印を血痕のそばで持つと、その二つが確かに同じ指の跡であるのを見て取るのに虫眼鏡は必要 なかった。不幸な依頼人の負けが私にも明らかになった。
 「これは決定的です」とレストレードが言った。
 「ええ、決定的です」と思わず私も鸚鵡返しに言った。
 「決定的だね」とホームズが言った。
 彼の口調の何かが私を捉え、私は振り返って彼を見た。異常な変化が彼の顔に起こっていた。内心おか しくてもだえているのだ。彼の両眼は星のように輝いていた。私には彼が痙攣的な笑いの発作を抑えるのに 必死の努力をしているように見えた。
 「おやおや!おやおや!」やっとのこと彼は言った。「やれやれ、まさかねえ、誰がそう思ったろう? それに見かけは当てにならないものなんだねえ、確かに!あんな立派な若者に見えるのに!自分の判断を 信用するなという教訓だね、違うかい、レストレード?」
 「そうですね、我々の中にはちょっと度を越してうぬぼれがちの人がいますな、ホームズさん」とレス トレードは言った。この男の横柄な態度は腹立たしかったが、憤慨するわけにもいかなかった。
 「若者が帽子掛けから帽子を取る時に壁に右の親指を押し付けるとは、何という神意!また非常に自然な行 為でもある、考えてみればね。」ホームズは外見上平静だったが、全身をよじって興奮を抑えながら話し ていた。「ところでレストレード、誰がこの驚くべき発見をしたのかね?」
 「家政婦のレキシントン夫人が夜勤の警官の注意をそこに向けさせたのです。」
 「夜勤の警官はどこにいたのかな?」
 「彼は犯行のあった寝室の警備に残っていました、何も触れられないように見張るためにね。」
 「しかしなぜ警察は昨日この跡を見なかったのかな?」
 「まあ、玄関を注意深く調査する特別な理由もありませんでしたから。その上、よく目立つところでも ないですし、ごらんのように。」
 「そう、そう、もちろんそうだ。その跡が昨日そこにあったのは間違いないと思うが?」
 レストレードはホームズを、彼が発狂していると思うかのように眺めた。実を言うと、私自身、彼の陽 気な態度にもちょっと乱暴な発言にも驚かされた。
 「マクファーレンが自分に不利な証拠を強化するために人の寝静まった夜に拘置所から出てきたとあな たがお考えかどうかは知りませんが」とレストレードは言った。「それが彼の親指の跡ではないのかどうか は世界中のどの専門家にでも任せますよ。」
 「疑いなく彼の親指の跡だ。」
 「やれやれ、それで十分です」とレストレードは言った。「私は実際的な人間ですから、ホームズさん、 証拠を得たからには結論を出します。何か御用がありましたら私は居間で報告書を書いていますので。」
 ホームズは落ち着きを取り戻したが、やはりまだ面白がるような表情がちらちらと見られるように私には思え た。
 「おやおや、まったくひどい展開だね、ワトソン、ええ?」と彼は言った。「それでもまだ僕らの依 頼人にいくらか希望を与える奇妙な点もあるよ。」
 「それを聞いて嬉しいよ」と私は心から言った。「彼はもうだめだと思ったよ。」
 「そうとまでは言い切れないんだなあ、ワトソン君。実はねえ、我々の友人が大いに重要視するこの証拠 には一つ実に重大な欠陥があるんだ。」
 「本当か、ホームズ!何なんだね?」
 「ただこれだけのことだ。すなわち僕の知るところ昨日僕が玄関を調べた時にはあそこにあの跡は無かったの だ。さて、ワトソン、あたりのひなたをちょっとぶらつこうよ。」
 頭は混乱しているものの、胸に希望の温かみが戻るのを感じながら、私は友について庭を歩き回った。 ホームズは家の各面を順に調べては、大いに関心を傾けて検査した。それから彼は先に立って中に入り、地下室か ら屋根裏まで建物全体を検分した。大部分の部屋には家具がなかったが、それでもなおホームズはどの部 屋も詳細に点検した。最後に、最上階の三つの空いている寝室の外を通る廊下で、再び彼は笑いの発作に 襲われた。
 「この事件には本当にいくつかきわめて比類ない特徴があるね、ワトソン」と彼は言った。「そろそろ我が友レ ストレードに僕たちの秘密を打ち明ける時かな。彼は僕たちを犠牲にして少しばかり笑ったわけだから、た ぶん僕たちも彼と同じようにしてもよかろう、この問題の僕の解釈が正しいとわかるならばね。そう、そう。 手始めにどうすべきかわかったようだよ。」
 ホームズが邪魔をした時、スコットランドヤードの警部は依然客間で書き物をしていた。
 「君はこの事件の報告書を書いていると言っていたね」と彼は言った。
 「そのとおりです。」
 「少し早計かもしれないとは思わないか?僕は君の証拠が完璧ではないと思わざるをえないんだ。」
 我が友を知りすぎているレストレードはその言葉を無視できなかった。彼はペンを置き、好奇心にから れてホームズを見た。
 「どういう意味です、ホームズさん?」
 「ただ君がまだ会ってない重要な証人が一人いるということだ。」
 「その人を見せていただけますか?」
 「できると思うが。」
 「ではそうしてください。」
 「最善を尽くそう。警官は何人いる?」
 「呼べば三人来ます。」
 「結構!」とホームズが言った。「失礼だが、みんな大きくて屈強な男たちかね、力強い声の?」
 「それは確かですとも、もっとも彼らの声とどんな関係があるのかわかりかねますが。」
 「たぶんそれはわかるようにできるだろうよ、そのうえ他にも一つ二つのことをね」とホームズは言った。 「どうか部下を集めてくれたまえ、やってみるから。」
 五分後、三人の警官が玄関に集合した。
 「離れにかなりの量のわらがあるはずだ」とホームズが言った。「二つばかりの束にして運んでくれた まえ。必要な証人を出して見せるのに大いに役に立つと思うんだ。いやありがとう。君のポケットにはマ ッチがあると思うが、ワトソン。さて、レストレードさん、皆さんに最上階の踊り場にご同行をお願いし ましょうか。」
 すでに言ったようにそこには三つの空き寝室の外を通る広い廊下があった。シャーロック・ホームズによ り私たち全員は廊下の一方の端に整列させられたが、警官たちはニヤニヤ笑い、我が友を見つめるレスト レードの顔には驚き、期待、あざけりが代わる代わる横切った。ホームズは手品を演じる奇術 師の態度で私たちの前に立った。
 「どうぞ巡査のお一人にバケツに水を二杯、くみに行かせてくださいませんか?わらは両側の壁から離 れたこちらの床の上に。さてすっかり準備できたようです。」
 レストレードの顔は怒りで赤くなり始めた。
 「我々と遊戯をなさっているのかどうか知りませんがね、シャーロック・ホームズさん」と彼は言った。 「何かご存知ならこんなばかなまねは一切せずとも言えるにちがいありますまい。」
 「大丈夫、ねえレストレード、僕のすることには何でも立派な理由があるんだから。あるいは覚えているだろ うが数時間前に君は僕を少しひやかしたろう、太陽が垣根の君の側にあった時にさ、だから今度は僕のちょっ とした虚飾と儀式を妬んではいけないよ。すまないがワトソン、その窓を開けて、そ れからわらの端にマッチをつけてくれたまえ。」
 私がそうすると、乾いたわらがパチパチ音を立てて燃え上がり、隙間風に流されて灰色の煙が廊下に沿 って渦巻いた。
   「さて君のために証人を見つけられるかどうか確かめなくてはね、レストレード。すみませんがみんな で一緒に『火事だ!』と叫んでもらえますかな?さあ、それじゃ、いち、にい、さん---」
 「火事だ!」私たち全員、大声を上げた。
 「ありがとう。お手数だがもう一度。」
 「火事だ!」
 「もう一度だけ、諸君、みんな一緒に。」
 「火事だ!」その叫び声はノーウッド中に響き渡ったに違いなかった。
 それが静まるが早いか驚くべきことが起こった。廊下の端の頑丈な壁と見えたところから、突然ドア がぱっと開き、そこから小柄でしわくちゃの男が、穴から出るうさぎのように飛び出してきたのだ。
 「よし!」とホームズが穏やかに言った。「ワトソン、バケツの水をわらに。それでいい!レストレー ド、行方不明の最重要証人、ジョウナス・オールデイカー氏を紹介いたします。」
 刑事は驚きのあまりぽかんとして新来者を見つめていた。後者は廊下の明るい光にまばたきし、我々と くすぶる火とをじっと見ていた。それは不愉快な顔--ずるそうなライトグレーの目、白いまつげの、悪賢く、意地悪で、 悪意に満ちた顔だった。
 「するというと、何だねこれは?」と、やっとレストレードが言った。「今までずっと何をしていたん だ、ええ?」
 オールデイカーはぎこちなく笑い、腹を立てた刑事の怒り狂った赤い顔を見てしりごみしていた。
 「何も害になることはしてません。」
 「害がない?お前は力を尽くして無実の男を絞首刑にしようとしていたんじゃないか。もしこちらのこの紳 士がいなければ、成功しなかったとは言いきれんよ。」
 卑劣な男はしくしく泣き始めた。
 「ほんとに、ねえ、ただの悪ふざけ、冗談でして。」
 「おお!冗談、これが?お前の方は笑ってられないだろうよ、はっきり言っておく。下へ連れてい って私が行くまで居間に閉じ込めておけ。ホームズさん、」彼らが立ち去ると彼は続けた、「巡査たちの 前では言えませんでしたが、ワトソン博士の前ならかまわない、言いましょう、これはあなたのなさった ことの中でも最も輝かしいものです、もっともどうやってなさったかは謎だが。あなたは無実の男の 命を救い、非常にゆゆしいスキャンダルを防いだのです。さもなければ私の警察での評判は台なしになったでしょ う。」
 ホームズは微笑み、レストレードの肩をポンとたたいた。
 「台なしになるどころか、ねえ君、君の評判は大いに高まったことがわかるだろうよ。まあ君の書いて いたその報告書を少し変更したまえ、それでレストレード警部をだますのがどんなに難しいか、彼らもわ かるだろうさ。」
 「あなたのお名前を出されたくないと?」
 「全然。仕事自体が報酬だ。あるいはいつの日か僕も熱心な歴史家にもう一度フールスキャップ紙を広 げることを許可して名声をも得るかもしれないが--え、ワトソン?さて、と、このねずみが隠れていた所 を見てみよう。」
 木摺と漆喰の仕切り壁が廊下の端から六フィートのところを横切り、その中にドアが巧妙に隠されてい た。内部はひさしの下に裂け目があり明るかった。家具がいくつか、食べ物と水の備え、それと本や書類 がたくさん中にあった。
 「建築屋の強みだな」と外に出ながらホームズが言った。「共謀者なしに自分の小さな隠れ家を取り付 けることができたわけだ--もちろんあの気取った家政婦は別だが。早速君の獲物に加えておかねばなるまいよ、 レストレード。」
 「お勧めに従いましょう。しかしどうやってこの場所がおわかりに、ホームズさん?」
 「僕はやつが家の中の隠れ家にいると決めてかかった。廊下の一つを歩測して階下の対応するそれより 六フィート短いことがわかれば、彼がどこにいるかはまったく明らかだ。彼も火事の警報を前に心 おとなしくしている神経はないと思った。もちろん中に入って彼を捕まえることはできたが、自分か ら正体を現させたほうがおもしろいし。そのうえ、君には借りがあるからね、レストレード、今朝のひや かしのお返しにちょっと煙に巻いたのさ。」
 「まあ、確かにその点あいこですね。しかし一体全体どうして彼が家にいるとわかったのですか?」
 「親指の跡だ、レストレード。君は決定的だと言った。そしてまったく別の意味でそうだったんだ。僕 はそれが前日にはそこになかったことを知っていた。君も気づいていたかもしれないが、僕は細かいこと にたっぷり注意を払う、それで僕は玄関を調べ、壁がきれいなのには自信があった。したがってそれは夜 の間につけられたのだ。」
 「しかしどうやって?」
 「非常に簡単だ。あの封筒の束の一つに封をする時、ジョウナス・オールデイカーはマクファーレン に親指をやわらかい蝋の上に置いて封をしっかりするようにさせたのだ。あまりすばやく、あまり自然に されたので、たぶん若者自身は覚えていないだろう。おそらく本当にそのようなことだった のだろうし、オールデイカー自身もそれを利用する考えはなかった。あの彼の巣で事件のことを考えてい て、その親指の跡を使ってマクファーレンが絶対に罪を免れない証拠を作れることが不意に心に浮かんだ。 封から蝋の跡を取り、針でつついた傷から取れるほどの血で湿らせ、夜の間にその跡を壁につける、彼自身、あるいは 家政婦のどちらがやるにしてもまったく簡単きわまることだ。彼が隠れ家に持ち込んだあの書類を調べ れば親指の跡のある封が見つかるのは賭けてもいい。」
 「すばらしい!」とレストレードは言った。「すばらしい!あなたのおっしゃるようにすべて明々白々 です。しかしこの狡猾な詐欺の目的はなんでしょう、ホームズさん?」
 刑事の横柄な態度が突然先生に質問をする子供のような態度に変わったのを見るのは面白かった。
 「さてそれは特に説明の難しいことではないと思うよ。階下で今僕たちを待っている紳士は非常に狡猾な、 悪意に満ちた、復讐心の強い人間だ。彼がかってマクファーレンの母親に求婚をはねつけられたことは知 っているね?知らない!最初にブラックヒースに行き、ノーウッドはその後にすべきだと言ったろう。さ て、この侮辱、と彼はそう思っただろうが、これは彼の邪悪で企みの好きな頭に食い込み、生涯を通じて 復讐を強く望んできたが機会が見つからなかったのだ。昨年一年かこの二年か、事態が彼の意に反し--秘密の投 機、と思うが--気がつくと彼はまずいことになっていた。債権者をだますことに決めた彼はそのために 多額の小切手をコーネリアスとかいう人物に支払い、でそれが、思うに彼自身の別名だ。この小切 手についてはまだ跡をたどっていないが、どこかのいなか町にその名前で預金され、そこでオールデイカ ーが時々二重生活をしていたのは疑いないね。彼は名前をまったく変え、この金を引き出し、姿を隠し、再び どこかで生活を始めるつもりだったのだ。」
 「なるほど、それは十分ありそうなことだ。」
 「姿を消すことであらゆる追跡から行方をくらまし、同時に昔の恋人のただ一人の子供に殺されたという印 象を与えられれば彼女に十分にして決定的な復讐ができる、という考えが彼の心に浮かんだ。悪事の傑作 であり、彼の遂行ぶりは達人のそれだった。明白な犯罪の動機を与えることになる遺言書という着想、両親に知られぬ 秘密の訪問、ステッキの確保、血、材木の山の中の動物の遺骸とボタン、すべてが称賛に値するね。数時間 前には脱出が不可能と思われた網だ。だが彼はあの芸術家としての最高の才能を欠いた、すなわち止めるべき時 を知らなかったのだ。彼はすでに完璧なものを改良したいと思った--不幸な彼の犠牲者の首の周りのロープ をさらにきつく引っ張ろうとした--それで彼はすべてを台なしにした。下に行こう、レストレード。ち ょっと一つか二つ彼にしたい質問があるんだ。」
 悪いやつは両側を警官にはさまれて自分の客間に座っていた。
 「冗談なんで、あなた、悪ふざけでして、それ以外の何でもないんで」と彼は絶え間なく泣き言を言っ た。「ほんとに、ねえ、私はただ自分が失踪したらどうなるかを見るために姿を隠しただけなんで、きっと あなた方だって、気の毒なマクファーレン青年に何か害が降りかかるのを私が黙って見ていると考えるほど 不公平ではございませんでしょう。」
 「それは陪審の決めることだ」とレストレードは言った。「どのみち我々はお前を陰謀の罪で逮捕する、 殺人未遂でないとしてもな。」
 「それにおそらく君は債権者がコーネリアス氏の銀行口座を差し押さえるのを知ることになるだろう」とホーム ズが言った。
 小柄な男はびくっとして悪意に満ちた目を我が友に向けた。
 「大いに感謝せねばなりませんな」と彼は言った。「たぶんいつか借りをお返ししましょう。」
 ホームズは寛大に微笑んだ。
 「数年間は時間が目いっぱいふさがった状態になるだろうと思いますよ」と彼は言った。「ところで、材木の山の中に置いたものは古 いズボンのほかに何かな?死んだ犬、でなきゃウサギ、でなきゃ何です? 言いたくない?おやおや、なんとまあ不親切な!ま、いいでしょう、たぶんウサギ二羽ということで血も黒こげ の燃え殻も説明できるだろう。いつか話を書く時は、ワトソン、ウサギで間に合わせとくといい。」

踊る人形(The Adventure of the Dancing Men)

 ホームズは何時間も無言で、尋常ならぬ悪臭のある化合物を合成中の化学反応容器の上に 長くやせた背中をかがめて座っていた。頭を胸の上に垂れ、私の目にはさえない灰色の羽と黒い冠毛を 持つ、奇妙なひょろ長い鳥のように見えた。
 「それで、ワトソン、」突然彼が言った、「南アフリカ公債に投資するつもりはないのかい?」
 私ははっと驚いた。ホームズの不思議な能力に慣れているとはいえ、この、心の一番奥で考えてい ることへの突然の侵入はまったく説明のつかないことだった。
 「いったいどうしてそれがわかった?」私は尋ねた。
 湯気の立つ試験管を手に、スツールの上でくるりと向きを変えた彼の深く落ち窪んだ目はおかしそうにきらめいていた。
 「さあ、ワトソン、すっかり驚いたと白状したまえ」と彼は言った。
 「驚いた。」
 「僕としてはそれを紙に書いて君に書名してもらうべきだな。」
 「なぜ?」
 「五分もすると君はまったくばかばかしいほど簡単なことだって言うだろうからさ。」
 「そんなことを言うはずがないよ。」
 「いいかい、ワトソン君」--彼は試験管を棚に立てかけ、クラスの生徒に授業をする教授のように 講義を始めた--「複数の推論を連続したものに組み立てるとして、一つ一つが前項に依存し、一つ一つ のこと自体が簡単なら、それはそれほど難しいことではない。そうした後で、途中の推論をすべて取っ払って出発点と結論のみを 聴衆の前に示せば、見掛け倒しとはいえ、びっくりするような効果を生み出せるだろうさ。 さて、君の左手の人差し指と親指の間のくぼみをよく見れば、君がわずかな資産を金鉱に投資するつもりが ないとの確信を得るのはそれほど難しいことではなかった。」
 「僕には関係がわからん。」
 「おそらくそうだろうね。だがすぐに密接な関係を示すことができるよ。これが非常に簡単な鎖の失わ れた環だ。一、昨夜クラブから帰った時、君の左手の人差し指と親指の間にはチョークの跡があった。 二、君がそこにチョークをつけるのはビリヤードをやる時にキューを滑らないようにするためだ。 三、君はサーストン以外とビリヤードはやらない。四、四週間前に君は、サーストンが一月で満了となる 南アフリカの土地の選択売買権を持っていて君との共有を望んでいる、と言った。 五、君の小切手帳は僕の引き出しにしまいこんであるが、君は鍵を求めなかった。六、かくして君は金を 投資するつもりはない。」
 「なんとばかばかしいほど簡単な!」私は叫んだ。
 「その通り!」と彼は、ちょっとむっとして言った。「ひとたび君に説明するとあらゆる問題が 幼稚きわまるものになる。ここに説明のつかないことがある。見たまえ、それをどう考える、ワトソン君。」 彼は一枚の紙をテーブルの上にほうり、もう一度化学分析に向かった。
 私はその紙の上のばかげた絵文字を驚きあきれながら眺めた。
 「なんだ、ホームズ、子供の絵だよ」と私は叫んだ。
 「ああ、それが君の考えか!」
 「ほかに何と考えたらいい?」
 「それをノーフォークのリドリング・ソープ館のヒルトン・キュービット氏がひどく知りたがっている。 このちょっとしたなぞなぞが第一便で来て、それから次の列車で彼が来るそうだ。ベルの音だ、ワトソン。 彼だとしてもあまり驚くにあたらないな。」
 階段に重々しい足音がしてすぐに背の高い、赤ら顔の、ひげをきれいにあたった紳士が現れた。 その澄んだ目、血色のよい頬はベーカー街の霧から遠く離れての暮らしを物語っていた。彼は入ると同時に、 強烈な、さわやかですがすがしい東海岸の風を運んできたようだった。我々二人と握手を交わし、 腰を下ろそうとした彼の目が、私がちょうど吟味してテーブルの上に置いておいた、奇妙な符号を記した紙 に留まった。
 「それで、ホームズさん、これをどう思いますか?」と彼は叫んだ。 「あなたは風変わりな謎を好むと伺ってますが、それより変わったものは見つからないと思いますが。 私が来る前にじっくり考える時間があった方が、と思いその紙を先に送りました。」
 「確かにかなり奇妙な作品ですね」とホームズが言った。「一見したところでは何か子供のいたずらの ようにも見えますね。小さくてへんてこな踊る人の姿がたくさん、紙を横断して描かれているだけです。 どうしてあなたはこんなこっけいなものに重要性があると思っていらっしゃるのでしょう?」
 「私は決して、ホームズさん。しかし私の妻が。彼女は死ぬほど怖がっています。何も申しませんが、 彼女の目に恐怖があるのです。それで私はこの問題を徹底的に調べたいと思うのです。」
 ホームズは日がいっぱいに当たるよう、紙をかざした。それはメモ帳から一枚、破り取ったものだった。 符号は鉛筆によってこんなふうに書かれていた。
 
 ホームズはしばらくそれを調べ、それから注意深く折りたたみ、手帳にはさんだ。
 「これはきわめておもしろい、異常な事件になりそうです」と彼は言った。「手紙でいくつか情報をい ただきましたが、ヒルトン・キュービットさん、友人のワトソン博士のためにもう一度すべて繰り返して いただけると大変ありがたいのです。」
 「私はあまり話が上手ではありません」と訪問客は、その大きく力強い手を神経質に握りしめたり開い たりしながら言った。「はっきりしなかったらそのつど何でもお尋ねください。去年結婚したところから始め ましょう。でもまず初めに申し上げておきたいのは、私は裕福ではありませんが、私の家がおよそ五世紀にわたって リドリング・ソープにおりまして、ノーフォーク州で最もよく知られた家柄だということです。去年の記念祭に私はロン ドンに来まして、教区の牧師、パーカーの滞在するラッセルスクエアの下宿に泊まりました。そこにアメ リカ人の若い女性がいたのです--名はパトリック--エルシー・パトリックです。私たちはどうにか友 達になり、一月の滞在が終わる頃になると私は一世一代の恋をしていたのです。私たちは登記所で簡素に結 婚し、夫婦としてノーフォークに戻りました。名門の旧家の男がこんなふうに彼女の過去も、彼女の親兄弟のこと も知らずに結婚をするとは、ホームズさん、実に無分別だと思うでしょうね。しかし彼女に会っ て彼女を知れば、お分かりいただけることでしょう。
 彼女はその点、非常に公明正大でした、エルシーは。私が望めばいつでも結婚をやめられるようにしていたと 言ってもいいでしょう。『私の人生にはいくつかとても嫌な思い出があります』と彼女は言い ました。『それはすべて忘れてしまいたいことです。過去には決して触れたくないほどです、非常につら いことですから。私を選ぶとしてもヒルトン、あなたは個人的には何も恥じるところのない女を選ぶこと になります。でもあなたはこの私の言葉に満足して、あなたのものになるまでに過ぎ去ったことすべてに 関しては私の沈黙を許してくださらなければなりません。この条件が受け入れがたいなら、 ノーフォークにお帰りになって、私にはあなたが見つけた時の孤独な暮らしをさせておいてください。』 彼女がこのままの言葉を私に言ったのは結婚のほんの前日でした。私は喜んで彼女自身の言葉に従って彼女を受け入れ ると言い、その言葉どおりにしてきました。
 さて、私たちは結婚してもう一年になりますが、非常に幸福でした。ところが一月ほど前、六月の終わ りのことです、初めて心配事の兆しがありました。ある日妻がアメリカから手紙を受け取りました。私に もアメリカの切手が見えました。妻は真っ青になり、手紙を読み、それを火に投じました。妻はその後、 そのことは口にせず、私も何も言いません、約束は約束ですから。しかし彼女はその時からひと時も安心できな いのです。顔にはいつも恐怖の色があります--何かを待ちうけ、予期するような様子です。私を信頼 したらいいのに。私が一番の味方とわかるでしょうに。でも彼女が話すまで私は何も言えません。お聞き くださいホームズさん、彼女は信頼できる女性です、そして彼女の過去にどんな問題があるにせよ、 彼女に落ち度はなかったのです。私はただのノーフォークの地主にすぎませんが、イングランドでも私よ り一家の名誉を重んじるものはありません。彼女はそれをよく知っていますし、結婚する前から知ってい ました。彼女は決してそこに汚点をつけたりしないでしょう--それは確かです。
 さて、いよいよ奇妙なところに話が来ました。一週間ほど前--先週の火曜日のことです--私は窓敷居の 一つにその紙にあるような、たくさんの、おかしな小さい踊っている人の絵姿を見つけました。チョークで殴り書きさ れたものです。私は馬丁の少年が描いたものと思いましたが少年は何も知らないと断言しました。とにか くそれが出現したのは夜の間です。私はそれを洗い落とさせ、妻にはそのことを後になって初めて何気なく言いまし た。驚いたことに妻はそれを非常に深刻に受け止め、また何か現れたら彼女に見せるよう懇願しました。 一週間は何もなく、そして昨日の朝、私は庭の日時計の上に置かれたこの紙を見つけました。私がそれを エルシーに見せると、彼女は失神して倒れました。それからというもの彼女は夢うつつのような有様で、 半ばぼうっとして、それなのに目には常に恐怖が潜んでいます。そこで私は手紙を書き、その紙をあなた に送ったのです、ホームズさん。警察に持っていけることでなし、だって彼らは私のことを笑うでしょうし、しか しあなたは私にどうすべきか言ってくださるでしょう。私は裕福ではありません。しかし私のかわいい女 性の脅威となる危険があるなら、彼女を守るために最後の一ペニーまで使い果たすつもりです。」
 彼は立派な人だった、この古いイングランドのいなかの男は、純真、率直、上品で、大きく真剣 な青い目、幅広のよい顔立ちをしていた。妻への愛と信頼が顔に輝いていた。ホームズは細心の注意を はらって彼の話を聞いていたが、今は座ったまま長いこと黙って思案していた。
 「こうはお考えになりませんか、キュービットさん、」やっと彼が言った、「一番よいやり方は率直に 奥さんに問いかけ、秘密をあなたと分け合うように求めることであるとは?」
 ヒルトン・キュービットは大きな頭を振った。
 「約束は約束です、ホームズさん。エルシーが話したければそうするでしょう。そうでなければ、彼女 に打ち明けるように強いるべきではありません。しかし私が自分の方針でやるのは正当なことです--で、 そうするつもりです。」
 「それでは喜んでお手伝いしましょう。まず、近くで見知らぬ人間を見たという話をお聞きになったこ とは?」
 「いいえ。」
 「非常に静かなところと思いますが。新しい顔はうわさになるでしょね?」
 「すぐ近くなら、そうですね。しかしそう遠くないところにいくつか海水浴場があります。それで農家 が客を泊めますんでね。」
 「これらの絵文字には明らかに意味があります。まったく気まぐれなものなら解くのは不可能かもしれませ ん。その反対に規則的なものなら、疑いなく意味を探り当てられましょう。しかしこのサンプルに限れば 短すぎて僕には何もできませんし、あなたのもたらした事実は不明瞭で調査の基礎にはなりません。僕の 提案は、ノーフォークにお帰りになり、鋭い警戒を怠らず、新しい踊る人間が現れたら正確な写しを取る ことです。窓敷居の上にチョークで描かれたものの複写がないのは本当に残念です。慎重に近隣の見知 らぬ人物に関する調査もすることです。いくつか新しい証拠を集めたらまたおいでください。それが差 し上げられる最善の助言です、ヒルトン・キュービットさん。新たに緊急の展開があれば、いつでも喜んであな たに会いにノーフォークのお宅へ急行しますので。」
 その会見はシャーロック・ホームズをすっかり考え込ませ、その後の数日、何度も、手帳から細長い紙 片を取り出し、そこに記された奇妙な人の姿を長いこと真剣に眺める彼が見られた。しかし彼が事件のこ とを口にしたのは、二週間ほど過ぎたある午後のことだった。私が出かけるところを彼が呼び戻した。
 「ここにいたほうがいいよ、ワトソン。」
 「なぜ?」
 「今朝ヒルトン・キュービットから電報があったからさ--ヒルトン・キュービットを覚えているね、 踊る人間の?彼はリバプール街に一時二十分に着くことになっている。いつここに来るかもしれない。電 報から何か新しい重要な出来事があったものと思うんだ。」
 あまり長く待たぬうちに、駅からまっすぐに、辻馬車をできる限り急がせてノーフォークの地主が来た。 彼は疲れた目で額にしわを寄せ、心配で憂鬱そうに見えた。
 「参ってしまいますよ、この問題は、ホームズさん」と彼はすっかり疲れたというようにぐったりと肘掛け椅子に座り 込みながら言った。「何かたくらんでいる、目に見えない未知の連中に取り囲まれている感じはまった くひどいもんです。でもその上、ねえ、妻がじわじわと殺されていくとなれば生身の人間には我慢の限界とい うものです。彼女は次第にやつれてゆきます--私の目の前で今やつれてゆくのです。」
 「奥方はもう何かおっしゃいましたか?」
 「いえ、ホームズさん、まだ何も。それでもかわいそうに何度か話したがることもありましたが、でも 完全には思い切ってそうする気になれなかったのです。私も話しやすいようにとやってみたのですが、おそらく私が不器用なせいでしょう、 彼女はおびえてやめてしまいました。彼女が私の古い家柄、州における一家の評判、汚れない名 誉を当家が誇りにしていることについて話す、それでいつも私は核心に近づいているのを感じるのですが、なぜ かそこに達する前にそれてしまうんです。」
 「しかしご自身で何か発見されたのですね?」
 「かなりたくさんあります、ホームズさん。あなたに調べていただく踊る人間の絵がいくつかありますし、 それと、さらに重要なことは、私がその男を見たことです。」
 「何ですって、それを描いた男を見た?」
 「その最中を見ました。しかしすべて順を追って話しましょう。こちらを訪ねた後、帰った翌朝最初に 見たものが踊る人間の新たな群像です。それは、正面の窓からよく見える芝生の横に立つ道具小屋 の木でできた黒いドアにチョークで描かれていました。正確な複写を撮ったのがこれです。」
 彼は紙を広げ、テーブルの上に置いた。これがその絵文字の写しである。

 「けっこう!」とホームズは言った。「けっこう!どうぞ続けて。」
 「写しを取ってから私はこすり落としました。しかし二日後の朝、新しく書かれたものが現れました。その写し がここに」--

 ホームズは大喜びで手をこすり、くすくす笑った。
 「どんどん資料がたまっていきますね」と彼は言った。
 「三日後、紙に殴り書きしたメッセージが残され、日時計の上の小石の下に置かれていました。こ ちらです。人型の並びは、ご覧のように最後のものとまったく同じです。それがあって私は待ち伏せをすることに決めま した。そこで私はリボルバーを取り出し、芝生と庭が見渡せる書斎で不寝番をしました。朝の二時ごろ、私 は窓辺に座っており、外は月明かりのほかはすべてが闇の中でした。すると後ろで足音がして、そこに部屋着姿の 妻がいました。彼女は私も寝るよう懇願しました。私は率直に、私たちにこんなばかげたいたずらをする のは誰か見てやりたいと言いました。まったく意味のない悪ふざけか何かだから私は気にするべきではない、と彼 女は答えました。
 『本当にお悩みなら、ヒルトン、旅に行くのはどうかしら、あなたと私で、そうすればこの不愉快なことを避 けられるわ。』
 『何だって、悪ふざけで自分の家から追い出されるのかい?』と私は言いました。『なに、州全体の笑いもの じゃないか。』
 『まあ、おやすみになって』と彼女は言いました。『明日の朝、話し合えるわ。』
 突然、話をする彼女の青ざめた顔がますます蒼白になるのが月明かりの下でもわかり、彼女は私の肩の 上の手をきつく握りました。何かが道具小屋の陰を動いていました。黒っぽい人影が忍び寄り、這うように角を 曲がり、ドアの前にしゃがむのが見えました。私がピストルをつかんで外へ駆け出そうとすると、妻が抱きつ き、必死の力を振り絞って私を止めました。私は彼女を振りほどこうとしましたが、彼女はそれはもう死 に物狂いでしがみついてきました。やっと自由になりましたが、私がドアを開け、小屋にたどり着いた時には男は去っ ていました。しかしやつはそこにいた跡を残しました。ドアの上にすでに二度現れ、私がその紙に写したも のとまったく同じ配列の踊る人間があったのです。庭全体をざっと見ましたけれども、ほかにはどこにも男の痕跡は ありませんでした。ですがなお驚いたことに、その間ずっと男はそこにいたにちがいないのです。 というのは朝、再び私がドアを調べると、すでに見た行の下にいくつかの絵が殴り書きしてあっ たのです。」
 「その新しい絵はお持ちですか?」
 「ええ、非常に短いですが、写しましたのがこちらです。」
 再び彼は紙を出して見せた。新しい踊りはこんな形だった--

 「それで」とホームズは言った--彼の目から彼がひどく興奮しているのが見て取れた--「これは単 に最初のものに付け加えられたものでしょうか、それともまったく別のものに見えましたか?」
 「ドアの別の板の上にありました。」
 「けっこう!これは我々にとって何をおいてもきわめて重要なことです。これで行けそうですね。 さあ、ヒルトン・キュービットさん、どうぞ実に興味深いお話を続けてください。」
 「もう何も申し上げることはありません、ホームズさん、ただあの夜、こそこそしたごろつきを捕まえ られたかもしれないのに私を引き止めたことで私は妻に腹を立てました。彼女は私がひどい目にあうので はないかと思ったと言いました。一瞬、ことによると妻が本当に恐れたのは彼がひどい目にあうことだと いう考えがよぎりました。というのも疑いなく彼女はこの男が何者か、そして男が奇妙な信号で何を言おう としているのか知っていたからです。しかし妻の声の調子は、それとホームズさん、彼女の目つきは疑うことを 許さないものですし、彼女の心にあったのが本当に私自身の安全だったのは確かです。これが事件のすべてです、 さて私は何をすべきか、助言をいただきたいのですが。私自身の意向は農場の若者を六人ほど植え込みに 配置することです、あの男がまた現れたらしたたかに鞭打つ、それで今後は私たちの邪魔をしないでしょう。」
 「そんな単純な措置を取るにはあまりに重大な事件ではないかと思いますが」とホームズは言った。「ロンドン にはどのくらいいらっしゃいますか?」
 「今日戻らなければなりません。どうしたって妻を一晩中一人にするわけにはいきません。彼女は非常 に神経質になっていまして戻るようせがむのです。」
 「おそらくそれが正しいでしょう。しかしあなたが泊まれるようならたぶん一日か二日のうちにはご帰宅に僕もご一緒でき たかもしれないのですが。もっともこれらの紙をこちらに残していただけば、じきにそちらを訪問して事件に 光明を投じられそうに思いますよ。」
 シャーロック・ホームズは客が立ち去るまで冷静な職業上の態度を保っていたが、彼をよく知る私には、 彼がひどく興奮していることは容易にわかった。ヒルトン・キュービットの幅広い背中がドアの向こうに 消えるやいなや、友はテーブルに突進し、踊る人間の紙片をすべて目の前に広げ、複雑で手の込ん だ計算に没頭した。二時間というもの私は彼が次から次へ紙の上を図形や文字でいっぱいにしていくのをじ っと見ていたが、彼はすっかり仕事に夢中になるあまり、明らかに私の存在を忘れてしまっていた。時に は進捗して口笛に鼻歌で仕事をし、時にはてこずり、長いこと座ったまま額にしわを寄せ空ろな目をして いた。最後に彼は満足の叫びとともに椅子から跳びあがり、両手をこすり合わせながら部屋を行ったり来 たりした。それから彼は長文の電報を海外電報の用紙に書いた。「これに対する返事が僕の期待通りなら、君のコレ クションに非常に見事な事例が加わるだろうね、ワトソン」と彼は言った。「明日はノーフォークに行って、 僕らの友人にその厄介事の謎に関するきわめて確定的な知らせをいくつかもたらせると思うよ。」
 実を言えば、私は好奇心でいっぱいだったが、ホームズが彼独特のタイミングに彼独特のやり方で事を明ら かにするのを好むことは知っていた。それで私は、彼が秘密を明かすのに都合のよい時になるまで待って いた。
 しかし電報の返事は遅れ、じりじりする日が二日続き、その間ホームズはベルがなるたびに耳をそばだて ていた。二日目の夜にヒルトン・キュービットから手紙が来た。すべてが平穏無事だったが、ただし朝、 日時計の台座の上に長い書き物が現れたのだ。彼が同封したその写しをここに再現する--

 ホームズはこのこっけいな細長い絵に数分間かがみこんでいたが、それから突然驚きと狼狽の叫び声 とともにぱっと立ち上がった。彼の顔は心配にゆがんでいた。
 「この事件を行き着く所まで行かせてしまった」と彼は言った。「今晩、ノースウォルシャム行きの列車は あるかい?」
 私は時刻表をめくった。最終はちょうど出たところだった。
 「それじゃあ朝食を早く食べて朝一番で行こう」とホームズは言った。「何をおいても至急行かなくて は。ああ!ほら、待っていた海底電信だ。ちょっと待って、ハドソンさん。返事があるかもしれない。い や、まったく思った通りだ。この電報で一刻の猶予もなくヒルトン・キュービットにどういう事態になっ ているか知らせる事がますます肝要になったよ。だって僕らのあの純真なノーフォークの地主が巻き込まれたクモの巣 は危険でまれにみるものだからだ。」
 事実、結果はそうなり、ただ子供じみて異様なだけのものに見えた物語の暗い結末に至り、私の心をいっぱ いにした落胆と恐怖の体験が蘇る。何かもっと明るい結末を読者にお伝えできたらと思うのだが、これ は事実の記録であるから、数日の間リドリング・ソープ館の名をイングランド中に知れ渡らせ た一連の奇妙な出来事を、暗い重大局面に至るまでたどらねばならない。
 私たちがノースウォルシャムで降り、目的地の名を口にするやいなや、駅長があわててやってきた。「ロン ドンから来た探偵さんたちでしょう?」と彼は言った。
 ホームズの顔に苦悩の色が走った。
 「どうしてそんなふうに思うんです?」
 「ノリッジのマーティン警部がたった今、通って行かれたので。しかしあるいは外科の先生ですかな。女性は亡く なってはいません--というか最後に聞いたところではまだ。まだ間に合って彼女を救えるかもしれませんよ--もっと もそれでも絞首刑でしょうが。」
 ホームズの表情が心配に曇った。
 「僕たちはリドリング・ソープ館に行くところです、」彼は言った、「しかし僕たちはそちらで起こっ たことを何も聞いてないのです。」
 「恐ろしいことです」と駅長は言った。「二人は撃たれたのです、ヒルトン・キュービット氏も奥さん も二人とも。夫人が氏を撃ち、それから自分を--そう召使は言います。キュービット氏は亡くなり、夫人も絶 望的です。なんと、なんと、ノーフォーク州でも指折りの旧家の一つ、指折りの名家の一つがねえ。」
 言葉もなく、ホームズは急いで馬車に乗り、長い七マイルの道のりの間、一度も口を開かなかった。そ のようにすっかり気落ちした彼を見たことはめったにない。彼が首都からの旅の間ずっと落ち着かず、 不安から一心に朝刊をめくっていたのに私は気づいていた。そして今こうして突然、恐れていた最 悪のことが現実となって彼は茫然としてふさぎ込んでしまった。陰鬱なもの思いにふけりながら、彼は座席の 背にもたれていた。とはいえ周囲にはたくさん興味を引くものがあった。私たちが通りぬけているのは イングランド屈指の風変わりな地方であり、僅かに散在するいなか家が現在の住民数を表す一方、 平坦な緑の景色の中の至る所に巨大な四角い塔の教会が直立し、かっての東アングリアの栄光と繁栄 を物語っていた。ようやくノーフォーク沿岸地方の緑のヘリの向こうにドイツ海のスミレ色の水平線が 現れ、御者が鞭で、木立から突き出た二つの古い、レンガと木材の切妻をさし示した。「あれがリドリ ング・ソープ館です」と彼は言った。
 テニス用芝生コートのそばの、私たちにあの奇妙なものを連想させる黒い道具小屋、台座のある日時計を観察し ながら、それらを前にした柱廊式玄関に私たちは乗りつけた。すばやく機敏な態度、口ひげを蝋で固めたこざっぱ りした小柄な男がちょうど二輪馬車の高いところから降りたところだった。彼はノーフォーク警察の マーティン警部と名乗り、我が友の名を聞いてかなりびっくりした。
 「なんと、ホームズさん、犯罪は今朝三時に起きたばかりというのに。どうやってそれをロンドンにい ながら聞いていらして、私と同時に現場に到着できたのでしょう?」
 「予期していたのです。それを防ぎたいと思って来たのですが。」
 「それでは私たちの知らない重要な証拠をお持ちにちがいない、というのも彼らはとても仲睦まじい夫 婦と言われていましたから。」
 「僕は踊る人間の証拠を持っているだけです」とホームズは言った。「そのことは後で説明しましょう。 その前に、この悲劇を防ぐのに間に合わなかったからには、ぜひとも僕の持つ知識を、確実に正義がなされる 、そのために使いたいと思います。僕をあなたの捜査に加えていただけますか、それとも僕が独自に行動する方 がよろしいですか?」
 「もちろん協力してできるということを誇りに思います、ホームズさん」と警部は熱心に言った。
 「それなら一瞬の遅滞も無用、証言を聞き、建物を調べたいですね。」
 マーティン警部は我が友に自分の流儀でやらせておくだけの分別があり、注意深くその成果を書き留め ることで満足した。ちょうど地元の外科医である年配で白髪の男がヒルトン・キュービット夫人の 部屋から下りてきて、夫人は重傷だが、必ずしも致命的ではないと報告した。銃弾は彼女の前頭部を通過 したもので、たぶん彼女が意識を回復するにはしばらくかかるだろう。彼女が撃たれたのかそれとも 自分で撃ったのかという質問にはあえてはっきりした意見を言おうとしなかった。確かに銃弾は至近距離 から発射されていた。部屋で発見されたピストルは一丁だけであり、二発分、空になっていた。ヒルトン・キ ュービット氏は心臓を撃ち抜かれていた。リボルバーは彼らの中間の床の上にあったので、彼が彼女を、 それから自身を撃ったとも、あるいは彼女が犯罪者であったとも、等しく考えられた。
 「彼を動かしてしまいましたか?」とホームズは尋ねた。
 「奥方のほかは何も動かしていません。彼女を床の上に傷ついたままにしておくことはできませんので。」
 「ここにはどのくらいいらっしゃいました、先生?」
 「四時からです。」
 「他には誰か?」
 「ええ、こちらの巡査が。」
 「それで何も触りませんでしたか?」
 「何も。」
 「きわめて慎重に行動されましたね。誰があなたを呼びに?」
 「女中のサンダースです。」
 「急を告げたのは彼女で?」
 「彼女とコックのキング夫人です。」
 「その人たちは今どこに?」
 「台所、と思います。」
 「それではすぐにその人たちの話を聞いた方がいいでしょう。」
 オークの板張りで窓の高い、古い玄関の広間が取り調べの法廷に変じた。ホームズは大きく古風 ないすにすわり、その容赦ない目は落ち窪んだ顔の中でかすかに光っていた。その目から、彼が救いそこなっ った依頼人が最後に復讐を遂げるまで、この探求に命をささげる固い決意が読み取れた。すらっとしたマ ーチン警部、年取って白髪頭の地方の医師、私、無表情な村の警官がその奇妙な集まりの残りを構成 していた。
 二人の女の話は十分明瞭だった。彼らは爆発の音で眠りから起こされた。最初の音に続き一分後に 二回目の音がした。二人は隣り合った部屋で寝ており、キング夫人がサンダースの部屋に駆け込んだ。 二人は一緒に階段を下りた。書斎のドアは開き、ろうそくがテーブルの上で燃えていた。主人は部 屋の中央でうつぶせになっていた。彼は完全に死んでいた。窓のそばには彼の妻が壁に頭をもたせかけ、 うずくまっていた。彼女はひどい傷で、横顔は血で真っ赤だった。彼女の息遣いは激しかったが、何か言 うことはできなかった。廊下も、部屋と同様、煙がいっぱいで火薬のにおいが立ち込めていた。窓は確か に閉まり、内側から鍵がかかっていた。どちらの女もその点はっきりしていた。二人は直ちに医者をそし て巡査を呼びにやった。それから厩務員と少年の馬丁の助けを借りて怪我をした女主人を彼女の部屋に運 んだ。彼女も夫もベッドを使っていた。彼女はちゃんと服を着ていた--夫は寝巻きの上に部屋着を着けていた。 書斎は何も動かされていなかった。彼らの知る限り、夫婦の間に一度もけんかはなかった。彼らはいつも 二人を仲睦まじい夫婦と思っていた。
 これらが召使たちの証言の要点であった。マーティン警部の質問に二人は、すべてのドアが内側からし っかり閉められ、誰も家から逃げられないのは確かだと答えた。ホームズの質問には、二人とも最上 階の彼らの部屋を走り出た瞬間から火薬のにおいに気づいたのを覚えていると答えた。「この事実には 特に注意を払うよう、勧めます」とホームズは同僚に言った。「さて今度は部屋の徹底的な調査に取り掛 かるべき時と思いますが。」
 書斎は小さな部屋であり、三方に本が並べられ、庭に面した普通の窓に向かって書き物机が あった。私たちは最初に、その巨体が部屋を横切るように大の字になった不幸な大地主に注意を向けた。その 乱れた服は眠っているところをあわてて起きたことを示していた。弾丸は前方から発射され、心臓を貫いたが体内 に残っていた。間違いなく即死で、痛みはなかったろう。彼の部屋着にも彼の手にも火薬の跡はなかった。 地方の外科医によれば、夫人の顔にはしみがあったが、手にはなかった。
 「後者になかったことは何の意味もないですね。もっともあればとても重要ですが」とホームズは言っ た。「装弾がまずくて火薬が後ろに噴出しない限り、たくさん発射しても痕跡は残らないかもしれない。ヒ ルトン・キュービット氏の遺体はもう移してもいいのではないですか。先生、夫人を傷つけた銃弾はまだ 取り出してないでしょうね?」
 「それには危険な手術が必要でしょう。しかしリボルバーにはまだ四つ弾があります。二発発射され、 二つの傷を負わせた、ですからそれぞれの銃弾に説明がつきますが。」
 「そう見えるでしょうがね」とホームズは言った。「もしかしたら明らかに窓の縁を一撃したと見られる銃 弾の方も説明がつきますかな?」
 彼が突然振り向き、長く細い指で指し示している穴は、窓の下側のサッシの下から一インチあ たりをまっすぐに撃ち抜かれたものだった。
 「なんと!」と警部が叫んだ。「いったいどうしてわかりました?」
 「探したからですよ。」
 「すばらしい!」と土地の医者が言った。「確かにあなたの言う通りです。それでは三発目が発射され、 従って第三の人物がいたにちがいない。しかし誰かそんなものがありうるのでしょうか、またどうやって逃げおおせたのでし ょう?」
 「それが今しも解こうとしている問題です」とシャーロック・ホームズは言った。「覚えてますか、マーティン 警部、召使たちが自分の部屋を出てすぐに火薬のにおいに気づいたと言った時に、その点が極めて重要だ と言ったのを?」
 「ええ。しかし実を言うとおっしゃることがよくわかりませんでした。」
 「発射された時に部屋のドアばかりか窓も開いていたことを示唆するのです。さもなければ火薬の 煙がそれほど速く家中に広がるはずがありません。そのためには部屋を通る風が必要ですから。しかしドア も窓もほんの短い時間、開いていただけです。」
 「なぜそれがわかりますか?」
 「ろうそくの蝋が垂れていないからです。」
 「すばらしい!」と警部が叫んだ。「すばらしい!」
 「悲劇の時刻に窓が開いていたと確信した僕は、事件には第三の人物がいて、この開いたところの外に立 ち、そこから銃を 撃ったかもしれないと思いました。この人物に向けて発射された弾はサッシに当たったかもしれない。見 るとそこには、はたして、銃弾の痕がありました!」
 「だがどうして窓は閉めて鍵をかけられることになったのでしょう?」
 「女性の最初の本能は窓を閉め、鍵をかけることだったのでしょう。しかし、おや!何だこれは?」
 それは書斎の机の上にあった婦人物のハンドバッグ--鰐皮と銀で作られたこぎれいな小型のハンドバッグだ った。ホームズは開けて中身を出した。イングランド銀行の五十ポンド紙幣二十枚がゴムバンドで束ねら れ--他には何もなかった。
 「これは裁判で役に立つでしょうから保管して置かなくてはいけません」とホームズは言って、バッグ と中身を警部に手渡した。「さて今度はこの第三の銃弾に光を投ずるべくやってみなければ。これは明ら かに、木の部分を裂いていることから、室内から発射されたものです。もう一度コックののキングさんに 会いたいのですが。キングさん、あなたは大きな爆発音で目が覚めたと言いましたね。そう言ったのはそ れが二度目のものより大きな音だったようだという意味ですか?」
 「さあ、それで眠りから目覚めたので、判断しかねますが。しかし非常に大きな音だったように思います。」
 「ほとんど同時に二発発射されたとは思いませんか?」
 「何とも申しかねます。」
 「僕は確かにそうだと思うんだ。それより、マーティン警部、もうこの部屋が教えてくれることはすべ て検討しつくしたと思います。一緒に回ってくださるなら、庭が提供するはずの新たな証拠 を調べあげましょう。」
 書斎の窓まで花壇が広がっていたが、そこに近づいた私たちは皆、あっと叫び声を上げた。花は踏みつ けられ、柔らかい土のあちこちに足跡が残されていた。それらは大きな男の、つま先の異様に長く、 とがった足だった。ホームズは傷ついた鳥を追うレトリバーのように草や葉の間を捜しまわった。そ して、満足の叫びを上げ、かがんで小さな真鍮の薬莢を拾い上げた。
 「そう思ったんだ」と彼は言った。「そのリボルバーにはエジェクターがあり、これが第三の薬莢です。 実のところ、マーティン警部、我々の事件はほとんど終わりです。」
 地方の警部の顔は、迅速で達人技のホームズの調査の進捗ぶりに激しい驚きを示していた。はじめは彼もいく らか自分の立場を主張する向きも見せたが、今では感嘆するばかりで、喜んでホームズの導くまま、疑い も持たずに従っていた。
 「誰を疑ってるので?」と彼は尋ねた。
 「それを論じるのは後にしましょう。この問題にはまだあなたに説明できない点がいくつかあります。ここまで きたからには、僕自身の方針に沿って続け、最後にきちっと事の全貌を明らかにするのがいちばんいいでしょ う。」
 「あなたの思うとおりに、ホームズさん、求める男を捕まえさえすれば。」
 「謎めかしたいわけではないのですが、行動の時に長く、複雑な説明を始めるのは不可能ですので。 この事件の糸はすべて僕の手中にあります。たとえ夫人が意識を回復しなくても僕たちは昨夜の出来事 を再構成し、確実に正義を実現させられます。まず第一に知りたいのですがこの近くに『エルリッジ』という宿はあ りますか?」
 召使たちに尋ねたものの、そのような場所を知る者はいなかった。その問題に光明を投じたのは 厩舎の少年で、数マイル離れたイースト・ラストンの方角にその名の農場主が住んでいることを思い出した。
 「人里はなれた農場かな?」
 「非常に寂しいところです。」
 「ことによると夜ここで起きたことがまだ何も伝わってないかな?」
 「おそらくそうでしょう。」
 ホームズは少し考えていたが、奇妙な笑みに彼の顔がほころんだ。
 「馬に鞍をつけるんだ、君」と彼は言った。「エルリッジ農場に手紙を持っていってほしいんだ。」
 彼はポケットから種々の踊る人間の紙片を取り出した。彼は書斎机でこれらを前にしばらく作業をして いた。最後に彼は手紙を少年に渡し、宛名の人物に手渡すように、特に、どのような質問をされても 答えないようにと指示をした。手紙の表面を見ると、いつものホームズの几帳面な筆跡とまった く違う、だらしなくふぞろいな文字で宛名が書かれていた。それはノーフォーク、イースト・ラストン、 エルリッジ農場のエイブ・スレイニーに宛てられていた。
 「それでね、警部、」ホームズが言った、「護送に備えて電報を打つのが賢明でしょう、というの も、僕の推定が正しいとなれば、あなたは特別危険な犯人を州の拘置所まで運ばなければならないかもしれませんから。 この手紙を持っていく少年がたぶん電報も送れるでしょう。午後のロンドン行きの列車があれば、 それに乗った方がいいと思うんだ、ワトソン、ちょっと面白い科学分析がやりかけだし、この調査も急速に 終わりに近づいたから。」
 手紙を持った少年が使いに出されると、シャーロック・ホームズは召使たちに指示を与えた。誰かが ヒルトン・キュービット夫人に会いたいと言って訪れても、彼女の状態については何も知らせずに、直ちに客間に案 内しなければならなかった。彼はきわめて熱心にこの点を彼らに銘記させた。最後に彼は先に立って客間に 入り、今のところ、事は我々にはどうにもならないし、できるだけのんびり時を過ごすのがいい、そうして いるうちに何が我々を待ち構えているかわかるだろう、と言った。医者は患者のところへ行き、警部と私だ けが残った。
 「一時間を興味深く有益に過ごすお手伝いができると思います」とホームズは言って、椅子をテーブルに引 き寄せ、踊る人間の滑稽なしぐさが書き留められた種々の紙を目の前に広げた。君には、ワトソン君、君の当 然の好奇心を長いこと満足させないままにしておいた償いを十分にしなければなるまい。あなたには、警部、 事件全体が珍しい専門的研究対象として魅力があるかもしれませんね。まずはじめに事件に先立ちヒルト ン・キュービット氏がベーカー街の僕のところに持ち込んだ相談に関する興味ある状況からお話ししなければなりますまい。」 それから彼はすでに述べた事実を短く要約した。「ここに、目の前にあるこれらの風変わりな作品ですが、 このような恐ろしい悲劇の前触れと判明していなかったら、人は笑うかもしれません。僕はあらゆる形式の秘密の書式 にかなり精通していて、このテーマのつまらん研究論文を一つ書いてもいるんですが、その中で僕は百六十種の 暗号を分析しています。しかし実のところこれはまったく初めてのものです。どうやらこの方式を創案した人たち の目的は、これらの記号が通信手段であることを隠し、単に子供のいたずら書きと思わせることの ようです。
 しかし符号が文字を表すと知ってしまえば、そしてあらゆる形式の秘密の書式への手引きとなる 規則を適用すれば、解くのはまったく簡単でした。僕に託された最初の通信は短すぎていくらか自信を持っ て言えるのは一つの符号がEを表すことだけでそれ以上は不可能でした。お気づきのようにEは英語のア ルファベットで最も頻出する文字であり、著しく他に抜きん出ているので短い文の中でも最も多く 見られると思ってもいいでしょう。最初の通信の十五の記号のうち四つが同じですから、これをEと考える のが合理的です。人型が旗を持つ場合と持たない場合があるのも事実ですが、旗の配置の仕方から、たぶん それらは文章を単語に分けるために用いられたのでしょう。僕はこれを仮説として受け入れ、Eは次のように 表されると書き留めました。

 しかしここからこの探求が本当に難しくなりました。Eに続く英語の文字の順位は決して明白では なく、印刷物の平均値に何らかの優位が見られたとしても、短い文章一つではそれが逆になるかもしれません。 大雑把に言うと、T、A、O、I、N、S、H、R、D、Lが文字の現れる順位です。しかしT、A、O、 Iは互いに非常に接近した横並びですから、意味が見つかるまでそれぞれの組み合わせを試すのは果て しない作業になるでしょう。それで僕は新しい材料を待ちました。二回目の会見でヒルトン・キュービッ ト氏が僕に提供することができたのは二つの新たな文章と、一つの単語--旗がなかったので--と思われる通信が 一つでした。これらがその記号です。さてその単語において五文字の言葉の二番目と四番目にくる二つの Eを既に手にいれています。これはおそらく『sever』(切断する)か『lever』(てこ)か『never』(決して・・・ない)でしょう。疑いの余地なく、 懇願に対する返事として最後のものが断然可能性の高そうなものであり、状況はそれが夫人によって書かれた返事 であることを示していました。それを正しいものとみなすと、僕たちに今言えるのは、 これらの記号がそれぞれN、V、Rを表すことです。

 それでもまだ相当難しい状況でしたが、うまい思いつきによりいくつか別の文字を手に入れました。この 懇願が僕の予想通り、夫人が若い頃に親密だった誰かから来たものなら、三つの文字を間にし た二つのEを含む組み合わせで『ELSIE』(エルシー)と言う名前を表すことになるだろうと考えついたのです。調べ てみると、そういう組み合わせがあることがわかりました。三度繰り返された通信文の末尾です。これは間違 いなく『Elsie』に対して何か懇願しているものです。このようにしてL、S、Iを手に入れました。しかしどんな懇願でしょう? 『Elsie』に先立つ文字は四つだけであり、Eで終わっています。確かにこの単語は『COME』(来い)にちがいありま せん。Eで終わるほかの四文字をすべて試しましたがこの場合に合うものは見つけられませんでした。 こうしていまやC、O、Mを手にしたので、最初の通信にもう一度着手すべき時であり、それを単語に分 割し、まだ未知の記号には点をあてました。そうすると結局このようになります。--

・M ・ERE ・・E SL・NE・

さて初めの文字はAでしかありえず、これはこの短い文の中に三度も現れるのですから、極めて役に 立つ発見ですし、また二番目の単語のHもまた明らかです。さてそうすると。--

AM HERE A・E SLANE・

あるいは、明白な名前の虫食いを埋めると

AM HERE ABE SLANEY(来たぞ、エイブ・スレイニー)

今ではたくさんの文字があるのでかなり自信を持って第二の通信に進めるわけで、それはこの ようになります。--
 A・ ELRI・ES

ここでは不明の文字にTとGをあて、その名前は書き手が泊まっている家か宿のそれと考えるしか 意味を成しえません。」
 私たちの難題にこのように完璧な展望をもたらした成果を我が友が生み出した方法について、 彼が完全、明快に説明するのを、マーチン警部と私はこれ以上はない興味を持って聞いていた。
 「それからどうなさいました?」と警部は尋ねた。
 「エイブがアメリカ式の短縮形であることから、そしてアメリカからの手紙がすべての問題の始ま りだったことから、エイブ・スレイニーをアメリカ人と考える根拠は十分でした。またこの事 には犯罪的な秘密があると考える理由も十分にありました。夫人の過去に関する暗示、そして夫に 秘密を打ち明けることの拒否、その両方がそちらの方を示していました。それゆえ僕は、友人で、一 度ならずロンドンの犯罪に関する僕の知識を役立てたことのある、ニューヨーク警察局のウィルソン・ハ ーグリーブに外電を打ちました。僕は彼にエイブ・スレイニーという名が知られているか尋ねました。これ が返事です。『シカゴで最も危険な悪人。』その答えを手にしたまさにその晩、ヒルトン・キュー ビットがスレイニーからの最後の通信を送ってきました。既知の文字で解くと、こうなります。--

ELSIE ・RE・ARE TO MEET THY GO・

PとDを加えて完成した通信文、『エルシー、神に召される準備をせよ』はならず者が説得から脅しに転じた ことを示し、シカゴの悪人どもに関する知識から、この男はその言葉をすぐさま行動に移すことになる、 と覚悟しました。僕はただちに友人で同僚であるワトソン博士とノーフォークに来ました、しかし、不幸 にも間に合わず、最悪のことがすでに起こったのを知っただけでした。」
 「あなたと共に事件を扱えるのは名誉なことです」と警部が熱心に言った。「しかしですね、率直に申しますので お許しください。あなたはただご自身に対して責任を負うだけですが、私は上司に責任を 負わねばなりません。この、エルリッジに寄宿するエイブ・スレイニーが事実殺人犯とすると、 そして私がここに座っている間に彼が逃げてしまったとなると、間違いなく私は容易ならぬ立場になるで しょう。」
 「ご心配にはおよびません。彼は逃げようとはしないでしょう。」
 「どうしてわかります?」
 「逃げるのは犯罪を自白することになりますから。」
 「それではその男を逮捕しに行きましょう。」
 「彼は今にもここに来るでしょうよ。」
 「しかしなぜその男が来なければならないので?」
 「僕が手紙を書いて呼んだからです。」
 「しかしこれは信じられんですよ、ホームズさん!あなたが呼んだからって、なぜその男が来なければなら んのです?そんな頼みはむしろ疑いを招いてその男が逃げることになりませんか?」
 「手紙の書き方は知っていると思ってます」とシャーロック・ホームズは言った。「実際、僕がとんでも ない思い違いをしているのでなければ、ほら、その紳士本人が道を近づいてきますよ。」
 男が玄関に至る小道を大またに近づいていた。背が高く、ハンサムな、日に焼けた男で、グレーのフラ ンネルのスーツとパナマ帽を身につけ、逆立つ黒いあごひげに大きくて攻撃的な鉤鼻、そして歩きながら籐製のステ ッキを振り回していた。その男が自分の住まいででもあるかのようにふんぞり返って小道を歩いてきて、 大きく、自信に満ちたベルの響きが聞こえた。
 「ねえ、諸君、」ホームズが静かに言った、「ドアの後ろの位置につくのがいいでしょう。このような 男を扱う時はあらゆる警戒が必要です。あなたの手錠が必要になるでしょう、警部。話は僕に任せてくだ さい。」
 私たちは無言で一分ほど待った--決して忘れることのできない、そういう時間だ。そしてドアが開き、男が入った。 すぐさまホームズが彼の頭にさっとピストルを向け、マーティンが彼の手首にするりと手錠をかけた。すべ てがすばやく巧みに行われたので、男は襲われたと知った時にはどうしようもなかった。彼はぎらぎら した黒い目で私たちを順ににらみつけた。それから彼は突然苦々しげに笑い声を立てた。
 「おやおや、みなさん、今回は先にピストルを抜かれたね。どうやら何か酷い目に会っちまったようだな。だが ここにはヒルトン・キュービット夫人の手紙に応じて来たんだからな。彼女がこれにかんでるなんて言 わないよな?彼女がわなを仕掛けるのを助けたなんて言わないよな?」
 「ヒルトン・キュービット夫人は瀕死の重傷だ。」
 男の悲痛なかすれた叫び声が家中に響いた。
 「気は確かか!」彼は狂暴に叫んだ。「怪我をしたのはあいつだ、彼女じゃない。誰がかわいいエルシ ーに怪我をさせたりするものか?そりゃあ脅したかもしれない、神よ許したまえ、だがかわいい彼 女の髪の毛一本、触れようとしなかったんだ。取り消せ--おい!彼女は怪我をしてないと言え!」
 「彼女は亡くなった夫の傍らでひどい傷を負って発見されたのだ。」
 彼は低いうめき声をあげて長いすに倒れ、手錠をかけられた手で顔を覆った。五分間、彼は無言だった。 それから彼はもう一度顔を上げ、絶望から、冷静な落ち着きを取り戻して話をした。
 「何も隠すことはないぜ、みなさん」と彼は言った。「俺があの人を撃ったのはあの人が俺に撃ってきたからで、 これは殺人じゃあないんだ。だが俺にあの女を傷つけることができたなんて思うなら、それは俺のことも彼 女のことも知らないってもんだ。いいかい、この俺が彼女を愛したように女を愛した男はこの世にいないんだ。 俺には権利があった。何年も前に彼女は俺に固く誓ったんだ。俺たちの邪魔をしたこのイギリス人は何 者だ?いいかい、俺には先に権利があったわけで、ただ自分の権利を主張していただけだ。」
 「あの人は君がどんな男か知って、君の手を逃れたんだ」ホームズが厳しく言った。「彼女は君を避け てアメリカから逃げ、イングランドで尊敬すべき紳士と結婚した。君は彼女に付きまとい、彼女を追いかけ、 彼女が愛し、尊敬する夫を捨てるよう、彼女が恐れ、嫌悪する君とともに逃げるよう迫り、 彼女の生活を不幸なものにした。最後には高潔な人の死をもたらし、その妻を自殺に追いやった。そ れがこの事件における君の記録だ、エイブ・スレイニーさん、君はそのために法的責任を負うだろう。」
 「エルシーが死ぬなら俺はどうなってもかまわないさ」とアメリカ人は言った。彼は片方の手を開き、 掌のくしゃくしゃになった手紙を見た。「これを見ろよ、だんな、」と彼は、目に疑いをきらめ かせて叫んだ。「このことで俺を脅かそうとしてるんじゃないだろうね?夫人があんたの言うようにひど い傷なら誰がこの手紙を書いたんだ?」彼はそれを前のテーブルにほうった。
 「君をここに来させるために僕が書いたんだ。」
 「あんたが書いた?『ジョイント』以外にこの踊る人間の秘密を知るものはまったくいなかった。どうやって書くよう になったんだ?」
 「人に考え出せたものだ、他のものにもわかるさ」とホームズは言った。「君をノリッジに運ぶ馬車が 来るところだ、スレイニーさん。しかし待つ間、君には君がもたらした危害に対する小さな償いをする時 間がある。ご存知かな、ヒルトン・キュービット夫人自身に夫を殺したという重大な疑いがかけられ たこと、彼女を告発から救っているのは僕がここにいたことと僕がたまたま持っていた知識だけだという ことを?彼女が直接にも間接に も彼の悲惨な最期にまったく責任のないことを全世界にはっきりさせるのが君の彼女に対する最低限の義務だ。」
 「望むところだ」とアメリカ人は言った。「自分にできる最善の弁護はまったくの真実をありのままにすることだと 思うよ。」
 「義務として警告するが、それは君の不利に使われることがある」と、イギリスの刑法の崇高な公正さを示し て警部は叫んだ。
 スレイニーは肩をすくめた。
 「運に任せよう」と彼は言った。「まず第一に、俺がこの婦人を子供の頃から知っていたことを皆さん に理解して欲しい。シカゴの俺たちの仲間は七人、『ジョイント』のボスはエルシーの親父だった。あの人は利口な男だ った、老パトリックはな。あの書式を考え出したのもあの人で、まったくたまたまあんたが解答をつかまなか ったら子供の落書きで通ったろう。ま、エルシーもちょっとばかり俺たちのやり方を身につけたわけだ。 だが彼女は俺たちの仕事が我慢できず、少しばかり自分のまっとうな金を持っていたので、俺たちみんな をまいて逃げ、ロンドンへ出たのさ。彼女は俺と婚約していたし、俺と結婚しただろうと思うよ、 もし俺が別の職業に就けばな。だが彼女は何にしろ不正なことに関係するのはいやだったんだ。彼女が ここのイギリス人と結婚した後になって初めて俺は彼女の居場所を見つけ出すことができた。俺は彼女 に手紙を出したが返事はなかった。俺は渡ってきて、で、手紙は役に立たないから、彼女が読みそうなと ころへメッセージを置いた。
 それで、ここにはもう一月になる。俺はあの農場で暮らし、あそこでは地下に一部屋持って、毎晩出た り入ったりできたし、誰にも気づかれなかった。エルシーをなだめすかして連れ出すために俺はできるこ とは何でも試みた。彼女がメッセージを読んだのはわかった、一度その下に返事があったからな。それか ら俺は短気に負けて彼女を脅し始めた。すると彼女は手紙をよこし、俺に立ち去るように懇願し、 だんなに何か醜聞でも降りかかったらこんなに悲しいことはないと言ってきた。彼女の言うには、だんなは朝の三 時には寝ているからそのころ下りてきて、端っこの窓で話をする、ただその後俺が立ち去り彼女をそっと しておくなら、ということだった。彼女は下りてきたが、金を持ってきていて、それで話をつけようとし た。これに逆上した俺は、彼女の腕をつかみ窓越しに引き寄せようとした。その時だんながリボルバー を手に飛び込んできた。エルシーは床にへたり込み、俺たちは向かい合った。俺もピストルを持っていた ので、だんなを脅して追い払いこちらも逃げようとそいつを構えた。あっちは発砲したが俺に当て損ねた。ほ とんど同時に俺は引き金を引き、だんなは倒れた。俺は庭を横切って急いで逃げたが、行く時に後ろで窓 の閉まるのが聞こえた。誓って言うが皆さん、言葉一つ一つ全部が真実だし、あの若いのが馬で乗り付けて 持ってきた手紙を見て、ここにやってきて、ひよっこみたいになあ、自分の身をあんたがたに引き渡すまで、ほかには 何も知らなかったんだ。」
 アメリカ人が話している間に馬車が乗りつけていた。二人の制服の警官が中に座っていた。マーティン 警部は立ち上がり、虜囚の肩に触れた。
 「もう行く時間だ。」
 「まず彼女に会えないか?」
 「いや、彼女は意識がない。シャーロック・ホームズさん、いつかまた私が重大事件に出会ったら あなたがいてくださればありがたいと思うのみです。」
 私たちは窓辺に立ち馬車が走り去るのを見ていた。引き返す時、男が丸めてテーブルの上に放 り投げた紙が私の目に留まった。ホームズが彼をおびき寄せた手紙である。
 「それが読めるかな、ワトソン」と彼が微笑みながら言った。
 言葉は一つもなく、このような短い踊る人間の列があった--

 「僕が説明した符号の規則を用いれば、」ホームズは言った、「実際『すぐにここに来い』と言う意味だとわ かるだろう。この招待は彼も断らないだろうと僕は確信していた。夫人以外の誰かから来るだろうとは決 して思わないだろうからね。そういうわけだからね、ワトソン君、何度も悪の密使となった踊る人間たち を最後は善いことに役立てたわけだし、君の記録に珍しいものを提供する約束も果たしたと思うし。三時 四十分の列車があるから、ベーカー街での夕食には戻れるだろう。」
 結びにただ一言。アメリカ人、エイブ・スレイニーはノリッジの冬の巡回裁判で死刑を宣告された。し かし彼の刑は、酌量すべき情状およびヒルトン・キュービットが初めに発砲したのが確かなことを考慮し て、懲役刑に変更された。ヒルトン・キュービット夫人については、すっかり回復したと聞いたこと、いまだに未 亡人まま、全生涯を貧しい人々の世話と夫の財産の管理にささげていることを知るのみである。

ひとりぼっちの自転車乗り(The Adventure of the Solitary Cyclist)

 1894年から1901年までシャーロック・ホームズ氏はきわめて多忙だった。その八年間、 公的な難事件で彼のところへ持ち込まれなかったものはないと言ってもよく、また何百という私的な事件 もあり、それらの中にはきわめて複雑で異常な特色を持つ事件もあり、彼が際立って重要な役割を果たし たものである。この長期間、切れ目なく仕事をした結果、多くのびっくりするような成功と少数の避け がたい失敗があった。これらの事件のすべての完全な記録を私が保存しており、また私自身が直接その多 くに携わっていたのだから、どれを選んで大衆の前に引き出すべきか見分けるのが易しい仕事ではないこ とはおそらく想像に難くあるまい。しかし私は以前からの規則を守り、犯罪の残忍さよりもその巧妙で劇的 な解決に興味を引かれる事件を優先することにしよう。そういうわけで私はここにチャリントンの一人ぼ っちで自転車に乗る人、ヴァイオレット・スミス嬢に関する事実と、ついには予期せぬ悲劇となった私た ちの調査の奇妙な成り行きを読者のお目にかけようと思う。なるほどその状況には、我が友の名を高から しめたあの能力を顕著に例示する余地はなかったが、事件はいくつかの点で、私が短い物語の材料を得ている あの長期間の犯罪の記録の中でも際立っていた。
 1895年の私の記録を参照すると、私たちが初めてヴァイオレット・スミス嬢を知ったのは4月23日の土 曜日である。当時ホームズは、有名なタバコ長者、ジョン・ヴィンセント・ハーデンが受けた奇妙 な迫害に関する非常に難解で複雑な問題に没頭していたので、彼女の訪問をまったく歓迎しなかったのを 思い出す。几帳面さと思考の集中を何よりも愛する友は、何にせよ取り掛かっている問題から注意を そらされることに腹を立てた。それでも彼の性質と相容れない冷酷さがなければ、その話を聞くの を断るなど不可能な、若く美しい婦人、背が高く優雅で女王のような人が夕方遅くベーカー街を訪れ、彼に助力と助言 を懇願しているのだ。彼が既に仕事で手一杯だと言い張るのはむだなことだった。なぜなら若い婦人は話をし ようと決意して来ているのだし、明らかに、それを済ますまでは力ずくででもなければ部屋から追い出す ことなどできそうになかった。 あきらめたようにいくぶん疲れた笑みを浮かべ、ホームズは美しい侵入者に腰をかけて何が彼女を 困らせているのか教えて欲しいと頼んだ。
 「少なくともあなたの健康のことではありえませんね」と彼は、鋭い視線を彼女に投げかけて言った。「それ ほど熱心に自転車に乗っていらっしゃれば元気いっぱいにちがいない。」
 彼女は驚いてちらと自分の足元を見たが、ペダルの縁との摩擦により靴底の片側がわずかにざらざらし ていることに私は気づいた。
 「ええ、私はずいぶん自転車に乗りますの、ホームズさん、それにそれが今日の訪問にもいくらか関係 があるのです。」
 友は女性の手袋をはずした手を取り、科学者が標本に対して示すような細心の注意と冷徹さを持ってそ れを調べた。
 「お許しくださるでしょうね。これが僕の仕事ですから」と彼はそれを下ろしながら言った。「危うく 間違ってあなたをタイピストと思うところでした。もちろん、音楽ということは明らかです。どちら の職業にも共通のへら状の指先に、ワトソン、気がついたかい?しかしながら、その表面には精神性があ る」--彼は優しくそれを光の方へ向けた--「それはタイプライターによって生まれるものではない。この ご婦人は音楽家だ。」
 「そうです。ホームズさん、私は音楽を教えています。」
 「いなかで、と思いますが、あなたの顔の色つやから。」
 「その通りです。ファーナムの近く、サリー州の州境です。」
 「あのあたりは美しいしとてもおもしろいことがいろいろ思い出されるねえ。覚えているだろ、ワトソン、あの近くで偽造犯のア ーチー・スタンフォードを捕まえたのを。さて、ヴァイオレットさん、サリーの州境、ファーナムの近くのあ なたに何が起こりました?」
 その若い女性はきわめてはっきりと、落ち着いて次のような奇妙な話をした。--
 「私の父はもう亡くなっています、ホームズさん。ジェイムズ・スミスと言って、旧帝国劇場でオーケ ストラの指揮をしていました。母と私は、二十五年前にアフリカへ行ったきり消息を聞かない叔父、ラル フ・スミス一人を除いてこの世に親戚もなく残されました。父が死んだ時、残された私たちは非常に貧乏でしたが、 ある日私たちの所在を尋ねる広告がタイムズに載っていると聞かされました。私たちがどんなに興奮した か、想像がおつきでしょう、だって誰かが私たちに財産を遺した、そう思いましたもの。私たちはすぐに その新聞に名のあった弁護士のところに行きました。そこで私たちが会ったのは、南アフリカから故郷を訪れたという二人の 紳士、カラザースさんとウッドリーさんでした。彼らの話では、彼らは叔父の友人で、叔父は数ヶ月 前にヨハネスブルグでひどい貧困のうちに死に、いまわの際に、親戚を捜しだして困窮していないこと を確かめるよう、彼らに頼んだそうです。生きている時には私たちを気にも留めなかったラルフ叔父さん が、死ぬ時になってそんなに気をつかって私たちを心配するなんて、と私たちは不思議に思いました。 でもカラザースさんは、その理由は、叔父がちょうど兄弟の死を聞いたところで、それで私たちの運命に 責任を感じたからだと説明しました。」
 「失礼」とホームズが言った。「その会見はいつのことです?」
 「昨年の十二月--四ヶ月前です。」
 「どうぞ続けて。」
 「ウッドリーさんはとても嫌な人に見えました。彼はずっと、私に色目を使っていました--下品で、ふ くれた顔の、口ひげの赤い若い男の人で、髪を額の両側にべったりなでつけていました。ほんとにひどくい やな人、と私は思いました--それにきっとシリルも私がそんな人物と知り合いになるのを望まないでし ょう。」
 「ああ、シリルは彼の名ですね!」とホームズが微笑みながら言った。
 若い婦人は顔を赤らめ、笑った。
 「そうです、ホームズさん。シリル・モートン、電気技師で、私たち、夏の終わりには結婚したいと思 ってます。あら、どうして私、彼のことなんか話し始めたのでしょう?私が言いたいのは、ウッドリーさ んはまったくいやらしいのですけれど、カラザースさんはずっと年上で、もっと感じのよい人だというこ とです。彼は浅黒く、血色の悪い、ひげをきれいにそっている、無口な人です。しかし彼の態度は礼儀 正しいし、感じのよい笑顔なのです。彼は私たちがどのような状態で残されたか尋ね、私たちが非常に 貧しいと知ると、彼の十歳の一人娘に音楽を教えに来るようにと私に提案しました。私が母と離れたくないと言 うと、週末ごとに母の家に帰れるし、年に百出そうとおっしゃるんです。確かにすばらしい俸給ですわ。 それで結局私は受け入れ、ファーナムから六マイルほどのチルターン屋敷へと行きました。カラザースさん は男やもめですが、ディクソン夫人というとても立派な、初老の人を家政婦として雇い入れ、所帯の世話 をしてもらっています。お子さんはかわいいし、何もかもが希望に満ちてました。カラザースさんはとても優し く、とても音楽好きで、一緒にいて非常に楽しい夕べを過ごしたものでした。週末ごとに私はロンドンの 母の所へ帰りました。
 私の幸福の最初の瑕は赤い口ひげのウッドリーさんが来たことです。一週間の滞在ということ でやってきましたが、ああ、私には三ヶ月に思えました!あの人はとても嫌な人で、誰にでも威張り散ら すのですが、私にはさらにずっとひどいことになりました。あの人は私にとてもいやらしく言い寄り、自分の財産を自慢し、 あの人と結婚すればロンドンでも最高のダイヤモンドが手に入ると言い、最後には、私が付き合う気がな いとなると、ある日、夕食後、私を腕でぎゅっと捕まえ--彼はぞっとするほど力が強いのです--私 がキスをするまで行かせやしないと言い張りました。カラザースさんが入ってきてあの人を私から引き離 しましたが、するとあの人はいきなり主人役に襲い掛かり、殴り倒し、顔にひどい切り傷をつけたのです。ご想像 通り、それで彼の滞在は終わりました。翌日カラザースさんは私に謝り、私が再びそのような侮辱を受 ける事は絶対にないよう責任を持つと言いました。それ以来私はウッドリーさんに会っていません。
 さて、ホームズさん、いよいよ今日ご意見をいただきたいと思った格別の事情ですが。毎週土曜日の午 前、私は十二時二十二分のロンドン行きに乗るためにファーナム駅まで自転車に乗るとご承知ください。 チルターン屋敷からの道は寂しいもので、とりわけ一箇所がそうで、片側をチャリントンの荒れ野、反対側をチャリ ントン邸の周囲に広がる森にはさまれて一マイル以上にわたっているのです。あれ以上寂しい道 が続くところはどこにもありませんし、クルクスベリ・ヒルに近い本道に着くまでは荷車や農民にすら めったに会うことはありません。二週間前、この場所を通っている時、偶然肩越しに振り返って見ると、 二百ヤードほど後ろに、やはり自転車に乗った男が見えました。短くて濃いあごひげのある中年の男の ように見えました。ファーナムに着く前に振り返るとその男はいなくなっていたので、そのことはそれ以 上考えませんでした。しかし月曜に戻る時に、ホームズさん、同じ男を同じ道筋で見た私がどんな に驚いたか、ご想像がつきましょう。続く土曜日と月曜日、その出来事が正確に前の通りに繰り返され、 私の驚きは強まりました。男は常に距離を保ち、決して私を襲ったりしませんが、それでも確かに非常に 変です。そのことをちょっとカラザースさんに話すと、私の言ったことに関心を持ったようで、 馬と馬車を注文したから、今にこの寂しい道を連れもなしに通らなくてよくなると言いました。
 馬と馬車は今週来ることになっていましたが、なぜか届かず、それでまた私は駅まで自転車に乗らなけ ればなりませんでした。それが今朝のことです。もうおわかりでしょうが、私がチャリントンの荒れ野ま で来て見てみますと、そこには、はたして例の男が、まったく二週間前と同じようにしていました。男は常に私にはっきり 顔が見えないよう、離れていましたが、確かに私の知らない誰かです。ハンチングをかぶり黒っぽい スーツを着ていました。男の顔で私にはっきり見えたのは濃いあごひげだけです。今日は恐ろしさより好 奇心がいっぱいでしたので、男が誰で何を望んでいるのか調べようと決意しました。私が自転車の速度 を落としますと、男も速度を落としました。それから私がすっかり止めますと、あちらも止めます。そこ で私はわなを仕掛けました。道には急な曲がり角があり、私はペダルを踏んでフルスピードでそこを曲がり、そこで 止めて待ちました。男が勢いよく曲がり、止めることができずに私を追い越すものと私は思ったのです。 しかし彼はまったく姿を見せませんでした。そこで私は戻り、角から後ろを見ました。一マイルの道筋が見えまし たが、彼はいませんでした。さらに驚くべきことは、このあたりに姿を消すことのできるわき道がないこ とです。」
 ホームズはくすくす笑って手をこすり合わせた。「この事件は確かにいくらか独自の特徴がありますね」 と彼は言った。「角を曲がってから道に誰もいないことを見つけるまでにどのくらい時間が経ちましたか?」
 「二分か三分です。」
 「それでは彼は道を引き返すことはできないし、わき道もないとおっしゃるのですね?」
 「そうです。」
 「とすると彼は確かにどちらかの側の小道を行ったのですね。」
 「荒れ野の側ではありえません。それなら私に見えたはずです。」
 「そうなると消去法により彼がチャリントン邸の方へ向かったという事実に僕たちは到達したわ けで、道の片側の庭園内に邸は位置していると理解していいですね。他に何か?」
 「何も、ホームズさん、あとは私がすっかり困惑してしまって、こうして伺ってご忠告をいただくまで は幸せな気分ではいられないと感じたことだけです。」
 ホームズはしばらくの間、黙って座っていた。
 「あなたが婚約中の紳士はどちらにおいでで?」とようやく彼が尋ねた。
 「彼はコベントリーの中部電力会社にいます。」
 「彼があなたを突然訪ねたりしませんか?」
 「あら、ホームズさん!私が彼をわからないとでも!」
 「他にあなたの賛美者は?」
 「シリルを知る前には何人か。」
 「それからは?」
 「あの恐ろしい男、ウッドりーです、あれを賛美者と呼べるなら。」
 「他には誰も?」
 私たちの美しい依頼人は少しまごついたようだ。
 「誰です?」とホームズは尋ねた。
 「ああ、単に私の空想かもしれません。でも時々雇い主のカラザースさんがひどく私に関心を抱いて いるように思われるのです。私たちはよく一緒になります。夕方には私があの人の伴奏をします。あの人は決して何も 言いません。申し分のない紳士です。でもいつも女にはわかります。」
 「ほう!」ホームズは真剣に見えた。「彼は何をして暮らしているのです?」
 「金持ちですわ。」
 「馬車も馬もなしで?」
 「まあ、少なくともまずまず裕福です。でも週に二三度彼はシティーに出かけます。あの人は南アフリカの 金鉱株に大変興味を持っています。」
 「新しい展開があったら知らせてください、スミスさん。僕は今ちょうど非常に忙しいのですが、時間 を見つけてあなたの件もちょっと調査をしましょう。その間は僕に知らせずに手段を講じないように。さよう なら、あなたから良い知らせだけをと願っています。」
 「確固たる自然の秩序の一端だな、」ホームズは、 瞑想用のパイプを深く吸いながら言った、「あのような娘が寂しい田舎道で自転車に乗らざるをえ ないとなると追いかける者たちがあるのは。疑いもなく誰か秘密の恋人だ。しかしこの事件には細かい 点に奇妙で暗示的なところがあるね、ワトソン。」
 「男がその地点だけに現れることかい?」
 「その通り。チャリントン邸を借りているのが誰か、まずそれを見つけることから僕たちは努力し なければなるまい。それからまた、カラザースとウッドリーの関係はどうなっているのか、だって彼らは まったく違うタイプの男に見えるものね。どうして彼ら二人が二人してラルフ・スミスの親戚を探し訪ねるこ とにそうまで熱心になったのか?もう一点。女家庭教師には相場の二倍払いながら、駅から六マイルもあ るのに馬もおいていないというのはどういう所帯なのか?変だよワトソン--きわめて変だ!」
 「出かけるのかい?」
 「いや、ねえ君、君、が出かけるんだ。これは取るに足らない陰謀かもしれないし、そのために他の重 要な調査を中断するわけにはいかない。君は月曜日、早めにファーナムに到着する。チャリントンの荒れ野 の近くに君は隠れる。君は自分でこれらの事実を観察し、君自身の判断の告げるところによって行動する。 それから、現在邸を占有する者について問い合わせをすませ、戻って僕に報告する。さて、ワトソン、 解決に至る期待を持ちうる確かな足がかりをいくつか手に入れるまでこの問題についてはもう語るまい。」
 女性が月曜日、ウォータルー発九時五十分の列車で出京することを彼女に確認してあったので、 私は早めに出発して九時十三分のに間に合った。ファーナム駅でチャリントンの荒れ野への道は苦も なく知れた。若い女性の冒険の現場は間違えようがなく、道路が延びているその片側は開けた荒れ野、反 対側は見事な木々の点在する庭園を取り囲む古いイチイの生垣だった。そこにある正門の石畳は 苔むし、両側の柱は朽ちた紋章を戴いていた。しかしこの中央の馬車道のほかにもいくつかの地点で 生垣の切れ目とそれらを通る小道があることに私は気づいた。家は道路からは見えなかったが、その周囲は 陰気と老朽を物語るばかりだった。
 荒れ野は花盛りのハリエニシダの金色のまだら模様に覆われ、輝く春の陽光に美しくきらめいていた。 私はこれらの藪の一つの陰を選んで位置につき、邸の正門と長く続く道の両側を見渡せるようにした。 そこは私がいなくなって人通りが絶えていたが、そのとき私の来たのと反対の方角から自転車 に乗ってくる人が見えた。男はダークスーツを身につけ、黒いあごひげがあるのが見えた。チャリントン の庭園のはずれに着くと彼は自転車から飛び降り、それを生垣の切れ目に引き込み、私の視界から消えた。
 十五分が過ぎたところで第二の自転車の人が現れた。今度は駅から来る若い女性だった。チャリントンの生垣に来た 時、彼女が自分の周りを見回すのが見えた。一瞬の後、男が隠れていた場所から現れ、自分の自転車に 飛び乗り、彼女の後を追った。見渡す限り広々とした景色の中、自転車にまっすぐに座る優美な娘、彼女 の後ろで、あらゆる身振りに奇妙なこそこそとした様子を見せながらハンドルに低くかがみこむ男、この二つの姿だけ が動いていた。彼女は振り返って彼を見て、ペースを落とした。彼も速度を落とした。彼女が止まった。 彼も直ちに、彼女の後ろ、二百ヤードを保ち、止まった。彼女の次の行動は勇ましくもあり、また思いが けないものだった。彼女は突然ハンドルをすばやく切り、まっすぐ彼に向け突進した!しかし彼も彼女同 様すばやく、死に物狂いで逃げようと走り去った。まもなく彼女が再び道を戻ってきたが、首に倣岸を漂わせ、 もはや静かな付添いを気にかけてやろうともしなかった。彼もまた方向転換をして、私の 視界から彼らが隠れる道のカーブまでなおもその距離を保っていた。
 私は隠れ場所に残っていたが、それでよかったのであり、まもなく自転車でゆっくりと戻る男が再び現 れた。彼は邸の入り口で中へと曲がり、自転車から下りた。数分間、木々の間に立つ彼を見ることがで きた。彼は両手を上げ、ネクタイを直しているようだった。それから彼は自転車にまたがり邸への私道 を遠ざかっていった。私は荒れ野を走って横切り、木々の間を凝視した。遠くにチューダー様式の煙突がそそ り立つ、古い、灰色の建物がちらりと見えたが、私道は密集した低木の間を走っていたので男はもう見え なかった。
 しかし朝の仕事としてはかなりうまくやってのけたようなので、私は上機嫌でファーナムまで歩いて戻っ た。地元の不動産屋はチャリントン邸について何も話すことはできず、私をペルメル街の有名な会社に紹介 した。そこで私は帰る途中に立ち寄り、その代理人に丁重に迎えられた。いいえ、この夏はチャリント ン邸は借りられない。私はほんのちょっと遅すぎた。約一月前に貸し出された。ウィリアムソン氏が 借主の名だ。彼は初老の立派な紳士だった。礼儀正しい代理人は、依頼人の問題を云々することはできな いから、残念だがそれ以上は申しかねると言った。
 シャーロック・ホームズ氏は、私がその夜提供することのできた長い報告に注意深く耳を傾けたが、それが あのそっけない称賛の言葉を引き出すことはなかった。それを私は期待していたし、ありがたく思っただろうに。 それどころか彼の厳格な顔つきは、 私がやったこと、やらなかったことについて批評しながら、普段よりいっそう厳しくなった。
 「君の隠れた場所だがねえ、ワトソン君、実にまずかったねえ。君は生垣の後ろにいるべきだったよ。 それなら君はこの興味ある人物の顔を間近に見られただろうよ。実際は君ときたら数百ヤードも離れて いて、ミス・スミスよりなおわずかしか話すことができないんだから。彼女は彼を知らない男と考えている。 僕は知っていると確信している。さもなければなぜ彼はそんなに必死になって、彼女が彼の顔を間近に 見ないようにしなければならないのか?君は彼をハンドルにかがみこんでいると描写したね。これも また隠すためだ、だろ。ほんとに君は実にまずいやり方をしたもんだ。彼がその家に戻り、君は彼が誰か見 つけ出そうと思う。君が行ったのはロンドンの不動産屋だ!」
 「どうすりゃよかったんだ?」私はいささか憤激して叫んだ。
 「いちばん近いパブに行くのさ。それがいなかの噂話の中心地だ。主人から食器洗い場の女中まで、 名前を全部教えてもらえるだろうよ。ウィリアムソン!僕にはそんなもの何の意味もないね。 それが初老の男なら、あのたくましい若い女性の追跡から全力疾走で逃げた元気な自転車の男で はないよ。君の遠征で僕たちは何を得た?娘の話が本当だとわかった。そんなことを僕は疑いもしなかった。 自転車男と邸の間に関係があること。それもまた疑ったりしない。邸を借りたのがウィ リアムソンだということ。それが誰の役に立つ?まあ、まあ、ねえ君、そう意気消沈するなよ。今度の日 曜まではもう僕たちにできることもあまりないし、その間に僕が自分で一つ二つ調査するかな。」
 次の朝スミス嬢から、まさしく私が見た出来事を短く正確に語る手紙をもらったが、その手紙の核心は 追伸にあった。
 「ホームズさん、私の信頼をあなたが尊重してくださることと思い、お話しいたしますが、雇い主が私に結 婚を申し込んだことにより、私のここでの立場は難しくなってしまいました。彼の気持ちはまったく心か らの非常に尊敬すべきものであることを確信しています。同時に私の約束は、もちろん、既に決まっています。彼は 私の拒絶を非常に深刻に、しかしまた非常に穏やかに受け取りました。しかしおわかりでしょう、状況は 少し緊張しています。」
 「僕たちの若い友人は苦境に陥ったようだね」とホームズが、手紙を読み終え、考え込むようにして言 った。「間違いなく事件はもともと僕が考えたよりも多くの面白い特徴と発展する可能性を呈しているね。 いなかの静かで穏やかな一日も悪くないし、今日の午後にでも急いで行って、一つ二つ作った仮説を試し てみたくなったよ。」
 ホームズのいなかにおける静かな一日は奇妙な結末を見た。というのもベーカー街に夕方遅く着いた彼の唇は 切れ、額の上には変色したこぶがあり、その上全般に自堕落な様子で、彼その人自身をスコットランドヤ ードの調査の対象としてふさわしいものに見せていた。彼は自分の冒険を大いに楽しみ、それを詳しく語りながら大い に笑った。
 「僕はほとんど活発な運動をしていないので、それをいつも楽しみにしてるんだ」と彼は言った。「知 っての通り、古きよき英国のスポーツであるボクシングの僕の腕前はちょっとしたものだ。時折そ れが役に立つんだ。たとえば今日だって、それがなかったらひどく不面目な災難にあうところだったよ。」
 私は彼に何が起こったのか話すように頼んだ。
 「僕は君にも注意するように勧めておいた例の地元のパブを見つけ、そこで慎重に聞き合わせた。僕がカウンターにいると、おし ゃべりな亭主が僕の求めることをすべて教えてくれた。ウィリアムソンは白いあごひげの男で、一人で 小人数の召使とともに邸に住んでいる。彼が牧師だとか以前そうだったとかいう噂がある。しかし 彼が邸に居住する短い間の一、二の出来事はまったく聖職者のものではないように思われた。僕はすで に聖職者の機関にちょっと問い合わせをしたのだが、彼らの話では、その名前の男は聖職にあったが、そ の経歴は非常に邪悪なものだったということだ。亭主はさらに、いつも週末に邸に客があると教えてくれた --『熱心な人たちでさあ』--特にウッドリーさんという名の赤い口ひげの紳士はいつもあそこにいま す。ここまで知った時やってきたのは誰あろうかの紳士その人で、バーでビールを飲み、会話をす べて聞いていたというわけさ。僕は誰か?僕の望みは何か?質問なんかして僕はどういうつもりか?見事な言 葉の洪水、それに彼の形容詞の激しいこと。彼は悪態の連発をやめて怒りのバックハンドときたが、それを僕は完全に は避けそこなったんだ。続く数分間は実に楽しかったよ。強打の悪党に対するに左のストレートだ。僕は見て の通りで出てきた。ウッドリー氏は馬車で家に帰った。こうして僕の田舎の旅は終わったけれど、これは認めなけ ればならないが、楽しかったとはいえ、僕のサリー州境での一日は君のそれよりずっと有益だったとは言えな いよ。」
 木曜日には依頼人からもう一通手紙が来た。
 「お聞きになっても驚かれないことでしょうが、ホームズさん」と彼女は言った。「私はカラザース さんの仕事をやめようとしています。いくら高い給料でも不愉快な立場に甘んじることはできません。土 曜日にロンドンに出たら戻らないつもりです。カラザースさんのトラップ馬車があるので、寂しい道の危険は、 かってあったにしても、今はもうすんだことです。
 私がやめる特別な原因はと言えば、カラザースさんとの緊張した状況だけでなく、あのいやな人、 ウッドリーさんが再び現れたからでもあります。いつでもぞっとするような人でしたが、災難にあったら しくひどく醜くなったため、今では前よりいっそう恐ろしい顔つきです。私は窓から彼を見たのですが、 ありがたいことに会いませんでした。彼はカラザースさんと長く話をしていましたが、カラザースさんはその後 かなり興奮しているように見えました。ウッドリーは近所に滞在しているにちがいありません。ここには 泊まりませんでしたのに、今朝再び植え込みのあたりをこそこそ歩いているのをチラッと 見ましたから。獰猛な野獣をそこに放したいくらいでした。口ではいえないほど彼がいやだし恐ろしいの です。どうしてカラザースさんはあのような人をちょっとの間でも我慢できるのでしょう?しかし、私の 心配も土曜にはすべて終わるでしょう。」
 「これで確かになったよ、ワトソン。これで確かに」とホームズが重々しく言った。「重大な陰謀があ のかわいい婦人の周りで起こっているんだ。そして彼女の最後の道中を誰も邪魔しないように気をつけるのは 僕たちの義務だ。ねえ、ワトソン、土曜日の朝、僕たち二人は時間を割いて急行し、この奇妙で不確定の 調査が困った結末にならないようにしなくてはなるまい。」
 実を言うと私はここに至るまでこの事件をあまり重大なものと見ておらず、危険というよりはむしろ奇 怪で異様なものと思っていた。男が極めて魅力的な女性を待ち伏せして追いかけるのは驚くほどのことで はないし、厚かましさに欠けるため思い切って彼女に話しかけることもできないばかりか彼女が近づくと 逃げさえするとしたら、それはあまり恐ろしい攻撃者ではない。悪党のウッドリーはまったく違う人物 だが、一度を除けば、私たちの依頼人を襲ったことはなく、今はカラザースの家を訪ねても、彼女のいる所 を邪魔したりしない。自転車の男は疑いなく、酒場の亭主が話していたあの週末に邸に集まる人た ちの一人だ。しかし彼が誰で何を望んでいるかは相変わらずはっきりしなかった。私たちが部屋を 出る前にホームズがポケットにリボルバーをそっと入れたのは事実であり、彼の方法の厳格さでもあるが、それは 私に、この一連の奇妙な出来事の陰に悲劇が潜んでいたということになるかもしれないとの印象を強く 感じさせた。
 雨の夜が明けて晴れ渡った朝となり、色鮮やかに咲くハリエニシダの群生が散在するヒース に覆われた地方は、ロンドンの茶色や灰色に飽き飽きした目にはいっそう美しく見えた。ホー ムズと私は広い砂地の道を歩き、さわやかな朝の空気を吸い込み、鳥のさえずりや生き生きとした春の息吹を楽し んだ。クルークスベリの丘の肩にあたる上り坂から見えるいかめしい邸はオークの古木林の真ん中に そそり立っていたが、木々は、その通り老いているとはいえ、取り囲んでいるその建物よりは若かった。ホームズは、 下の茶色のヒースと芽生えた緑の森の間の長く続くうねった道、赤みがかった黄色の帯を指差した。はるか遠 く、黒い点、私たちの方向に動く乗り物が見えた。ホームズはあせりの声を上げた。
 「三十分余裕をとったのに」と彼は言った。「あれが彼女の馬車とすると、早めの列車に乗るために急いでいるに ちがいない。まずいよ、ワトソン、何とかして彼女に会わなくてはいけないがその前に彼女はチャリントンを通りすぎてしまう。」
 上り坂を通りすぎた瞬間からもう乗り物は見えなくなったが、私たちはペースを上げて前へと急いだが、座りが ちの生活がこたえ始めた私は遅れをとらざるをえなかった。しかしホームズはいつも鍛錬していたし、頼 みとする無尽蔵の気力の蓄えを備えていた。彼は軽快な足取りを決して緩めなかったが、突然、百ヤード ほど私に先んじたところで立ち止まり、悲痛と絶望のしぐさで手を振り上げるのが見えた。同時にキャンターの馬が手綱を引きずる空の馬車が、 道のカーブを回って現れ、私たちに向かってがたがたと疾走してきた。
 「遅すぎたよ、ワトソン。遅すぎた!」私が息を切らして彼のそばへ走ると、彼が叫んだ。「ばかだったよ、もっと早 い列車を考えなかったとは!誘拐だ、ワトソン--誘拐だ!殺人!どうなることやら!道をふさげ! 馬を止めろ!よし。さあ、飛び乗って、僕自身のへまの結果を償えるかどうかやってみよう。」
 私たちは馬車へ飛び乗り、馬の向きを変えたホームズが鞭を鋭く打ち据え、馬車は飛ぶ ように道を戻った。カーブを曲がると邸と荒地の間に伸びる道の全体が現れた。私はホームズの腕 をつかんだ。
 「あの男だ!」と私はあえぎながら言った。
 一人ぼっちの自転車の人が私たちの方に近づいてきた。彼は頭を下げ、肩を丸め、持てる力のすべて をペダルにかけていた。彼はレーサーのように走っていた。突然彼はそのひげ面を上げ、近づく私たちを 見て、自転車を飛び下りながら止めた。例の真っ黒なあごひげは蒼白な顔と奇妙な対照をなし、 その目は熱があるかのように輝いていた。彼は私たちと馬車を見つめた。そして彼の顔に驚きの表情が浮か んだ。
 「おい!そこで止まれ!」彼は道をふさぐために自転車を抱えながら叫んだ。「どこでその馬車を手に 入れた?止めるんだ、おい!」と彼は、脇ポケットからピストルを引き出しながら大声で言った。「止 まれ、おい、さもないと、ほんとに、馬に銃弾を撃ち込むぞ。」
 ホームズは手綱を私のひざに放り投げ、馬車から飛び下りた。
 「君は僕たちが会いたかった男だ。ヴァイオレット・スミス嬢はどこです?」と彼はそのはっきりした早口で 言った。
 「それは私が尋ねることです。君たちは彼女の馬車に乗っている。彼女がどこか知っているはずだ。」
 「道で馬車に出くわしたのです。中には誰もいなかった。僕たちはあの若い女性を助けるために逆走 してきたのです。」
 「ああ!ああ!どうしたらいいのだろう?」と見知らぬ男は、絶望に我を忘れて叫んだ。「やつらが彼女 を捕まえた、あの鬼のウッドリーと悪党の牧師が。来てくれ、ほら、来てくれ、君たちが本当に彼女の友 達なら。手助けしてくれ、彼女を助けよう、たとえ私の死体をチャリントンの森に残さなければならない としても。」
 彼は狂ったように、ピストルを手に、生垣の切れ目に向かって走った。ホームズが続き、私も、道 端で草を食む馬を残してホームズに続いた。
 「ここを彼らは通ったのだ」と彼が、ぬかるんだ小道の上のいくつかの足跡をさして言った。「お い、ちょっと待って!茂みの中のこれは誰だ?」
 それは革のひもとゲートルをつけ、馬丁のような服装をした十七くらいの若い男だった。彼は仰向けに 横たわり、ひざをひきつらせ、頭にひどい傷を負っていた。彼は気絶していたが生きていた。彼の傷を一目 見て、骨にまでは達していないことが私にはわかった。
 「ピーターだ、馬丁の」と見知らぬ男が叫んだ。「この男が彼女を送ったんだ。やつらが彼を引きずりおろ し、こん棒で殴ったんだ。寝かしておこう。この男の役には立てないが、一人の女性に降りかかる最悪の運命か ら彼女を救えるかもしれない。」
 私たちは半狂乱で木々の間をうねる細道を急いだ。私たちは家を取り囲む植え込みにたどり着き、ホー ムズが止まった。
 「彼らは家に向かってはいない。こっちの左側に彼らの跡がある--ここだ、月桂樹の藪のそばに。 ああ、言わないこっちゃない!」
 そのとたんに女の鋭い叫び声が--恐怖に我を忘れた、震える叫び声が--目の前に茂った低木の 木立の緑をやぶって聞こえた。それは突然声がいちばん高くなったところで窒息し、ごろごろ鳴 って途切れた。
 「こっちだ!こっちだ!彼らはボウリングのレーンです」と見知らぬ男が叫び、藪の中を突進した。「ああ、 卑劣なやつらめ!ついてきてください、みなさん!遅すぎた!遅すぎた!まったくなんてことだ!」
 私たちは突然、森の古木に囲まれたすばらしい緑の芝生の空き地に飛び込んだ。その向こうの端、 オークの巨木の陰に立っていたのは三人の奇妙な一団だった。一人は女性、私たちの依頼人で、がっくりとして気を失いかけ、 口をハンカチでふさがれていた。彼女の反対側に立つのは粗野で、太った顔、赤い口ひげの 若い男で、ゲートルを着けた足を大きく開き、片手を腰に、他方で乗馬鞭を振るい、全体に得意満面の 空威張りを思わせる態度だった。彼らの間には年配の、灰色のあごひげの男が、軽いツイードのスーツの上に短いサ ープリスを着けており、私たちが姿を現した時、祈祷書をポケットにしまって邪悪な花婿の背中を陽気に祝う ようにぴしゃりと打ったのを見ると、明らかにちょうど結婚式を終えたところだった。
 「二人が結婚した!」と私はあえぎながら言った。
 「急いで!」私たちのガイドが叫んだ。「急いで!」彼は空き地を横切って突進した。ホーム ズと私が続いた。私たちが近づいた時、女性はよろめいて木の幹にもたれて身体を支えた。元牧師、ウ ィリアムソンは、礼儀の真似事で私たちに腰をかがめ、威張り屋のウッドリーは 残忍で勝ち誇った大きな笑い声とともに進み出た。
 「あごひげは取っていいぞ、ボブ」と彼は言った。「ちゃあんと君だってわかるよ。ま、君と君のお仲間は ウッドリー夫人を紹介できるところにちょうど間に合って来たというわけだ。」
 私たちのガイドの答えは奇妙なものだった。彼はその特徴となっていた濃いあごひげをひっつかみ、 それを地面に投げ捨て、その下にあった長い、黄ばんだ、きれいにひげをそった顔をあらわにした。それ から彼はリボルバーを上げ、手にした危険な乗馬鞭を振り回しなが ら詰め寄ってくる若いならず者に突きつけた。
 「そうだ」と私たちの味方は言った。「私はボブ・カラザースだ。たとえ絞首刑にならざるをえないと してもこの女性のことはちゃんとしてやる。お前が彼女を襲ったら何をするかは言ったろう、そし て、誓って約束通りにするぞ!」
 「遅すぎたな。彼女は私の妻だ!」
 「いいや、彼女はお前の未亡人だ。」
 彼のリボルバーがバンと鳴り、ウッドリーのベストの胸から血が噴き出すのが見えた。彼は叫び声 とともにくるりと向きを変え、仰向けに倒れた。その醜い赤い顔はたちまち恐ろしいまだら模様の蒼白に なっていった。まだサープリスを身につけていた老人は、いきなり聞いたこともないような汚らわしい悪罵を連発 し、自身のリボルバーを引っ張り出したが、それをかまえる前にホームズの武器の銃口を目にしていた。
 「もうたくさん」と友は冷静に言った。「銃を捨てろ!ワトソン、それを拾って!彼の頭に向 けるんだ!ありがとう。君、カラザース、僕にリボルバーを渡したまえ。もう暴力はなしにしよう。さあ、 それを引き渡すんだ!」
 「それであなたは誰です?」
 「僕の名はシャーロック・ホームズ。」
 「おお!」
 「僕のことは聞いたことがあるようですね。警察が来るまで代わりを務めます。おい、君!」と彼は空 き地の端に姿を現し、びっくりしている馬丁に向かって叫んだ。「こっちへ来たまえ。この手紙を持っ て精一杯ファーナムまで馬を走らせるんだ。」彼はメモ帳の一枚に数語を書きなぐった。「それを警察署の 警視に渡すんだ。彼が来るまで君たち全員を僕の個人的管理の下に引き止めておかなければならない。」
 強い、威圧的なホームズの個性が悲劇の現場を支配し、全員が等しく彼の操り人形となった。ウィリアムソ ンとカラザースは傷ついたウッドリーを家へ運び入れることになったし、私はおびえた娘に手を貸していた。負傷者 は自分のベッドに寝かされ、ホームズの要請により私が診察した。私は、古い壁掛けのかかった食堂に二 人の囚人を前にして座っているホームズの所へ報告を持っていった。
 「彼は助かるよ」と私は言った。
 「なんと!」とカラザースが叫んで椅子から飛び上がった。「何をおいても二階へ行って仕留めてこ よう。あなたはあの娘が、あの天使が極道のジャック・ウッドリーに一生縛り付けられるべきだと言うのか?」
 「君がそのことを心配する必要はないですね」とホームズは言った。「彼女が決して彼の妻になら ないまったく正当な理由が二つあります。まず第一に、ウィリアムソン氏の結婚式を執り行う権利に疑いを かけても間違いのないところです。」
 「私は牧師に任命されたのだ」と老悪党は叫んだ。
 「そして剥奪もされた。」
 「一度聖職者になれば、永久に聖職者だ。」
 「僕は違うと思う。認可書はどうかな?」
 「結婚式を行う認可書は持っている。このポケットに入っている。」
 「それならだまして手に入れたものだ。いずれにせよ強制された結婚は決して結婚とは言えないし、きわめて容易ならぬ 重罪だ。君も死ぬ前にはわかるだろうがね。その点を考えぬく時間がこれから十年かそこらの間、あるだろう、 僕が間違ってなければね。君の場合はカラザース、ピストルはポケットにしまっておいた方がよかっ た。」
 「私もそう思い始めました、ホームズさん。しかし私があの娘を守るためにしてきた用心のことをすっ かり思い返し--というのは私は彼女を愛していましたし、ホームズさん、そして愛とは何かを初めて知った のです--キンバリーからヨハネスブルグまで手に負えぬやつと評判の、南アフリカ一 の人でなしのごろつきの手に彼女が落ちると考えると私はまったく狂乱状態に陥りました。だって、ホーム ズさん、あなたは信じられないでしょうが、あの娘がうちで働くようになって以来、この家を通りすぎる彼 女に害が及ばぬようにするために一度も欠かさず自転車で彼女をつけたものです。ここにはこういうなら ず者たちが潜んでいるのがわかっていましたから。彼女に私がわからないように、彼女からは距離を取り、 あごひげをつけていました。というのも彼女は善良で気概のある娘ですし、私 が田舎道で彼女の後をつけていると思ったら、我が家の仕事に長くはとどまらなかったでしょうから。」
 「なぜ彼女に危険があることを話さなかったのです?」
 「その場合もやはり彼女は暇を取るでしょうし、私はそれに直面するのが耐えられなかったのです。 彼女に私を愛することができないとしても、家の周りで彼女のかわいい姿を見るだけでも、そして彼女の声を聞 くだけでも、私にとっては十分だったのです。」
 「まあ、」私が言った、「あなたはそれを愛と呼ぶが、カラザースさん、私なら利己主義と呼びますね。」
 「たぶんその二つのものは両立するのです。いずれにせよ、私は彼女を行かせることはできませんでした。 そのうえ、そこいらにこの連中がいては、誰かが近くで彼女のことを気をつけるのがよかったのです。そ こへ海外電報が来たもので彼らが確かに動き出すと私にはわかりました。」
 「何の電報?」
 カラザースはポケットから電報を取り出した。
 「これです」と彼が言った。
 それは短く簡明なものだった。--
 「老人は死んだ。」
 「フム!」とホームズは言った。「事態がどう運んだかわかったようだし、このメッセージが君の言う ように彼らを追い込んだわけも理解できますね。しかし待っている間、君が話せることを話してもらえ ますか。」
 サープリスを着た年取った無頼漢が突然下品な言葉を連発しだした。
 「神かけて、」彼は言った、「たれこみやがったら、ボブ・カラザース、お前がジャック・ウッドリー にしたのと同じ目にあわせてやる。お前はあの娘のことで気のすむまでめそめそするがいいや、それはおまえ自 身のことだからな。だがこの私服のデカに仲間のことを悪く言いやがったら、そりゃあお前がこれまでにしたことの中でも最悪 のことになるんだぞ。」
 「尊師は興奮なさるにはおよびませんな」とホームズはタバコに火をつけながら言った。「君に不利な 事実はまったくはっきりしているし、僕は個人的な好奇心からいくつか細かい点を訊きたいだけだ。しかし、 話すのが難しいというなら僕が話をしよう、それで君もどこまで秘密を隠しおおせる見込みがあるものかわかるだろう。 まず第一に、君たち三人はこのたくらみのために南アフリカから来た--君ウィリアムソン、君カラザー ス、そしてウッドリー。」
 「第一のうそ」と老人は言った。「俺は二人のうちどっちも二月前までは見たこともなかったし、生涯アフリカ に行ったこともない、だからそいつはパイプに突っ込んで吹かしてしまうがいいや、でしゃばりホームズ さんよ!」
 「彼が言うのは本当です」とカラザースが言った。
 「結構、結構、君たち二人がやってきた。尊師は僕たちの国産品だ。君たちは南アフリカでラルフ・ス ミスを知っていた。君たちには彼が長くは生きていないだろうと信じる理由があった。君たちは彼の姪が 彼の財産を相続することを調べ出した。どうです--ええ!」
 カラザースはうなずき、ウィリアムソンは悪態をついた。
 「間違いなく彼女が最近親者であり、老人が遺言書を作らないことに君たちは気づいていた。」
 「読み書きができなかったので」とカラザースが言った。
 「そこで君たちはやってきた、君たち二人で、そして娘を捜し出した。君たちの一人が彼女と結婚し、 他方は略奪品の分け前にあずかろうという考えだ。何らかの理由でウッドリーが夫に選ばれた。それはなぜ かな?」
 「船旅の途中で彼女をかけてカードをやりました。彼が勝ちました。」
 「なるほど。君は若い婦人を雇い入れ、そこでウッドリーが求愛することになった。彼女は彼が酔っ払 いの人でなしとはっきり知り、彼と関わりを持とうとしなかった。そうするうちに、君自身が女性に恋をし てしまったことで、君たちの取り決めにちょっと狂いが生じた。君はあの悪党が彼女を所有するという考えに もはや耐えられなくなった。」
 「ええ、まったく、耐えられませんでした!」
 「君たちの間にけんかが起きた。彼はかっとなって君を見捨て、君とは無関係に自分の計画を立て始め た。」
 「なあウィリアムソン、この人に我々が話せることはたいしてないような気がするよ」とカラザース が苦笑いをしながら言った。「そうです、我々はけんかをして彼が私を殴り倒しました。どのみちそのこ とでは私も彼と同じようなものです。それから私には彼の消息がわからなくなりました。そんな時彼はこの牧師役を見つけ 出したのです。彼女が駅に行くために通らなければならない道筋のこの場所に彼らが共同で所帯を構えた のを私は知りました。何かよからぬことが起こりかけているのはわかっていましたので、その後私は彼女 から目を離しませんでした。私は彼らが何をしようとしているのかどうしても知りたかったので、時々彼らを調 べました。二日前ウッドリーがラルフ・スミスが死んだことを示すこの電報をもって私の家にやってきま した。彼は私に取り決めを守るつもりがあるか尋ねました。私はないと言いました。彼は、私自身が娘と 結婚して彼に分け前を与えるのはどうかと尋ねました。喜んでそうしたいところだが彼女が私では我慢できまい、 と私は言いました。彼は言いました、『まず彼女と結婚してしまおう、一週間か二週間たてば彼女の見方 も少しは変わるだろう。』私は乱暴なことに関わりたくないと言いました。すると彼は口汚い悪党に ふさわしく悪態をつきながら、きっと彼女を手に入れるから見ていろと言いながら立ち去りました。彼女は この週末に私のところをやめる事になっていましたし、彼女を駅まで運ぶトラップ馬車を手に入れたのです が、私は不安な気持ちでしたので彼女を自転車で追いました。しかし、彼女は出発し、私が彼女に追いつく 前に危害が加えられました。あなた方二人が彼女の馬車を走らせて戻るのを見て初めてそのことを知り ました。」
 ホームズは立ち上がり、タバコの吸殻を暖炉に投げ込んだ。「僕は実に鈍感だったよ、ワトソン」とホ ームズは言った。「君が報告の中で自転車の男を見ていて男が植え込みの中でネクタイを整えていると思 ったと言った時、それだけですべてがわからなくてはいけなかったのに。しかし、僕たちは奇妙な、そ していくつかの点で独特な事件を喜ばしいものとして差し支えないね。地元の警官が三人、車道にいるようだし、嬉し いことに見れば小さな馬丁が彼らと歩調を合わせて歩けるようじゃないか。ということは彼も興味深い花婿も朝の冒険 で永久に損なわれたのではなさそうだ。どうだろう、ワトソン、君が医師の立場でスミス嬢のご機嫌を伺 い、彼女が十分に回復していたら、僕たちが喜んで彼女の母親の家まで付き添って行くと伝えてくれないか。もし彼女が 完全には回復していなかったら、ミッドランドの若き電気技師に電報を打つところだとほのめかせばおそら く完璧に治癒する事がわかるだろう。君の場合は、カラザースさん、邪悪な陰謀における君の役割を償う ためにできることはすでにやったと思いますよ。僕の名刺です、僕の証言が裁判で君のお役に立つな ら自由にお使いください。」
 読者もお気づきのことと思うが、私たちの活動は絶え間なくめまぐるしいものなので、私の物語を手際よく仕上げ、 好奇心を持つ人々の期待する細部にわたる結末を提供するのが難しいことがよくある。どの事件も別の 事件のプレリュードであり、一旦危機が去れば登場人物たちは私たちの多忙な生活から永久に消え去ってし まうのだ。しかし、この事件を扱った私の原稿の終わりに見つけた短い覚書の中に、ヴァイオレット・ スミス嬢が実際に多額の財産を相続し、今ではウェストミンスターの名高い電気技師会社、モートンアンドケネディの 代表社員、シリル・モートンの妻である、との記録がある。ウィリアムソンとウッドリーはともに誘拐と 暴行の罪で裁判にかけられ、前者は七年の刑に、後者は十年の刑に処せられた。カラザースの運命につい ては記録がないが、ウッドリーが最も危険な悪党という評判の持ち主であるため、彼の暴行は法廷であま り重大なものと見られなかったのは確かで、数ヶ月が正義の要求を満足させるに十分なものであると私は思う。

プライオリ・スクール(The Adventure of the Priory School)

 私たちは劇的な登場や退場をベーカー街の小さな舞台で見てきたが、ソーニークロフト・ハクスタブル 博士の初登場ほど突然で驚くべきものは思い出すことができない。その重量級の学問上の栄誉を載せるに は小さすぎると思われる名刺が数秒その人に先んじ、それから本人が登場した--大きくてもったい ぶって威厳があって、彼こそは冷静と堅実の権化であった。ところが第一幕のその人は、ドアが背後に しまるとよろめいてテーブルにもたれ、そこで床に滑り落ち、堂々たる姿は炉辺のクマ皮の敷物の 上に気絶して腹ばいになっていた。
 私たちはぱっと立ち上がり、ちょっとの間、驚いて言葉もなく、人生の大洋のはるか沖で遭った突然の嵐の破壊力を を物語るこの重々しい難破漂着物を見つめていた。それからホームズが急いで彼の頭に クッションをあて、私は彼の唇をブランデーで湿らせた。青白い太った顔は心配事でしわがより、閉 じた目の下に垂れ下がるたるみは鉛色で、開いた口の角は悲しげに垂れ、なだらかなあごはひげを そっていなかった。カラーとシャツには長旅の汚れがつき、ボサボサの髪の毛が形のよい頭から逆立 っていた。私たちの前に横たわっていたのはひどい打撃を受けた男だった。
 「どうしたのかな、ワトソン?」とホームズは尋ねた。
 「まったくの疲労だ--あるいは単なる空腹と疲れか」と私は、生命の川が細くわずかにちょろちょろと 流れる、弱々しい脈を取りながら言った。
 「マクルトンからの往復切符だ、イングランド北部の」とホームズが、それを時計入れのポケットか ら引き出しながら言った。「まだ十二時にならない。確かに彼は早く出てきたね。」
 しかめたまぶたが震えだし、続いてぼんやりした灰色の二つの眼が私たちを見上げた。一瞬の後、 その人はよろよろと立ち上がり、恥ずかしさに顔を深紅に染めた。
 「弱ったところをお見せしてお許しください、ホームズさん。少しばかり動転してい ましたもので。ありがとう、ミルクを一杯とビスケットでもいただければきっとよくなるだろうと思います。 ホームズさん、私はあなたを間違いなくお連れして帰るために直接お伺いしました。電報では事件が絶対に緊急のもの であることをあなたに確信していただけないのではないかと思ったもので。」
 「あなたがすっかり回復された時に----」
 「私はすっかり回復しました。どうしてあんなに弱ったのか見当もつきません。お願いします、ホームズさん、 次の列車で私とマクルトンまで来てください。」
 我が友は首を振った。
 「同僚のワトソン博士も言ってくれると思いますが、僕たちは現在極めて多忙なのです。このフェラーの 文書の事件に従事していますし、アバガブニーの殺人の裁判も近づいています。きわめて重要な問題でな ければ現在ロンドンから離れるわけにいきません。」
 「重要!」私たちの客は両手を上げた。「ホールダネス公爵の一人息子の誘拐について何もお聞きにな っていないのですか?」
 「なんと!前閣僚の?」
 「その通りです。私たちはそのことが新聞に出ないようにしていたのですが、昨夜の『グローブ』にちょっ と噂が載りまして。あなたのお耳にも届いたかと思いましたが。」
 ホームズは長く細い腕をさっと伸ばし、彼の百科事典の『H』の巻を手に取った。
 「『ホールダネス、第六代公爵、ガーター勲爵士、枢密顧問官。』--この項の半分!『ビバリー男爵、 カーストン伯爵』--ほう、何というリスト!『1900年よりハラムシャイアの女王陛下代理官。 1888年、サー・チャールズ・アプルドアの娘エディスと結婚。相続人であり唯一の子、サルタイア 卿。約二十五万エーカーを所有。ランカシャーとウェールズに鉱山。住所は、カールトン・ハウス・テラ ス。ホールダネス・ホール、ハラムシャイア。カーストン・キャスル、バンガー、ウェールズ。1872年、 海軍大臣。首席政務--』まあいい、まあいい、この男は確かに最も身分の高い臣下の一 人だね!」
 「最も身分は高く、そしておそらく最も裕福な。私は、ホームズさん、あなたが職業上の問題では非常 に高潔な方針を守り、仕事のための仕事をいとわないのを存じています。しかし、これはお話し して差し支えないことですが、閣下はすでにご子息の居場所を教えられる人物には五千ポンドの小切手を、ご子息を連れ ていった男、もしくは男たちの名を言えるならさらに千を与えるとそれとなくおっしゃってます。」
 「それは豪勢な申し出ですね」とホームズは言った。「ワトソン、僕たちは北イングランドに戻られ るハクスタブル博士に同行すべきようだね。さてそれではハクスタブル博士、そのミルクを飲み終えられ たら、何が起こったのか、いつ起こったのか、どのように起こったのか、そして最後に、マクルトンの近 くのプライオリスクールのソーニークロフト・ハクスタブル博士がその問題とどんな関係にあり、なぜ事 件の三日後になって--あなたのあごの状態が日付を教えてくれます--僕のささやかな尽力を求めにい らしたのか、どうか教えてください。」
 訪問者はミルクとビスケットを食べ終えた。目には光、頬には赤みが戻った彼はすごい勢いで 状況を明瞭に説明し始めた。
 「まず皆さん、プライオリは私立小学校であり、私はその創立者であり校長であるとご承知ください。 『ハクスタブルの側面からのホラチウス』は私の名をご記憶に呼び起こすかもしれません。 プライオリは間違いなくイングランドで最高かつ最上の私立の小学校です。 レバーストーク卿、ブラックウォーター伯爵、カスカート卿--皆さんがご子息を私に託されました。 しかし三週間前、ホールダネス公爵が秘書のジェイムズ・ワイルダー氏をよこされ、近々十歳になる 一人息子で跡継の幼いサルタイア卿を私の世話に委ねると言われた時、私の学校もその絶頂に達したと 感じました。これが私の人生で最も手ひどい不幸の前奏曲になるとは思ってもみませんでした。
 五月一日、夏学期の初めに少年は到着しました。感じのよい若者で、すぐに我が校のしきたりに慣れま した。中途半端な打ち明け話はこうした場合不合理ですし、これはお話しても軽率には当たらないと 思うのですが 、少年は家では完全に幸福とは言えなかったのです。公爵の結婚生活が穏やかなもので はなかったこと、事は相互の同意により別居、公爵夫人が南フランスに居を定めるという結果になっ たことは公然の秘密です。これはほんの少し前に起こったことであり、少年が強く母親に共感していたこ とも知られています。彼は母親がホールダネス・ホールを出発した後ふさぎ込み、公爵が彼を私の学校にや ろうと望んだのもこれが理由です。二週間で少年はすっかり私どものところでくつろぎ、見たところまっ たく幸せそうでした。
 彼が最後に見られたのは五月十三日の夜です--すなわち、今週の月曜の夜です。彼の部屋は三階に あり、近づくには二人の少年が寝ている別の大きな部屋を通ります。この二人の少年は何も見聞きせず、 ですからサルタイア少年がそこを通って出ていないのは確かです。彼の部屋の窓は開いていましたが、 そこからは丈夫なツタが地面まで続いています。下の足跡をたどることはできませんでしたが、 間違いなくこれが唯一、可能な出口だと思います。
 彼がいないことが発見されたのは火曜の朝七時です。ベッドには寝た跡がありました。彼は出かける前 に自らいつもの黒いイートンジャケットとダークグレーのズボンという学生服をすっかり着こみました。誰 かが部屋に入った形跡はなく、また、内側の部屋の年長の少年、カウンターは非常に眠りが浅い方ですか ら、叫び声や争う音のようなものがあれば間違いなく聞いたはずです。
 サルタイア卿の失踪が発見された時、私は直ちに全校の少年たち、教師たち、使用人たちの点呼を取り ました。そこで私たちは脱出の時サルタイア卿が一人ではなかった事実を発見しました。ハイデガーとい うドイツ人の教師がいなかったのです。彼の部屋は三階にあり、建物のいちばん端で、サルタイア卿の部屋と同じ側に 面しています。彼のベッドにも寝た跡がありました。しかし彼はどうやら着替え半ばで出かけたらしく、 シャツとソックスは床の上にありました。彼がツタを伝って下りたのは間違いなく、というのも芝生に着 地した彼の足跡を確かめられました。彼はこの芝生のそばの小屋に自転車を置いていましたが、それもなく なっていました。
 彼は私のところに二年いますし、来た時にも非常に立派な推薦状がありました。しかし彼は無口で気難しい男で、 教師たちにも少年たちにもあまり人気はありませんでした。逃亡者たちの行方はまったく見つからず、今日、 木曜の朝になっても火曜の朝同様何もわかりません。もちろんすぐにホールダネス・ホールにも問い合わせを しました。ほんの数マイル離れているだけですし、突然ホームシックに襲われて父親の元へ帰ったのかと思っ たのです。しかし彼の消息はありませんでした。公爵はひどく動揺なさって--私について言え ば、ごらんのように心配と責任から神経衰弱の状態になってしまいました。ホームズさん、いつの日かあなたが全能力を 発揮することがあるなら、どうか今そうするよう、切にお願いします、これ以上それに値する事件はもう一 生ないでしょうから。」
 シャーロック・ホームズはきわめて熱心に不幸な校長の話を聞いていた。そのゆがんだ眉と眉間の深いし わを見れば、無理に勧めなくても彼が問題に全神経を集中していることがわかった。それは、それに伴う巨額の利益を別 にしても、複雑なもの、異常なものを愛好する彼の心に直接訴えたにちがいなかった。そこで彼は手帳を引 っ張り出し、一つ二つメモを書きとめた。
 「もっと早く僕のところに来られなかったのは非常に怠慢でしたね」と彼は厳しく言った。「調査の初め から非常に重大なハンディキャップがあるわけです。たとえばこのツタやこの芝生ですが、専門家が観察 すれば何も得られないとは到底思えません。」
 「私の責任ではないのです、ホームズさん。閣下が公然たる醜聞になるのを一切避けたいときわめて強く望まれた のです。ご家族の不幸が世間に引きずり出されるのを恐れられたのです。なんにせよその種のことはひどく嫌 われます。」
 「しかし多少は公式の調査もあったのでしょう?」
 「ええ、それがすっかり期待はずれでして。明白な手がかりが直ちに得られ、すなわち少年と若い男が 近くの駅を朝早い列車で発つのを見たという報告がありました。ほんの昨日の夜になってその二人がリバ プールで捕らえられたという知らせがありましたが、彼らは進行中の事とは少しも関係がないことがわか りました。そういうわけで絶望と失望の中、眠れぬ夜を過ごした後、早い列車でまっすぐあなたのとこ ろへ来たのです。」
 「この間違った手がかりが追跡される間、地元の調査は力を抜くことになったでしょうね。」
 「まったく中断しています。」
 「それでは三日間が無駄になりましたね。事件はこれ以上はなく遺憾な処理をされてきたわけです。」
 「私もそう思います、それを認めます。」
 「それでも問題を最終的に解決するのは可能なはずです。喜んで調査にあたりましょう。行方不明の少年 とドイツ人の先生の間の何らかの関係を突きとめることはできましたか?」
 「まったく何も。」
 「その先生のクラスにいましたか?」
 「いえ。私の知る限り言葉を交わしたこともありません。」
 「それは確かに非常に奇妙ですね。少年は自転車を持っていましたか?」
 「いいえ。」
 「ほかの自転車がなくなったということは?」
 「いいえ。」
 「確かですね?」
 「確かです。」
 「さて、それでは、あなたはこのドイツ人の先生が真夜中に少年を腕に抱え自転車に乗って行ったなど とまじめにおっしゃるつもりはないでしょうね?」
 「とんでもない。」
 「ではあなたはどのようなご意見をお持ちです?」
 「自転車は目くらましだったかもしれません。それはどこかに隠され、二人は歩いて立ち去ったのかも しれません。」
 「ごもっとも。しかしちょっとばかげた目くらましに思えませんか?その小屋にほかの自転車は?」
 「数台。」
 「彼らがそれに乗って立ち去ったと思わせたいのなら二台隠しそうなものじゃないですか?」
 「そうするでしょうね。」
 「もちろんそうするでしょう。目くらまし説はいけません。しかしその事は立派な調査の出発点で す。何と言っても自転車を隠したり壊したりするのは易しいことではありません。もう一問。その日、失踪 する前に誰か少年に会いに来ましたか?」
 「いいえ。」
 「彼は手紙を受け取りましたか?」
 「ええ。一通。」
 「誰から?」
 「父親から。」
 「少年の手紙を開けたのですか?」
 「いいえ。」
 「どうして父親からとわかりました?」
 「封筒に紋章がありましたし、公爵独特の堅苦しい筆跡で宛名が書かれていました。それに、公爵 が書かれたことを覚えておられます。」
 「その前に手紙が来たのはいつです?」
 「数日間はありませんでした。」
 「フランスから来たことは?」
 「いえ、一度も。」
 「僕の質問の要点はおわかりでしょう、もちろん。少年は力ずくでさらわれたか自由意志で行ったかで す。後者の場合、そのような幼い少年にそのようなことをさせる外部からの教唆が必要だと思われませんか。 訪問者がなければ、その教唆するものは手紙で来たにちがいありません。それゆえ僕は彼と 手紙のやり取りをしたのが誰かを見つけ出そうとしているのです。」
 「私はあまりお役に立てぬようです。彼のただ一人の文通相手は私の知る限り、父親だけです。」
 「そして失踪のその日に彼に手紙を書いたのですね。父親と息子の間の仲はよかったですか?」
 「閣下はどなたともあまり親しくなさることはありません。大きな公的問題に完全に没頭していらっしゃるので、通常の 感情一切にはどちらかといえば動かされないようです。しかしご子息にはご自身なりにいつも優しくなさってました。」
 「しかし子息の共感は母親に?」
 「そうです。」
 「子息がそう言ったので?」
 「いえ。」
 「それでは公爵が?」
 「いえ、とんでもない!」
 「それではどうしてわかりましたか?」
 「閣下の秘書、ジェイムズ・ワイルダー氏と打ち明け話をしたことがあります。サルタイア卿の気持ち を教えてくれたのは彼です。」
 「わかりました。ところで、公爵の最後の手紙ですが--少年がいなくなった後彼の部屋で見つかりま したか?」
 「いいえ。彼は持っていきました。だが、ホームズさん、もうユーストンに行った方がよくありません か。」
 「四輪馬車を頼みましょう。十五分であなたのお望みどおりです。お宅に電報を打つならハクスタブル さん、ご近所の人たちには調査は依然リバプールで続いていると思わせるのがいいでしょう、いや偽 のえさに獲物が導かれるところならほかのどこかでもかまいませんが。その間僕はお膝元で少しば かり内密に仕事をしましょう。たぶん臭跡はあまり薄れていないでしょうから、ワトソンと僕のような老練 な猟犬なら嗅ぎ付けるかもしれません。」
 その夜、私たちはハクスタブル博士の著名な学校のあるピーク地方の冷たくすがすがしい空気の中にい た。私たちが到着した時には既に暗かった。玄関ホールのテーブルの上には一枚の名刺が置いてあり、執 事が何事かを主人にささやくと、主人は大きな目鼻に動揺を表して私たちを見た。
 「公爵がこちらにおいでです」と彼は言った。「公爵とワイルダーさんが書斎に。さあ、お二方、あな たがたをご紹介しましょう。」
 もちろん私はこの有名な政治家の写真は見慣れていたが、その人本人はその肖像とはまったく違ってい た。彼は長身の威厳のある人で、一分の隙もない服装をして、やせた顔を引きつらせ、鼻は異様に湾曲して高か った。その顔色は真っ青で、房飾りの間に懐中時計の鎖がかすかに光る、白いチョッキの上に垂れ下がる 長い、先が細くなったあごひげの鮮やかな赤との対照になおさらはっとさせられた。ハクスタブル博士の 炉辺の敷物の中央から私たちを無表情に見ている堂々たる存在はそのような人だった。そのそばに立つ非常 に若い男が個人秘書のワイルダーであろうと私は考えた。それは知的なライトブルー の目、表情豊かな顔の、小柄で神経質で機敏な男だった。すぐに、鋭い、はっきりした口調で話の口を切った のは彼だった。
 「今朝お訪ねしたのですがね、ハクスタブル博士、あなたがロンドンに発つのを止めるには遅すぎまし た。聞くところではあなたはシャーロック・ホームズ氏にこの事件の指揮を取るようお願いするつもりだ とか。閣下は驚かれていますよ、ハクスタブル博士、相談もなくそのような手段を取られたことを。」
 「警察が失敗したと知って私は----」
 「閣下は決して警察の失敗を確信していらっしゃるのではありません。」
 「しかし間違いなく、ワイルダーさん----」
 「よく知っておいででしょう、ハクスタブル博士、閣下が公の醜聞を一切避けたいととりわけ望ま れているのを。秘密を打ち明ける人はできる限り少なくしたいのです。」
 「事は簡単に収拾できます」と脅しつけられた博士が言った。「シャーロック・ホームズさんには朝 の列車でロンドンに帰っていただけばよいでしょう。」
 「それはいけません、博士、それはいけない」とホームズは至極落ち着いた声で言った。「こちら北部の空気 は爽快だし快適です。ですから数日この荒れ野で過ごし、できる限り没頭するつもりです。あなたの家に 宿を取るか、村の宿屋にするかは、もちろん、あなたの決めることです。」
 不幸な博士は最終的に決めかねていると私にはわかったが、そこから彼を救ったのは、食事 の合図のどらのように鳴り渡った赤いあごひげの公爵の太い、朗々たる声だった。
 「私もワイルダー君と同じ考えでね、ハクスタブル博士、あなたは私に相談したほうが賢明でした。し かしあなたが既にホームズさんに打ち明けたからには、その助力を私たちの役に立てないのも不合理 です。宿屋に行くなどとんでもない、ホームズさん、ホールダネス・ホールに来てお泊りくだされば幸いで す。」
 「ありがとうございます、閣下。調査の目的からして謎の現場にとどまる方が賢明であろうと僕は思 います。」
 「お好きなように、ホームズさん。ワイルダー君なり私なりが差し上げられる情報はもちろん、なんな りと。」
 「おそらくお邸でお目にかかる必要が出てくるでしょう」とホームズが言った。「ただ一つ今お尋ね したいのは、どうでしょう、ご自身でご子息の謎の失踪に関する説明として何か考えをまとめられましたか。」
 「いいえ、何もありません。」
 「お辛いことを口にするようで申し訳ありませんが、ほかに方法がないのです。あなたは 公爵夫人が何か問題に関係しているとお考えですか?」
 偉大なる大臣はかなりためらいを見せた。
 「そうは思いません」と彼はようやく言った。
 「もう一つの最もわかりやすい説明は、お子さんが身代金を取る目的で誘拐されたというものです。何かその種 の要求はありませんでしたか?」
 「いいえ。」
 「もう一問、閣下。この出来事の起こった日にご子息に手紙を書かれたと承知していますが。」
 「いいえ。私が書いたのは前日です。」
 「その通り。しかし彼が受け取ったのはその日ですね?」
 「ええ。」
 「あなたの手紙の中に彼の心の平衡を失わせる、あるいはそのような手段を取る気にさせる何かがありましたか?」
 「いいえ、間違いなくありません。」
 「ご自身で投函されましたか?」
 貴族の返答は、いささか興奮して口をはさんだ彼の秘書によりさえぎられた。
 「閣下にはご自分で手紙を投函する習慣はありません」と彼は言った。「手紙はほかのものと一緒に書 斎の机の上にありましたので、私が自分で郵便袋に入れました。」
 「その中にそれがあったのは確かですか?」
 「はい。それに気がつきました。」
 「その日閣下は何通手紙を書かれました?」
 「二十か三十。私には多数の手紙のやり取りがあります。しかし明らかにこれはちょっと見当違いでは?」
 「そうとばかりは」とホームズは言った。
 「私自身としては、」公爵は続けた、「警察には南フランスに注意を向けるよう勧めました。既に申し あげたように私は公爵夫人がそのようなけしからぬ行為を奨励するとは思いませんが、あの子はまったく 間違った考えを持っていましたし、こちらのドイツ人に扇動され、助けられて彼女の元へ逃げたということもあ りえます。さて、ハクスタブル博士、私たちはもう邸に戻ります。」
 私にはホームズがほかにも質問をしたいと思っているのが見て取れた。しかしこの貴族のぶっきらぼうな態度は会見 の終わりを表していた。明らかに、極端に貴族的な性質の彼にはこのような個人的な家族の問題を見知らぬ人と話 しあうのは最も嫌悪すべきものであり、新たな質問のたびにその公爵としての経歴のうちの、 陰でおおわれた目立たぬ隅に、より強烈な光が浴びせられはすまいかと彼は恐れていたのだ。
 貴族とその秘書が立ち去ると、友は直ちに持ち前の熱心さで調査に精を出した。
 少年の部屋は丹念に調べられたが、脱出できるのは窓からだけあるという絶対的な確信を除いて 何ももたらされなかった。ドイツ人の教師の部屋と持ち物はそれ以上の手がかりを与えなかった。彼の場 合、ツタのつるが重みで折れてしまい、芝生の上に彼のかかとの降りた跡がランプの明かりで見えた。緑 の短い芝の中のそのへこみ一つがこの不可解な夜間の逃走によって残された唯一の物質的証拠だった。
 シャーロック・ホームズは一人で家を出て、十一時を過ぎてやっと戻った。彼は近隣の大きな測量地図 を手に入れ、これを私の部屋に持ち込み、ベッドの上に広げ、そして、その中央にランプを据え、その上 でタバコを吹かしたり、時おり興味あるところを悪臭を放つ琥珀色のパイプで指摘したりし始めた。
 「だんだん事件が気に入ってきたよ、ワトソン」と彼は言った。「明らかに事件に関連した興味ある点 がいくつかある。はじめのうちに僕たちの調査に大いに関係のありそうな地理的な特徴を君に理解して欲 しいんだ。」
 
「この地図を見たまえ。この黒っぽい四角がプライオリスクールだ。ここにピンをさすよ。さて、この線 が本道だ。学校を通り過ぎて東西に走っているね、そしてまたどちら側にも一マイルの間、わき道がない のもわかるね。この二人が道路を使って消えたならこの道だ。」
 「その通り。」
 「めったにない幸運のおかげで、問題の夜、この道を通った者をある程度までチェックできるんだ。僕 のパイプが今載っているこの点にね、地元の警官が十二時から六時まで当番で勤務していたんだ。そこは 東側で最初に道路が交差するところと気がつくね。この男は一瞬も持ち場を離れなかったと言明している し、少年にしろ男にしろ見られずにその道を行けば間違いなく見えるはずだそうだ。今夜この警官と話し てみて、僕には申し分なく信頼できる人物に見えた。それでこの端はふさがっている。さて今度は反対側 を解決しなければなるまい。ここにレッドブルという宿があり、そこの女主人は病気だった。彼女はマ クルトンに医者を呼びにやったが、医者は別の患者のために不在で朝まで来なかった。宿の人たちは彼が 来るのを待ち受け、一晩中注意を払っていて、誰か一人が常に道路に目をやっていた。彼らは誰も 通らなかったと言明した。彼らの証言が確かなら、僕たちはまったく幸運にも西側もふさぐことができ、 また逃亡者たちがまったくこの道を使わなかったと言うこともできる。」
 「しかし自転車は?」と私は異議を唱えた。
 「その通り。いずれ僕たちは自転車のことに立ち至る。僕たちの推論をふまえ、この人たちがこの 道を行かなかったとすると、彼らは建物の北側か建物の南側の野原を横切らなければならない。それは確 かだ。その二つを比較検討しよう。建物の南側は、君も気づいているだろうが、大きな耕地の地区で、 小さな畑に分割され、間には石垣がある。そこで、自転車は不可能と僕は認める。この考えは退けていい。 北の地域に目を向けよう。ここには木立があって『ラギッドショウ』と記され、その向こう側に は起伏の大きな荒地、ロワージルムーアが広がり、十マイルにわたってゆるい上りの傾斜が続いている。 ここ、この荒れ野の一方の端にホールダネス・ホールがあり、道を行くと十マイルだが、荒地を横切ればほんの 六マイルだ。非常に荒れ果てた平原だ。数少ない農民が小自作農地を持ち、羊や牛を飼育している。その ほかにはチェスターフィールド街道に至るまでチドリやダイシャクシギが棲むだけだ。そこにはね、教 会、田舎家が数軒、宿が一軒ある。その向こうは丘で急勾配になっている。確かに僕 たちの探索すべきはこの北側だ。」
 「しかし自転車は?」と私は執拗に言った。
 「おいおい!」とホームズはいらいらしながら言った。「自転車の上手な人に本道は必要ないよ。荒地 には小道が横切っているし満月だったんだ。おや!何事だ?」
 穏やかならぬドアのノックの一瞬の後、ハクスタブル博士が室内にいた。その手にはひさしに白い 山形紋のある、青いクリケット帽を持っていた。
 「やっと手がかりがありました!」と彼は叫んだ。「ありがたい!やっと大事な少年を追う本筋です! 彼の帽子です。」
 「どこで見つかりました?」
 「荒地に野営したジプシーの幌馬車の中です。彼らは火曜日に立ち去りました。今日警察が彼らを追跡 し、彼らの馬車を調べました。これが見つかったのです。」
 「彼らはそれをどう説明していますか?」
 「彼らはごまかしたり嘘をついたりしました--火曜日の朝、荒地で見つけたと言うのです。彼らは 少年がどこにいるか知っている、ごろつきどもが!ありがたいことに無事に彼らは皆、厳重に留め置かれ ています。法律への恐れか公爵の財布かどちらかが間違いなく彼らの知っていることを全部引き出すでし ょう。」
 「ここまでは大変結構」とホームズは、博士がようやく部屋を後にした時に言った。「少なくとも僕 たちが成果を期待すべきはロワージルムーアの側だという説を裏付けるからね。警察はこの辺では実際、 このジプシーを逮捕するほかには何もやっていないからね。いいかいワトソン!水路が荒地を横切ってい る。そら、地図のここに示されている。いくつかの部分ではそれが広がって湿地になっている。ホールダネ ス・ホールとスクールの間の地域では特にそうだ。この乾いた天気では他の場所で跡を探してもむだだ。しかし そこなら何か証拠が残されている見込みが確かにある。明日の朝早く起こすから、君と僕で少しでも謎を 解明できるかどうかやってみようよ。」
 夜明けと同時に私は目を覚まし、ベッドの横にホームズのやせた長身を見つけた。彼はすっか り身支度し、どうやら既に出てきたらしかった。
 「芝生と自転車置き場は済ましたよ」と彼は言った。「ラギッドショウもぶらついてきた。さて、ワトソン、隣 の部屋にココアが用意できているよ。どうか急いでくれたまえ、すばらしい一日になるんだからね。」
 仕事が目の前に準備されているのを見た熟練の職人のように気分を浮き立たせた彼の目は輝き、頬は赤 らんでいた。この活動的できびきびした男は、ベーカー街の内省的で青ざめた夢想家とはまったく違う ホームズだった。気力のみなぎる、そのしなやかな姿を見上げた時、私は実際、奮闘の一日が待ち 構えているのを予感した。
 それにもかかわらずこの日は暗澹たる失望で始まった。希望に満ちて私たちは出発し、多数の羊の道の交差す る泥炭のあずき色をした荒地を横切り、私たちとホールダネス・ホールの間の湿地を示す広く、薄 緑色の帯のところまで来た。確かに、少年が家に向かったなら、これを通らなければならなかったし、跡 を残さずに通ることはできなかったろう。しかし痕跡は少年のものもドイツ人のものも見られなかった。顔つきを 暗くして、我が友はコケに覆われた地面の泥のしみを一つ一つ熱心に観察しながら、縁に沿って大また に歩いた。羊の足跡がふんだんにあり、また一箇所、数マイル行ったところには牛が跡を残していた。ほか には何もなかった。
 「一番をチェックだ」とホームズは、うねうねと広がる荒地を憂鬱そうに見渡しながら言った。「狭い 地帯を挟んで向こうにもう一つ湿地がある。おや!おや!おや!ここにあるのは何だ?」
 私たちは黒く細長い小道に出た。その中央、水浸しの土の上にはっきりと、自転車の跡がついていた。
 「万歳!」と私は叫んだ。「つかんだな。」
 しかしホームズは首を振っていて、その顔には喜びよりむしろ困惑と期待があった。
 「自転車だ、確かに、しかしその自転車ではない」と彼は言った。「僕は 四十二種のタイヤの残す痕跡に精通している。これはほら、わかるだろう、ダンロップだ。外側のカバ ーにつぎがある。ハイデガーのタイヤはパルマーので、たての縞模様を残す。数学の教師のエーブリング がこの点に自信を持っていた。従ってこれはハイデガーの通った跡ではない。」
 「それでは少年のでは?」
 「あるいはね、彼が自転車を持っていたことを証明できれば。しかしそれは全然できなかったじゃないか。 このわだちは、わかるだろう、学校の方から乗ってきている跡だ。」
 「あるいは向かっている?」
 「違う、違うよ、ワトソン君。より深く沈んだ跡は、もちろん、体重のかかる後ろの車輪だ。いくつかの場所で それが前輪のより浅い跡を横切って消しているのを君も認めるね。疑いなく学校から遠ざかって進んでいる。 僕たちの調査に関係があるかもしれないし、ないかもしれないが、先に進む前にこれをたどって戻ってみようよ。」
 私たちはそうしたが、結局数百ヤード行って、荒れ野の沼地の部分から出たところでわだちを見失った。小 道をたどって戻り、私たちは泉がちょろちょろと流れている別の場所を選んだ。ここに、もう一 度、自転車の跡があったが、牛の蹄によりほとんど消されていた。その後は何の痕跡もなく、小道はまっ すぐに学校の裏手にある森、ラギッドショウへと続いていた。この森から自転車は現れたにちがいなかった。ホームズ は大きな丸石に腰を下ろし、両手にあごをのせていた。彼が動くまでに私はタバコを二本吸った。
 「まあいい、まあいい」とようやく彼は言った。「もちろん、狡猾な男なら見慣れない跡を残すために 自転車のタイヤを変えることもありうる。そういうことを考えられる犯罪者こそ、渡り合って誇るにたる 相手だ。この問題は未決定のままにして、僕たちはまた湿地をやり直そう、まだ調査していないと ころがたくさん残っているからね。」
 私たちは荒地の水につかった部分の縁の組織的調査を続け、まもなくその忍耐が見事に報われた。湿原 の低地をまっすぐに横切るぬかるんだ小道があった。ホームズはそこに近づくと喜びの叫びを上げた。 細い電線の束のような跡がその中央を走っていた。パルマーのタイヤだった。
 「ハイデガー氏はここだ、案の上!」とホームズは大得意で叫んだ。「僕の推理にもなかなか根拠があ ったようだね、ワトソン。」
 「おめでとう。」
 「しかしまだ長い道のりを行かねばなるまい。どうか小道から離れて歩いてくれたまえ。さあ跡をたど ろう。あまり遠くまでたどれないんじゃないだろうな。」
 しかし前進した私たちは、荒地のこの部分が柔らかい耕地と交差しているのを見つけ、そして、たびたびわだち を見失ったけれども、常にもう一度見つけ出すことに成功した。
 「わかるかな、」ホームズは言った、「乗り手がここで確かにペースを上げていると?疑う余地はない。 どちらのタイヤもはっきりしているこの跡を見たまえ。どちらも同じぐらい深いじゃないか。その意味す るところは、乗り手が体重をハンドルにかけていることでしかありえない、全力で疾走する時にするよう にね。何と!彼は転んでしまった。」
 そこではわだちが数ヤードにわたり、幅の広い乱れに覆われて不鮮明になっていた。それからいくつか の足跡があり、もう一度タイヤが現れた。
 「横滑りだ」と私は言ってみた。
 ホームズはぐしゃぐしゃになった満開のハリエニシダの枝を取り上げた。黄色の花がすっかり深紅のは ねを浴びていることに気づいて私はぞっとした。小道の上にも、ギリュウモドキの間に凝固した血の黒いしみ があった。
 「まずい!」とホームズは言った。「まずい!離れて立つんだ、ワトソン!不必要に歩くな!ここに何 を読み取る?彼は傷ついて倒れた、彼は立ち上がった、彼は再び乗った、彼は先へ進んだ。しかし他には わだちがない。このわき道に牛が。まさか雄牛に突かれたんじゃないな?ありえない!しかし他には誰の わだちも見当たらない。続行だ、ワトソン。きっとしみがわだち同様僕たちを案内するから彼はも う逃げられない。」
 私たちの捜索はあまり長く続かなかった。タイヤの跡は濡れて光る小道の上で異様に曲がり始めた。不意に、 前方を見ると、ハリエニシダの密集した茂みの中にきらめく金属が私の目に留まった。そこから私たちは、 パルマーのタイヤの、片方のペダルが曲がり、前の方全体にひどく血が垂れて汚れた自転車を引っぱり出した。 茂みの反対側には靴の片方が突き出ていた。私たちが走って回ると、そこに不 幸な乗り手が横たわっていた。彼は背の高い男で、豊かなあごひげ、メガネのレンズの片方はたた き落とされていた。彼の死の原因は頭部に加えられた恐ろしい打撃であり、頭蓋の一部がつぶれていた。 そのような傷を受けたあとで進みえたことはこの男の生命力と勇気を大いに物語るものだった。靴は履い ていたが、靴下はなく、コートが開いてその下の寝巻きが露出していた。間違いなくドイツ人の教師だっ た。
 ホームズはうやうやしく死体をひっくり返し、きわめて注意深く調べた。それから彼は座ってしば らく考えに沈んでいたが、そのしわを寄せた額から、この恐ろしい発見によって私たちの調査にあまり前 進はないと彼が考えていることが見て取れた。
 「どうしたらいいのか少し難しいね、ワトソン」とようやく彼は言った。「僕自身としてはこの調査 を続行したいが。僕たちは既に多くの時間を浪費してしまったのでもう一時も無駄にする余裕はないか らね。その一方、この発見を警察に知らせ、このかわいそうな男の遺体の世話をするように取り計らう義務がある。」
 「私が手紙を持って戻ったら。」
 「しかし君が一緒にいて助けてくれる必要がある。ちょっと待て!あそこに泥炭を切り取っている男が いる。彼をここに連れてきたまえ、彼が警察を案内するだろう。」
 私が農夫を連れてくると、ホームズは脅えている男に手紙を持たせてハクスタブル博士のもとへやっ た。
 「さてワトソン、」彼は言った、「僕たちは今朝二つの手がかりを見つけた。一つはパルマーのタイヤ の自転車であり、それがどうなったかがわかっている。もう一つはつぎのあるダンロップの自転車だ。そ の調査を始める前に、僕たちが知っていることを最大限活用するためにそれをはっきりと理解し、本質的 なことを付随的な事から分離してみようよ。」
 「まず第一に君に銘記して欲しいのは少年が間違いなく自身の自由意志で出発したことだ。彼は自分の 部屋の窓から下りて立ち去った、一人で、もしくは誰かと。それは確かだ。」
 私は同意した。
 「さて、今度は、この不幸なドイツ人の教師に目を向けよう。少年は脱出した時すっかり身支度して いた。従って彼は自分のすることを前もって知っていた。ところがドイツ人は靴下なしで出かけた。彼の 行動は間違いなくきわめて突然のものだった。」
 「疑いない。」
 「何故彼は出かけたか?それは、寝室の窓から少年の脱出を見たからだ。少年に追いつき、連 れ帰ろうと思ったからだ。彼は自転車をひっつかみ、少年を追跡し、追跡中に死んだ。」
 「そのように見えるね。」
 「さて僕の議論の重要な部分だ。小さな少年を追う人の自然な行動は走って追いかけることだろう。彼 は追いつけるとわかっていたはずだ。ところがドイツ人はそうしない。彼は自転車に向かう。彼は優れた自転車 乗りだったと聞いている。少年が迅速な逃亡の手段を取るのを見なかったらそうはしなかったろう。」
 「もう一つの自転車。」
 「再構築を続けよう。彼は学校から五マイルのところで死んだ--銃弾によってではなく、いいかい、 それならあるいは少年でも発射しうる、ところが強健な腕の加えた残忍な打撃によってだ。そうなると少年の逃走には仲間が いたんだ。そして自転車に熟達した男が追いつくのに五マイル要したからには、逃走は迅速だった。さら に僕たちは悲劇の現場の周りの地面を調査する。僕たちは何を発見する?いくつかの牛の足跡、それだけだ。 僕はまわりを広く見渡したが、五十ヤード以内に小道はない。もう一人の自転車の男は今言っている殺人 には関係しえなかった。またそこには人間の足跡はなかった。」
 「ホームズ、」私は叫んだ、「これはありえない。」
 「見事!」と彼は言った。「何より啓発的な意見だ。僕の言うようなことはありえない、従ってどこか で僕は間違ったことを言ったにちがいない。それに君も自分で見たんだ。何か誤謬を示唆できるかい?」
 「転倒して頭蓋を砕いたはずはないよな?」
 「湿地でかい、ワトソン?」
 「考えが浮かばないよ。」
 「ツ、ツ。もっとひどい問題だって解決してきたじゃないか。少なくとも僕たちにはたくさんの材料が ある、うまく利用しさえすればね。さあ、それでは、パルマーについては調べつくしたから、つぎの あたったカバーのついたダンロップが提供するものを見てみよう。」
 私たちはそのわだちを見つけ、それをたどってしばらく先へ進んだ。しかしすぐに荒地は隆起してギリュウモドキの 群生する長く湾曲した部分となり、私たちは水路を後にした。もはやわだちの助けは期待できなかった。私たちが 最後に見た地点でダンロップのタイヤは、私たちの左側数マイルのところに堂々たる塔の聳え立つホール ダネス・ホールへか、あるいは私たちの正面にあり、チェスターフィールド街道の位置を示す、低い灰色の 村へか、どちらに至る可能性も等しかった。
 私たちがしゃもの看板がドアの上にある、おぞましげなむさくるしい宿屋に近づいた時、ホームズが不意 にうめき声を上げ、倒れないように私の肩をつかんだ。彼は足首をひどくくじいてどうにもならなくなっ てしまった。やっとのことで彼がドアのところまで足を引きずっていくと、ずんぐりして色の黒い年配の男 が黒い陶のパイプを吹かしていた。
 「ご機嫌はいかがです、ルーベン・ヘイズさん?」
 「誰だね、あんたは、どうして俺の名前がそうすらすらわかるね?」とそのいなか者は、狡猾な二つの 目に疑いをひらめかせ、答えた。
 「なあに、あなたの頭の上の板に書いてある。その家の主人を見分けるのは簡単ですよ。あなたの厩舎 には馬車のようなものはないでしょうね?」
 「いや。持ってない。」
 「僕は足を地面につけないくらいなんだがね。」
 「地面につけなさんな。」
 「しかし歩けない。」
 「おや、それじゃあ、片足飛びだ。」
 ルーベン・ヘイズ氏の態度は親切とはほど遠いものだったが、ホームズは称賛に値する上機嫌でこ れを受け取った。
 「いいかい、君」と彼は言った。「これは本当にちょっと厄介なことになって困ってるんだがね。どんな乗り物でもか まわないんだが。」
 「俺もかまわん」と不機嫌な主人が言った。
 「非常に重要なことなんです。自転車を使わせてくれたら一ソブリン出すがね。」
 主人は耳をそばだてた。
 「どこへ行きたいんだね?」
 「ホールダネス・ホールへ。」
 「公さくのお仲間だね?」と主人は、皮肉な目で私たちの泥に汚れた衣服をしげしげ見ながら言った。
 ホームズは愛想よく笑った。
 「いずれにしても彼は僕たちに会って喜ぶだろう。」
 「なぜ?」
 「行方不明の息子の知らせをもたらすから。」
 主人は見てわかるほどびっくりした。
 「なに、手がかりがあったかね?」
 「リバプールで消息が聞かれてね。すぐにもつかまると期待されている。」
 再びすばやい変化がその太ったひげだらけの顔を通り過ぎた。彼の態度は突然愛想よくなった。
 「俺には公さくの幸せを望む理由なんざ誰にもましてありゃあしないんだ、」彼は言った、「昔あそこ の御者長だったのにひどくあしざまに扱われたからね。うそつきの雑穀商の言うことを聞いて推薦状もつけずに 俺を首にしたのがあの人だ。だがリバプールで若様の消息を聞いたということなら嬉しいし、その知らせ をお邸へ持っていくのを手伝いましょう。」
 「ありがとう」とホームズは言った。「まず何か食べるとしよう。自転車を持ってくるのはそれからで いいでしょう。」
 「自転車は持ってねえ。」
 ホームズはソブリン金貨をかざした。
 「ほんとだ、うん、持ってねえんだ。お邸までは馬を二頭貸しまさあ。」
 「まあいい、まあいい、」ホームズは言った、「何か食べ終わってからそのことは話そう。」
 石を敷き詰めた食堂に二人だけで残された時、あの捻挫した足首が急に治ったのにはびっくりした。日暮れ に近く、早朝から何も食べていなかったので、私たちはたっぷり食事の時間に費やした。ホームズ は物思いにふけり、一、二度窓辺まで歩き、熱心に外を見つめた。それはごみごみした中庭に面 していた。遠い隅は鍛冶の仕事場で、汚い若者が仕事をしていた。反対側には馬小屋があった。こうして 何度か出かけたホームズが再び腰を下ろすと、突然大きな叫び声を上げ、いすから飛び上がった。
 「神かけてワトソン、わかったようだ!」と彼は叫んだ。「そうだ、そうだ、そうにちがいない。 ワトソン、今日、牛の足跡を見たのを覚えているね?」
 「ああ、いくつも。」
 「どこで?」
 「そうだね、至るところで。湿地でも、また小道でも、またかわいそうなハイデガーが死んだ所の近く でも。」
 「その通りだ。さて、そこでだ、ワトソン、荒地で何頭の牛を見たかね?」
 「見た覚えはないね。」
 「不思議だねえ、ワトソン、道々ずっと足跡を見たのに、荒地全体で一頭の牛も見な いとは。非常に不思議だ、ええ、ワトソン?」
 「そうだね、不思議だ。」
 「さあ、ワトソン、がんばって思い出すんだ!小道の上の足跡が見えるかい?」
 「ああ、見える。」
 「思い出せるかい、足跡が時にはこんな風だったのを、ワトソン」--彼は多数のパンくずをこのよう に配置した--:::::--「そして時にはこうだ」--:。:。:。:。--「そして時々このように」 --。’。’。’。’「思い出せるかい?」
 「いや、だめだ。」
 「でも僕は覚えている。誓ってもいい。しかし手がすいたら戻って確かめよう。何と愚かだったのだろ う、結論を下せなかったとは!」
 「それで君の結論とは?」
 「ただ驚くべき牛だということだ、並足、キャンター、ギャロップをするとは。いやはや、ワトソン、 そのような目くらまし を考え出したのは田舎の酒場の主人の頭ではない!危険はなさそうだな、あの鍛冶の若者をのぞけば。そ っと外に出て見られるものを見てみようよ。」
 もじゃもじゃした毛の手入れもしていない二頭の馬が荒れ果てた馬小屋にいた。ホームズは一頭の後足を 持ち上げ、大声で笑った。
 「古い蹄鉄、それなのに最近打たれた--古い蹄鉄、それなのに新しい釘。この事件は一流と呼ぶに値するね。 鍛冶場まで行ってみよう。」
 若者は私たちにかまわず仕事を続けた。 ホームズが、床のあちこちに散らかった鉄くずや木くずの間を左右に視線を走らせるのを私は見た。しかし突然、 私たちの背後に足音が聞こえ、亭主がそこにいて、濃い眉は獰猛な目の上に引き寄せられ、浅黒い 顔は怒りに痙攣していた。彼が手に先端が金属の短いステッキを持ち、威嚇するように詰め寄ってきた時は、 私はポケットのリボルバーを確かめて本当に嬉しかった。
 「とんでもねえスパイどもめ!」男は叫んだ。「そこで何をしている?」
 「おや、ルーベン・ヘイズさん、」ホームズが冷静に言った、「何か僕たちに見つけられるのを心配し ているのかと思ってしまいますよ。」
 男はやっとのことで何とか自分を抑え、いかめしい口を緩めて笑うふりをしたが、それはしかめっ面よりもっ と威嚇的だった。
 「自由に何でも見つけたらいいがね、俺の鍛冶場では」と彼は言った。「だがいいかい、だんな、俺は 人が許しもなく俺んちを探し回るのは好きじゃないんだ、だからなるたけ早いところ勘定を済ませてここから出て いってくれれば嬉しいんだがね。」
 「結構、ヘイズさん--悪気はないんだ」とホームズは言った。「馬を見せてもらっていたんだが、や はり歩いていこうと思うんだ。確か遠くはないね。」
 「お邸の門まで二マイルはないね。その道を左だ。」彼は私たちが建物を後にするまで不機嫌な目で 私たちをじっと見ていた。
 私たちはその道をあまり遠くまで行かなかった。私たちがカーブに隠されて亭主から見えな くなるやいなやホームズが立ち止まったのだ。
 「もう少しで子供たちの言う、みっけだったね、あの宿屋で」と彼は 言った。「一歩離れるごとにはずれていくらしいよ。だめ、だめだ。どうあっても離れる わけにはいかない。」
 「私は確信するね、」私は言った、「あのルーベン・ヘイズが何もかも知っている。あれ以上悪党とわ かりきった男は見たことがない。」
 「おお!彼は君にそんなふうな印象を与えたのかい?あそこには馬がいる。あそこには鍛冶の仕事場があ る。そう、おもしろいところだな、あのファイティング・コクは。気づかれないようにもう一度あそこを見るべきだと思うよ。」
 灰色の石灰岩の巨石が点在する、長く、傾斜した丘陵の斜面が私たちの後ろに広がっていた。私たちが 道をそれ、丘に登っている時、ホールダネス・ホールの方角を見ると、自転車をとばしてくる男が 見えた。
 「身をかがめろ、ワトソン!」とホームズが私の肩に置く手に重みをかけて叫んだ。私たちが見えない ように身を沈めた時、ちょうど私たちの前の路上を男が飛ぶように過ぎていった。もうもうと立ち込め るほこりの中に青ざめ、動揺した顔がちらと見えた--顔中に恐怖を浮かべ、口は開き、目は荒々し く前方を見つめていた。それは前夜私たちが見た小粋なジェイムズ・ワイルダーの奇妙なカリカチュ アのようだった。
 「公爵の秘書だ!」とホームズが叫んだ。「さあ、ワトソン、彼が何をするか見てみよう。」
 私たちは岩から岩へとはい進み、すぐにあの宿の玄関口が見える地点まで進んだ。ワイ ルダーの自転車はそのそばの壁にもたせかけてあった。そのあたりで動くものはなく、どこかの窓に誰か の顔を垣間見ることもできなかった。太陽はホールダネス・ホールの高い塔の後ろに沈み、たそがれがゆっくりと忍び寄ってい た。その時うす暗がりの中に、トラップ馬車の側灯が二つ、宿屋の馬屋の庭で輝くのが見え、すぐ 後に蹄のガタガタ鳴る音が聞こえ、馬車は道へ走り出て猛烈な速さでチェスターフィールドの方角 へ突進して行った。
 「君はあれをどう思う、ワトソン?」とホームズはささやいた。
 「逃げ出したように見えるね。」
 「馬車にはたった一人だった、僕の見る限り。おや、確かにジェイムズ・ワイルダー氏ではないね、 あそこの戸口にいるから。」
 赤く四角い光が闇から飛び出ていた。その真ん中に秘書の黒い人影があり、頭を前に出し、外の夕闇を凝 視していた。誰かを待ち受けているのは明らかだった。その時ようやく道に足音がして、第二の人影が光 を背景に一瞬見え、ドアが閉まり、もう一度すべてが真っ黒になった。五分後、二階の部屋に明かりが ともった。
 「ファイティング・コクをひいきにするにしては妙な階級の客らしいね」とホームズが言った。
 「酒場は反対側だね。」
 「そのとおり。秘密の客と呼んでもいいかな。さて、一体全体ジェイムズ・ワイルダー氏が夜のこの時 間にあの隠れ家で何をしているのか、そしてその彼に会いに来たお仲間は誰なのか?さあ、ワトソン、実 際、危険を冒してももう少し近づいてこの調査をしなければなるまい。」
 私たちは二人してそっと道に下りて横切り、宿のドアに忍び寄った。自転車はまだ壁にもたれかか っていた。ホームズがマッチをすり、それを後輪に持っていき、その光がつぎのあるダンロップのタイヤ に当たった時、彼のくすくす笑いが聞こえた。私たちの上には明かりのついた窓があった。
 「窓からのぞかなくてはね、ワトソン。君が背中を曲げて、壁で体を支えれば、僕はなんとかできると思 うんだ。」
 一瞬の後、彼の足は私の肩の上にあった。しかし彼は上がるが早いかすぐにまた下りた。
 「さあ、友よ、」彼は言った、「一日の仕事としてはまったく長すぎるくらいだ。可能な限りすべてを 収集したと思うよ。学校まで長い道のりだし、なるべく早く出発した方がいい。」
 荒地を横切り、てくてく疲れた足を運ぶ間、彼はほとんど口を開かなかったが、また学校についても彼は中 に入ろうとせず、マクルトン駅まで行き、そこからいくつか電報を打った。夜遅く、教師の死という悲劇に打ち ひしがれたハクスタブル博士を慰めるホームズの声が聞こえ、さらに遅くなって彼は、朝出発した時の彼 と同様、きびきびと元気に私の部屋へ入ってきた。「何もかもうまくいっているよ、君」と彼は言 った。「明日の夕方前には謎の解決に至ると約束するよ。」
 翌朝十一時に友と私は名高い、ホールダネス・ホールのイチイの並木道を歩いていた。私たちは豪 華なエリザベス朝の玄関から閣下の書斎へ案内された。そこにはジェイムズ・ワイルダー氏がいて、 とりすまして上品だったが、いまだに前夜の激しい恐怖の痕跡がこそこそした目、ひきつる顔に潜んでい た。
 「閣下に会いに見えたのですか?残念ですが、実は公爵は決して具合がよろしくないのです。悲劇の 知らせに非常に動転されて。ハクスタブル博士からの電報を昨日の午後受け取り、あなたの発見を知った のです。」
 「公爵に会わなければなりません、ワイルダーさん。」
 「しかし自室にいらっしゃるので。」
 「それでは部屋に行かなければいけませんね。」
 「寝ていらっしゃると思います。」
 「そこで会いましょう。」
 ホームズの冷たく容赦のない態度により言い争っても無益であることを秘書は知った。
 「わかりました、ホームズさん。あなたがいらしてると伝えましょう。」
 半時間ほど遅れて偉大な貴族が現れた。彼の顔はさらに青ざめ、肩は丸くなってしまって、すっかり昨日の朝 のその人より年老いたように見えた。彼は堂々として丁重に私たちを迎え、机に座り、 その赤いあごひげをテーブルの上に垂らした。
 「それで、ホームズさん?」と彼は言った。
 しかし友の目は、主人のいすの傍らに立つ秘書にじっと向けられていた。
 「思うに、閣下、ワイルダーさんがいない方が遠慮なく話せるのですが。」
 その男はわずかに青ざめ、チラッと悪意に満ちた目をホームズに向けた。
 「閣下が望まれるなら----」
 「そう、そうだ。君は行った方がいい。さあ、ホームズさん、何をおっしゃりたいので?」
 友は引き下がる秘書の後ろでドアが閉まるまで待っていた。
 「実は閣下、」彼は言った、「同僚のワトソン博士と僕は、この事件では賞金が提供されているとハクスタ ブル博士から保証されました。僕はそれをあなた自身の口から確かめたいのです。」
 「確かです、ホームズさん。」
 「それは、僕の聞いたのが正確なら、ご子息の所在を知らせたものに五千ポンドということで?」
 「その通りです。」
 「そして監禁している人物もしくは人物たちの名を言える者にはさらに千と?」
 「その通りです。」
 「後の方の項目には疑いなく、ご子息を連れていった者たちだけでなく、共謀して現在の状況におい ている者たちも含まれます。」
 「そうです、そうです」と公爵は苛立って叫んだ。「あなたの仕事がうまくいけば、シャーロック・ ホームズさん、けちな扱いを受けたと不平を言うことにはならないでしょう。」
 我が友は見るからに貪欲にやせた手をこすり合わせたが、彼の好みの質素なことを知る私は驚いた。
 「テーブルの上には閣下の小切手帳が見えるようですが」と彼は言った。「僕に六千ポンドの小切手を 切っていただけると嬉しいですね。たぶん線引きにされた方がよろしいでしょう。キャピタルアンドカウン ティズ銀行、オクスフォード街支店が僕の取引店です。」
 閣下は非常に毅然として姿勢よくいすに座り、我が友の顔を冷たく見た。
 「冗談ですか、ホームズさん?笑い事にする問題じゃありません。」
 「いえ、全然、閣下。これ以上なく真剣です。」
 「ではどういうおつもりですか?」
 「僕が賞金を稼いだということです。僕はご子息がどこか知っていますし、拘束している者のうち少 なくとも幾人かを知っています。」
 公爵のあごひげが、死人のように青白い顔を背景にさらにいっそう強烈な赤になった。
 「彼はどこです?」彼はあえぎながら言った。
 「ご子息は今、いや昨夜はこちらの庭園の門から二マイルほどのファイティング・コクという宿にいまし た。」
 公爵はいすの上でたじろいだ。
 「それで誰を告発するのですか?」
 シャーロック・ホームズの答えは度肝を抜くようなものだった。彼はさっと前方に踏み出し、公爵の肩に 触れた。
 「あなた、を告発します」と彼は言った。「それでは、閣下、お手数ですが小切手を。」
 決して私は忘れないだろう、跳び上がり、手をかきむしる公爵の様子を。それは深淵に沈みゆく人のよ うだった。それから、並はずれた努力により貴族らしく自制して彼は腰を下ろし、顔を手にうずめた。彼が話をす るまでに数分が経った。
 「どこまでご存知で?」と、頭も上げずに、ようやく彼は尋ねた。
 「昨夜あなた方が一緒のところを見ました。」
 「あなたのご友人のほかに誰か知ってますか?」
 「誰にも話していません。」
 公爵は震える手にペンを取り、小切手帳を開いた。
 「約束通りにしましょう、ホームズさん。あなたの得られた情報がどれほど私にとってありがたくないも のであろうとも、私は小切手を書くつもりです。初めに申し出た時に私は事の成り行きを考えもしま せんでした。しかしあなたとご友人は分別ある方々でしょうね、ホームズさん?」
 「閣下のおっしゃることはわかりませんね。」
 「率直に言わねばなりません、ホームズさん。この出来事を知っているのはあなた方二人だけとしても、 それがさらに他に広がらない理由はありません。私の支払わなければならない金額は一万二千ポンドではない ですか?」
 しかしホームズは微笑み、首を振った。
 「閣下、事態はそう簡単に片付けられないと思いますよ。学校の教師が死んでいます、その責任は取られるべきです。」
 「しかしジェイムズは何もそのことは知らなかったのです。あなたも彼にその責任を負わせることはできま せん。それはあの残忍な悪党の仕業で、あれを使ったのがジェイムズの不運でした。」
 「僕としては、閣下、犯罪に着手した者は、そこからほかにどのような犯罪が生じても道徳的に有罪であるものという見方をし なければなりません。」
 「道徳的にはですね、ホームズさん。疑いなくあなたが正しい。しかし法的見地からすると確かに違う。 殺人、といってもその現場にいなかった、それにあなた同様それを憎み、嫌悪している、それで有罪になるはずがありません。 彼はその話を聞くとすぐにすべてを私に告白しました、それだけ恐怖と良心の呵責でいっぱいだったので す。一刻もおかずに彼 は殺人者との関係を完全に絶ちました。ああ、ホームズさん、あなたは彼を救ってください--ぜひ彼 を救ってください!本当にぜひ彼を救ってください!」公爵は最後の自制の試みを捨て、顔をひきつら せ、固く握りしめた手を夢中で空中に躍らせながら部屋を歩き回っていた。ようやく自らを抑制して彼は もう一度机に座った。「他言なさらずににこちらへいらしたことに感謝します」と彼は言った。 「少なくともこの恐ろしい醜聞をどこまで最小のものにできるか、相談できましょう。」
 「その通りです」とホームズは言った。「それは、閣下、僕たちの間でどこまでも完全に率直で あることによってのみ可能なことと思います。僕はできる限り閣下をお助けしたいのです。しかしそのた めに僕はごく細部に至るまで現状がどうなのか知らなければなりません。あなたの話はジェイムズ・ワイ ルダーさんに当てはまるもので、彼が殺人犯ではないことはわかります。」
 「はい。殺人者は逃亡しました。」
 シャーロック・ホームズは控えめに微笑んだ。
 「閣下は僕の評判を少しもお聞きになったことがないようですね、さもなければ僕から逃れるのがそう 簡単なこととは思われないでしょう。ルーベン・ヘイズ氏は僕の情報により昨夜十一時、チェスターフィ ールドで逮捕されました。今朝学校を出る前に地方警察の署長から電報がありました。」
 公爵はいすの上でのけぞり、驚いて我が友を見つめた。
 「あなたは人間業とは思えない能力をお持ちのようだ」と彼は言った。「それではルーベン・ヘイズは捕ま ったのですか?ジェイムズの運命に影響を及ぼさないならそれを聞いてまったく嬉しいのですが。」
 「あなたの秘書の?」
 「いいえ。私の息子です。」
 ホームズが驚いた顔つきになる番だった。
 「それはまったく初耳であると認めますが、閣下、さらにはっきりしたところををお願いしなければなりま せん。」
 「あなたに何も隠すつもりはありません。このジェイムズの愚かさと嫉妬が招いた絶望的な状況では、 いかに私にとって辛いことでも何もかも率直にお話しすることが最善の方策であることに同意します。 非常に若い頃、ホームズさん、私は一生に一度というような恋愛をしました。私はその婦人に結婚を 申し込みましたが、そのような縁組は私の経歴を傷つけるという理由で彼女は拒絶しました。彼女が生き ていたら、間違いなく私は決して他の誰とも結婚しなかったでしょう。彼女は死に、一人の子が残さ れ、私は彼女のために彼を大事にし、面倒を見てきました。世間的に父であることを認めることはできませ んでしたが、最上の教育を受けさせ、成年に達してからは私個人のそば近くに置いてきました。彼は思いがけなく私 の秘密を見つけ、それ以来、私に対して要求する権利があることや、彼に私が嫌悪する醜聞を引き起こす力がある ことにつけこんできたのです。彼の存在は私の結婚の不幸な結末とも多少は関係ありました。とりわけ彼は 幼い法定相続人に最初から執拗な憎悪を向けていました。このような状況でなおジェイムズの面倒を見続 けたのはなぜかと尋ねられたとしてももっともです。それは彼に母親の顔を見るからであり、彼女のため に私の長く続く苦しみに終わりはないのだと私は答えます。彼女のかわいらしい癖のすべて--彼はその一つ一つを 私に連想させ、思い出させるのです。彼を遠くへやることはできませんでした。 しかし私は彼がアーサー--すなわち、サルタイア卿--に危害を加えないかとひどく恐れ、それで安全 のため、彼をハクスタブル博士の学校に送ったのです。
 ジェイムズがこのヘイズというやつと接触するようになったのは男が私の借地人で、ジェイムズが代理 人を務めたからです。あれは最初からごろつきでした。しかし何か妙な具合にジェイムズは彼と親しくな りました。ジェイムズはいつも下劣な交際を好みました。サルタイア卿を誘拐する決意をしたジェイムズは この男の助けを利用したのです。あの前日に私がアーサーに手紙を書いたことを覚えておいでで しょう。で、ジェイムズはこの手紙を開き、短い手紙を差しはさみ、学校の近くのラギッドショウという小 さな森で会ってくれるよう、アーサーに頼みました。公爵夫人の名を使い、そうやってあの子を来させたのです。 あの夕方ジェイムズは自転車で出て--私は彼自身が告白したことを話しているわけです--森で会 ったアーサーに言いました、母親が彼にとても会いたがっている、彼女は荒地で彼を待っている、真夜中 にこの森へ戻ってくれば、馬を連れた男がいて、彼を彼女の所へ連れて行くだろうと。かわいそうにアーサー は罠にかかりました。彼は約束通りに来て、ポニーを引いたあのヘイズというやつを見つけました。 アーサーは馬に乗り、彼らは共に出発しました。どうやら--これをジェイムズはやっと昨日になって聞 いたのですが--彼らは追跡されていたようで、ヘイズは追跡者をステッキで打ち、その人はその傷のため死 にました。ヘイズはアーサーを自分のパブ、ファイティング・コクへ連れて行き、そこでアーサーはヘイズ夫人 の世話の下、二階の部屋に監禁されました。夫人は親切な女ですが、残忍な夫にすっかり支配されていま した。
 さて、ホームズさん、これが二日前始めてお会いした時の状況でした。私はあなた同様真相を理 解していませんでした。あなたはジェイムズがそのようなことをする動機は何かとお尋ねになるでしょう。 彼が跡継ぎに抱いた憎悪には不合理で狂信的なものがたくさんあったとお答えしましょう。彼の考え では彼自身が私の資産すべての跡継ぎであり、それを不可能にする社会の法規にひどく憤慨したのです。 それと同時に彼にはまた明確な動機もありました。彼はしきりに私に限嗣相続を破るように求め、私には それが思いのままにできると考えたのです。彼は私と取引をするつもりでした--私が限嗣相続を破棄し、 そうして遺言により彼に資産を遺すことを可能にすれば、アーサーを返す、と。彼は私が彼に背いて進 んで警察の助けを求めることは決してないとよく知っていました。彼はそのような取引を私に提案するつ もりだったでしょうが、実際にはそうせず、というのも事件の展開が速すぎ、彼の計画を実行に移す時間 がなかったのです。
 彼の邪悪な計画のすべてを台なしにしたのはあのハイデガーという人の死体をあなたが発見したことです。ジェ ームズはその知らせを聞いて恐怖に襲われました。昨日この書斎に一緒に座っている時に私たちはそれ を聞きました。ハクスタブル博士が電報を打ったのです。ジェイムズが悲しみと動揺にひどく打ちのめ されるのを見て、私の疑いが、それまでも決してまったくなかったわけではありませんが、直ちに確かな ものにふくれ上がり、私は彼の行為を非難しました。彼は自分からすっかり告白しました。それから彼は、 卑劣な共犯者に有罪の人生から逃れる機会を与えるために、あと三日間秘密を保持するように懇願しまし た。私は屈しました--常に屈してきたように--彼の願い事に、そして直ちにジェイムズは、ヘイズに警告し、逃亡 の手段を与えるためにファイティング・コクへと急いで出て行きました。私は、日中そこに行っては噂を招 くことになるので、夜になるとすぐにアーサーに会いに急いで行きました。彼は 無事で元気でしたが、目撃してしまった恐ろしい行為に言葉にならないほどショックを受けていました。 約束に従い、ですが大いに意志に反して、私は彼をそこに三日間、ヘイズ夫人の保護の下に置いてくる ことに同意しました。警察に彼の所在を知らせて、殺人者が誰かをも話さずにいるのは不可能ですし、 どうしたら私の不幸なジェイムズの破滅を招くことなく殺人犯が処罰されうるか、 私にはわからなかったからです。あなたは私に率直さを求めました、ホームズさん、そして私はあな たの言葉に従い、今、何もかもあなたに、遠まわしに言ったり隠蔽したりしようとせずに話してしまいました。 あなたも私同様に率直になる番ではないでしょうか。」
 「そうしましょう」とホームズは言った。「まず第一に閣下、法的見地からするとあなたはご自身を非常に容易ならぬ立場 に置いたと言わねばなりません。あなたは重罪を見逃し、殺人犯の逃亡を助けてしまいました。 というのはジェイムズ・ワイルダーが共犯者の逃亡を助けるために持ち出した金は閣下の財布から出たも のであることは疑いえません。」
 公爵はお辞儀をして同意を示した。
 「これは実際極めて容易ならぬ問題です。僕の意見ではさらにいっそう咎められるべきは、閣下、あ なたの若い方の子息に対する態度です。あの巣窟に三日も置いておくとは。」
 「固い約束で----」
 「このような人たちに対して何が約束ですか?再び誘拐されないという保証はないんですよ。 年長の罪ある息子を満足させるために、若い方の汚れなき子息を不必要に差し迫った危険にさらしたのです。 まったく弁解の余地なき行為です。」
 誇り高きホールダネスの領主は自身の公爵の邸の中でそのように叱責されることには慣れていなか った。彼のひいでた額に血が上ったが、良心が言葉を奪っていた。
 「あなたを助けましょう、ただしある条件においてのみです。すなわちベルを鳴らして従 僕を呼び、僕の思い通りに命令を出させていただきます。」
 言葉もなく公爵は電鈴を押した。召使が入ってきた。
 「若主人が見つかったと聞けば、」ホームズは言った、「君も嬉しかろう。ファイティング・コクという 宿に直ちに馬車を着け、サルタイア卿を家へお連れ申すよう、公爵が希望されている。」
 「さて、」喜ぶ下男が姿を消すとホームズが言った、「未来を保証すれば、過去に対してより寛大に なれるというものです。僕は公的な立場ではありませんし、正義の目的にさえかなえば、僕の知ること すべてを明らかにしなければならない理由はありません。ヘイズに関しては何も申しません。 絞首台が彼を待っており、僕はそこから彼を救うために何もするつもりはありません。彼が何 を暴露するか、僕にはわかりませんが、閣下なら黙っているのが彼の利益になると彼に理解させられるこ とを僕は疑いません。警察の立場からすると彼が身代金目的で少年を誘拐したことになるでしょう。彼らが自分 で発見するのでなければ、僕が彼らにもっと幅広い観点から見るように注意してやらなければならない理由はないと 思います。しかしながら閣下、ご注意申し上げますが、ジェイムズ・ワイルダー氏を引き続き家族 のうちに置いていては不幸になるだけです。」
 「それはわかっています、ホームズさん、で、既に彼は私の下を永久に離れ、幸運を求めてオーストラ リアに行くことに決まっています。」
 「それならば、閣下、結婚生活の不幸には彼の存在が引き起こしたところもあるとご自身おっしゃったことでもあり、 できる限り公爵夫人に償いをして、不幸にも中断されていた関係にまた戻るようになさったらいかがでし ょう。」
 「それも既に手配しました、ホームズさん。今朝公爵夫人に手紙を書きました。」
 「それならば、」ホームズは立ち上がりながら言った、「友人と僕は、僕たちの北部への短い訪問によ りいくつかきわめて満足できる結果を得たことを喜んでいいと思います。もう一点、小さなことですが、 明らかにしたいことがあります。あのヘイズという男は牛の足跡と見せかける蹄鉄を馬に打っていました。そ のような驚くべきからくりを彼が聞き知ったのはワイルダー氏からでしょうか?」
 公爵は少しの間、激しい驚きを顔に浮かべて、考えつつ立っていた。それから彼はドアを開け、博 物館のようにしつらえられた大きな部屋へ私たちを案内した。彼は先に立って隅のガラスケースのところ へ行き、碑文を指さした。
 「これらの蹄鉄は、」そこには書かれていた、「ホールダネス・ホールの堀で発掘された。これらは馬に用いられ たものであるが、足跡をたどる追っ手をまくために、下部を偶蹄の形にしたものである。中世 のホールダネスの略奪をする一部の貴族のものと思われる。」
 ホームズはケースを開け、指を湿らせ、それを蹄鉄に沿って動かした。新しい泥の薄い膜が彼の皮膚に残 された。
 「ありがとうございます」と言って彼はガラスを元に戻した。「僕が北部地方で見たものの中で二番 目に興味あるものです。」
 「それで一番は?」
 彼は小切手を折りたたみ、慎重に手帳にはさんだ。「僕は貧乏人です」と彼は言って、それを愛情をこ めて軽くたたき、内ポケットの奥へと押し込んだ。

ブラック・ピーター(The Adventure of Black Peter)

 1895年は私の知る限り我が友が精神、肉体両面で最高の状態にあった年である。彼の高まる名声に伴 って仕事の依頼も激増したが、ベーカー街の私たちのつつましい家を訪れた著名な依頼人たちの中には、 その正体をほのめかすことさえ軽率の謗りを免れぬ人もある。しかしホームズは、あらゆる芸術家の例に もれず、芸術のために生きていて、私の知るところ、ホールダネス公爵の事件を除けば、彼がその計り知 れない尽力に対して多額の報酬を要求したことはめったになかった。浮世離れした--というより気まぐ れな--彼のこと、彼の共感を呼ばぬ問題では勢力ある資産家への助力をしばしば断り、その一方、事件 が不思議で劇的な性質を呈し、彼の想像力に訴え、彼の創意を必要とするなら、身分の低い人の依頼する 仕事に何週間も捧げて一心不乱に専念したものである。
 この記憶に残る年、1895年には、枢機卿トスカの突然の死に関する有名な捜査--教皇聖下のはっきり した希望に基づいて彼が行った調査である--から、ロンドンのイーストエンドから悪の巣窟を移した悪 名高きカナリア・トレーナー、ウィルソンの逮捕へ、といった具合に、奇妙に、ちぐはぐにホームズの注 意を引く事件が連続した。有名なこれら二つの事件のすぐ後に生じたのがウッドマンズ・リーの悲劇であ り、ピーター・ケアリ船長の死を取り巻くきわめてあいまいな状況であった。シャーロック・ホームズ氏 の記録もこのきわめて異常な事件の記述を抜きにしては完全なものとはなるまい。
 七月の第一週、我が友がしばしば、それも長く私たちの下宿を留守にしていたので彼が何かに取り掛か っていることがわかった。その間、幾人かの粗野な感じの男が訪れてはバジル船長に面会を求めた事実か ら、その恐るべき正体を隠す幾多の変装、名前の一つを使い、ホームズがどこかで仕事をしていることが 知れた。彼は少なくとも五つの小さな隠れ家をロンドンのさまざまな場所に構え、そこで人格を変えるこ とができるのだった。彼はその仕事について何も言わなかったし、打ち明け話を強制するのは私の習慣に なかった。彼の捜査の進んでいる方向を示す最初の兆候は異常なものだった。彼が朝食前に出かけ、私が 自分のいすに腰掛けていた時、帽子をかぶり、さかとげのある巨大なやすを傘のように脇に挟んだ彼が大 またに部屋に入ってきたのだ。
 「なんてこった、ホームズ!」私は叫んだ。「そんなものをもってロンドンを歩き回ってきたと言うん じゃないだろうな?」
 「肉屋に乗り付けて奥にいたよ。」
 「肉屋だって?」
 「それですっかり腹をすかせて戻る。疑う余地はないね、ワトソン君、朝食前の運動がいいのは。しか し賭けてもいいが、僕の運動というのがどんな格好をするか、君には当たらないだろうな。」
 「当ててみようとも思わんよ。」
 彼はコーヒーを注ぎながらくすくす笑った。
 「君にアラーディスの店の奥をのぞくことができたら、天井の鉤に死んだ豚がぶらさがり、ワイシャツ 姿の紳士がそいつをこの武器で猛烈に突いているのが見えたろう。僕がその精力的な人物で、僕は力を使 わなくても一撃で豚を突き通すことができると確信したんだ。あるいは君もやってみたいかな?」
 「絶対にごめんだ。しかしなぜ君はそんなことを?」
 「ウッドマンズ・リーの謎に間接的に関係があるように思えるからだ。ああ、ホプキンズ、昨夜電報は 受け取ったよ、君を待っていたんだ。さあ一緒にやろう。」
 訪問者は非常に機敏な男で、歳は三十、地味なツイードのスーツを着ていたが、警察の制服に慣れた者 らしくまっすぐな姿勢を保っていた。私はすぐにそれをスタンリイ・ホプキンズと見分けたが、若い警部 補で、ホームズがその将来に大いに期待する一方、彼の方も有名なアマチュアの科学的方法に対する称賛 と敬意を生徒として公言していた。ホプキンズの表情は曇り、すっかり落胆した様子で腰を下ろした。
 「いえ、結構です。こちらへ寄る前に朝食はすませました。昨日報告に来たのでロンドンで一晩過ごし たのです。」
 「で、どんな報告をすることになったね?」
 「失敗です、完全なる失敗です。」
 「全然進展なしかな?」
 「一つも。」
 「おやおや!ちょっと僕が見なくてはいけないかな。」
 「ぜひお願いします、ホームズさん。初めて私に訪れた大きなチャンスですが思案にくれているんです。 どうかお出かけになって手をお貸しください。」
 「さてさて、たまたま僕はもう手に入った証拠についてはすべて、検視報告も含めていささか注意して 目を通したよ。ところで犯行現場で見つかった煙草入れを君はどう思う?手がかりにならないかな?」
 ホプキンズはびっくりしたらしい。
 「あれは男自身の煙草入れです。内側にイニシャルがありました。それにアザラシの皮ですし--彼は ベテランのアザラシ猟の猟師でした。」
 「しかし男はパイプを持っていなかった。」
 「ええ、パイプは見つかりませんでした。実際、彼はほとんど吸いませんでしたが、友達にやるために 煙草を持っていたってこともあるでしょう。」
 「確かに。ただ、僕が事件を扱っていたらそれを捜査の出発点にしたいところだったからね、そう言 っただけなんだ。ところでねえ君、ワトソン博士はこの事を何も知らないし、僕にしたって一連の出来事 をもう一度聞くのも悪くない。ちょっと主要な点をかいつまんで話してくれたまえ。」
 スタンリイ・ホプキンズはポケットから一枚の紙片を引き出した。
 「ここに死んだ男、ピーター・ケアリ船長の経歴を示す資料がいくつかあります。1945年生まれ--50歳 です。きわめて向こう見ずなアザラシ、クジラの猟師で、成功しました。1883年にはダンディーの蒸気船、 シー・ユニコーンの指揮を執りました。それからいくつか連続して航海を成功させ、翌年、1884年に引退 しました。その後数年間旅をして、最終的にはサセックスのフォレスト・ロウの近くにウッドマンズ・リー という小さな所を買いました。そこで六年間暮らし、そこでちょうど一週間前の今日死にました。
 この人にはいくつか極めて奇妙なところがありました。普段の生活では厳格なピューリタンで--無口 で暗い男でした。世帯は妻と二十歳の娘と二人の女中からなっていました。女中はしょっちゅう変わって います。決してあまり楽しい立場ではありませんし、我慢の限度を超えることもありましたから。彼は時 々大酒を飲み、どうかするとまったく鬼のようになったのです。真夜中に妻と娘を戸外に追いたて、庭中 でむちをふるい、ついには敷地の外の村人が皆、悲鳴で目をさましたことも知られています。
 一度、彼のふるまいを注意するために訪れた老いた教区牧師にひどい暴行に及んで召喚されたことがあ ります。要するにホームズさん、ピーター・ケアリより危険な男を見つけるのは容易なことではないです し、船を指揮していた時も、同様の性格だったと聞いています。彼は仲間内でブラック・ピーターで通っ ていて、その名を頂戴したのも日に焼けた顔や巨大なひげの色のためばかりでなく、周りの皆に恐れられ たその気性のためでもあります。近所の誰もに嫌われ、避けられていたこと、その恐ろしい最後について 一言も悲しむ声は聞かれなかったことは言うまでもないでしょう。
 ホームズさんは男のキャビンの検視に関する記述をお読みになったにちがいありませんが、おそらくご 友人はお聞きになっていないでしょう。彼は母屋から数百ヤードのところに自分で木造の離れ--彼はい つもそれを『キャビン』と呼んでいました--を建て、ここで毎晩寝ました。それは小さな、一部屋の、 十六かける十フィートの小屋でした。鍵はポケットに持ち歩き、自分でベッドを整え、自分で掃除し、ほ かの者には敷居をまたぐことを許しませんでした。両側に小さな窓がありますが、カーテンに覆われ、開 けたことがありません。窓の一つは本道の方を向いていて、夜、そこに明かりがともると村人たちは互い にそれを指差してはブラック・ピーターがそこで何をしているのだろうと思ったものです。 この窓がですね、ホームズさん、検視でわかった数少ない明白な証拠の一つを与えてくれたのです。
 ご記憶でしょうがスレイターという名の石工が朝の一時ごろ--殺人の二日前--フォレスト・ロウか ら歩いてきて、通りすがりにその庭のそばで立ち止まり、木々の間にまだ四角い光が輝いているのを見ま した。彼は、横向きになった男の頭の影がブラインド上にくっきりと見えたがこの影は間違いなく彼のよく 知っているピーター・ケアリのものではないと断言しました。あごひげのある影だったけれども、そのあ ごひげは短くて前方に立っていて、船長のそれとはまったく違っていました。そう彼は言いますが、二時 間パブにいた後でもあり、道から窓まではかなり距離があります。その上これは月曜日のことで、犯罪が 行われたのは水曜日です。
 火曜日のピーター・ケアリは虫の居所も最悪で、酔って興奮し、危険な野獣のように凶暴でした。家の 周りをぶらつき、彼の来るのが聞こえるとご婦人方はあわてて逃げました。夕方遅く、彼は自分の小屋へ と引き上げました。翌朝二時ごろ、窓を開けて寝ていた彼の娘がその方角にものすごい叫び声を聞きまし たが、酔った彼がわめいたり叫んだりするのは珍しいことではないので、何の注意も払われませんでした。 七時に起きた女中の一人が小屋のドアが開いているのに気づきましたが、男の与えた恐怖の大きさに、真昼 になるまで誰一人彼がどうなったか、あえて見に行こうとしませんでした。開いたドアから覗き込み、光 景を見た彼らは真っ青な顔で村に飛んでいきました。一時間のうちに私は現場に着き、事件の担当になりました。
 いや、私はご存知のように、かなり神経は丈夫な方ですが、ホームズさん、嘘じゃありません、あの小 さな家に首を突っ込んだ時、私は震えました。キンバエ、クロバエがハーモニウムのようにブンブン言っ ているし、床や壁は屠殺場のようでした。彼はそれをキャビンと呼びましたが、なるほどそれはキャビン で、船の中にいるのでは、と思われるほどでした。一端の寝棚、シーチェスト、地図に海図、シー・ユニ コーンの絵、棚の上の一列になった航海日誌、すべてが船長の部屋にあるだろうと思われるもの、そのま までした。そしてそこに、その中央に、その人自身がいました--その顔は苦しみながら死んだ人のようにゆがみ、 豊かなまだらのあごひげは苦悶に上向きに突き出ていました。その幅広い胸をまっすぐに鋼鉄のモリが 貫通し、それは背後の木の壁にまで深くめり込んでいました。彼はカードにピンで留められた甲虫のよう でした。もちろん彼は完全に死んでいて、それはあの最後の苦悶の叫びを発した瞬間からのことです。
 私はあなたの方法を知っていますのでそれを適用しました。まずは何も動かすことを許さず、非常に注 意して外の庭園と、それから部屋の床も調べました。足跡は一つもありませんでした。」
 「君には一つも見えなかったという意味だね?」
 「確かです、まったくありませんでした。」
 「ホプキンズ君、僕は多くの犯罪を捜査してきたけどね、いまだ空飛ぶ生き物によって行われたものは 見たことがないよ。犯罪者が二本足である限り、必ずでこぼこやこすれたところやわずかに動いたものが あるにちがいないし、科学的捜索者はそれを見つけるはずだ。この血の飛び散った部屋に役に立つ痕跡が 一つもないとは信じられないね。しかし検視報告を見ると、君が見逃し損ねたものもいくつかあったらし いね。」
 若い警部は友の皮肉な論評にたじろいだ。
 「あの時点でホームズさんにお願いしなかったのはおろかでした。しかし今更言っても仕方がない ですね。そうです、部屋には特別に注意を引くものがいくつかありました。一つは犯行に用いられたモリ です。それは壁の上の方のラックから引っつかんだものです。そこにはまだ二つ残っていて、三つ目を置く場 所が空いていました。柄には『蒸気船、シー・ユニコーン、ダンディー』と彫ってありました。これは犯 罪が怒りにまかせて行われたこと、殺人者が目についた最初の武器をつかんだことを立証するように思え ます。犯罪が朝の二時に行われたにもかかわらずピーター・ケアリがきちんと服を着ていた事実は彼が殺 人者と約束していたことを示唆し、それはテーブルの上にラム酒の瓶と汚れたグラスが二つあった事実に よっても裏付けられます。」
 「そう、」ホームズは言った、「その二つの推論は認めてよさそうだね。部屋にラム酒以外の酒はあっ たかな?」
 「ええ、シーチェストの上のタンタロススタンドにブランデーとウィスキーがありました。しかしそれ は私たちにとって重要ではありません。デカンターはいっぱいで、従って飲んでませんから。」
 「それにしてもそれがあったことには何らかの意味があるよ」とホームズは言った。「しかし君が事件 に関係があると思うことについてもう少し聞かせてもらおうかな。」
 「この煙草入れがテーブルの上にありました。」
 「テーブルのどこら辺に?」
 「中央にありました。粗いアザラシの皮--直毛の皮で、革紐で縛ってありました。内側には折り返 しに『P.C.』とあります。強い船員煙草が半オンス入っていました。」
 「結構。それから?」
 スタンリイ・ホプキンズはポケットからとび色の表紙の手帳を引き出した。外側はざらざらで擦り切れ、 ページは変色していた。一ページ目には『J.H.N.』のイニシャルと『1883』と年が書かれていた。ホーム ズがそれをテーブルに置いてその細心のやり方で検査する間、ホプキンズと私はそれぞれ肩越しに見つめ ていた。二ページ目には『C.P.R.』という活字体の文字、その後数枚には数字が並んでいた。さらに別の見出し は『アルゼンチン』、さらに『コスタリカ』、さらに『サンパウロ』とあり、それぞれ符号と数字のページ が続いていた。
 「これをどう思う?」とホームズは尋ねた。
 「株式証券のリストのようです。『J.H.N.』は仲買人のイニシャルで、『C.P.R.』は顧客かもしれないと 思いましたが。」
 「カナディアン・パシフィック・レイルウェイはどうかな」とホームズが言った。
 スタンリイ・ホプキンズは小声で悪態をつき、固めたこぶしでももを打った。
 「なんてばかだったんだろう!」と彼は叫んだ。「もちろんおっしゃる通りです。すると明らかにすべ きイニシャルは『J.H.N.』だけです。すでに古い株式取引所の名簿は調べましたが、1883年には取引所内 にも外部の仲買人にもこのイニシャルと一致する者はいませんでした。それでもこれは私が握っている手 がかりの中で最も重要なものだと思います。認めてくださるでしょう、ホームズさん、このイニシャルは その場にいた第二の人物--言い換えれば殺人者のものである可能性があると。さらに言わせていただけ れば大量の有価証券に関連する文書を事件に導入すると、初めて犯行の動機を示すものが現れるのです。」
 シャーロック・ホームズの顔はこの新たな進展に完全に不意を打たれたことを示していた。
 「君の論点は二つとも認めざるをえないね」と彼は言った。「実のところこの手帳は、検視の時に出て こなかったからね、僕がどんな見解を形成していたとしても修正することになる。僕の達したこの犯罪の 仮説にはこれの入る余地はないんだ。ここに名の挙がった有価証券をどれか追跡してみたかね?」
 「調査は今警察の方で行われていますが、この南アメリカ関連の株主の完全な登記は南アメリカにあり、 株券をたどれるようになるまでに数週間経ってしまうにちがいないんじゃないかと思うのです。」
 ホームズは拡大鏡で手帳の表紙を調べていた。
 「間違いなくここに何かしみがある」と彼は言った。
 「ええ、それは血痕です。だってその手帳は床からつまみ上げたんですから。」
 「血痕は上側、下側?」
 「床板に接した側です。」
 「それはもちろん、手帳は犯行の後、落とされたことを証明する。」
 「その通りです、ホームズさん。私はその点を重要視し、それは殺人者があわてて逃げる時に落とした ものと推測するのです。ドアの近くにありました。」
 「これらの有価証券は死んだ男の資産の中にはなかったと思うが?」
 「ええ。」
 「強盗を疑う理由はないかな?」
 「ありません。何も触っていないようですから。」
 「ほう、確かに実に面白い事件だ。それでそこにナイフはなかったかな?」
 「鞘つきナイフが。鞘に入ったままで。死んだ男の足の辺りにありました。ケアリ夫人が夫の持ち物と 確認しました。」
 ホームズはしばらく考え込んでいた。
 「それでは、」ようやく彼が言った、「一つ出かけて行って見てみなくてはいけないかな。」
 スタンリイ・ホプキンズは喜びの叫び声を上げた。
 「ありがとうございます。それで、いやほんとに、気が楽になります。」
 ホームズは警部に指を振ってみせた。
 「一週間前ならもっと易しい仕事だったろうがね」と彼は言った。「しかしまあ今からでも僕の訪問が まったく無益になるとも限るまい。ワトソン、時間がさけるなら、一緒に来てくれると非常に嬉しいんだ が。四輪馬車を呼んでくれればホプキンズ、僕たちは十五分でフォレスト・ロウへ出発する用意ができる よ。」
 小さな道路沿いの駅で降りた私たちは、数マイルの間広がる林の残骸の中を走らせていった。それはかっ て大きな森の一部で、長年にわたってサクソンの侵略者を寄せつけなかったものだ--奥深い『森林地帯』 であり、六十年間大ブリテンの砦だった。その広大な地域が切り開かれたのは、ここがこの国の鉄製品の 最初の中心地であり、鉄鉱石を製錬するために木々が伐採されてしまったからだ。今ではその産業も北部のよ り豊かな産地に吸収され、この破壊された森と地表の大きな傷跡のほかには過去の作業を示すものはなか った。ここ、丘の緑の斜面の開拓地の中に、長く、低い、石造りの家が立ち、野原を通り抜ける湾曲した 車道が進入路になっていた。道路に近く、三方を藪に囲まれて小さな離れがあり、窓の一つとドアが私た ちの方に面していた。それが殺人の現場だった。
 スタンリイ・ホプキンズは私たちをまず母屋に案内し、やつれた白髪の女性に紹介した。殺された男の 未亡人で、やせ衰えたしわの深い顔、泣きはらした目の奥のこそこそした恐怖の表情は、耐え忍んできた 長年の辛苦と虐待を物語っていた。彼女とともにいた青白い、金髪の女性が彼女の娘で、私たちに挑むよ うにその目をぎらぎらさせながら、父親が死んで嬉しい、父親を打ち倒した手を祝福すると語った。ブラ ック・ピーター・ケアリが自ら築いたのは恐ろしい家族であり、再び日の光の中、死んだ男の足で踏みな らされた野原を横切る小道に沿って進む私たちには安堵感があった。
 離れは木の壁、一枚屋根で、窓の一つはドアのそばに、一つは向かい側にある、非常に簡素な家だった。ス タンリイ・ホプキンズはポケットから鍵を引き出し、錠にかがみこむと、顔に警戒と驚きの表情を浮かべ て動きを止めた。
 「誰かがいじった跡がある」と彼は言った。
 事実に疑いはなかった。木の部分が切りつけられ、塗装のあちこちにつけられたばかりのようなかき傷が白く 見えていた。ホームズは窓を調べていた。
 「これも誰かがこじ開けようとしているね。誰にしろ中に入り損ねたな。実に下手な侵入盗らしい。」
 「これはきわめて異常なことです、」警部は言った、「確かにこの跡は昨日の晩にはここにありませ んでした。」
 「村から来た物見高い人間じゃないかな」と私は言ってみた。
 「とてもありそうもないです。あえて庭に足を踏み入れようという人もほとんどいないのですから、キ ャビンに押し入ろうとするなんてなおさらです。どう思われます、ホームズさん?」
 「運が僕たちに微笑んでいるようだね。」
 「とおっしゃると、この人物がまた来るだろうと?」
 「大いにありそうなことだ。彼はドアが開いているだろうと思ってやってきた。そして非常に小さなペ ンナイフの刃で入ろうとした。だがうまくいかなかった。さてどうするか?」
 「翌日の夜もう一度、もっと役に立つ道具を持って来る。」
 「おそらくそうだ。そこにいて彼を迎えてやらなかったら僕たちの過失になる。ところでと、キャビン の内部を見せてもらおうかな。」
 悲劇の痕跡は取り除かれていたが、小さな部屋の中の家具はまだ犯行の夜あった通りに置いてあった。 二時間かけ、極限まで集中して、ホームズはあらゆる物を順に調べたが、その顔は探求がうまくいってい ないことを示していた。一度だけ彼は辛抱強い調査の手を止めた。
 「この棚から何か持ち出したかい、ホプキンズ?」
 「いいえ、何も動かしてません。」
 「何かがとられている。棚のこの隅がほかよりもほこりが少ない。この面に本が一冊置いてあったらしいね。 箱だったかもしれない。さてさて、もうすることもないな。ここの美しい森を歩いてみようよ、ワトソン、 数時間は鳥や花にあてよう。後でここで会おうよ、ホプキンズ、夜中の訪問をした紳士に肉薄できるかど うかやってみよう。」
 十一時過ぎ、私たちは小さな待ち伏せ隊を作った。ホプキンズは小屋のドアを開け放しにしようとした が、ホームズはそれでは未知の客の疑いを呼び起こすという意見だった。錠はまったく単純なもので、そ れを押し戻すにはただ強力な刃が必要なだけだった。ホームズはまた、私たちは小屋の中でなく、外の、 向こう側の窓の周囲に生えた藪の中で待つべきだと提案した。そうすれば、男が明かりをつければその男を観 察することも、そのひそかな夜の訪問の目的が何かを知ることもできるわけだ。
 長く憂鬱な寝ずの番だったけれども、水たまりのそばに伏せ、獲物の野獣が渇して来るのを待つハンタ ーの感じるスリルのようなものもあった。闇の中から私たちに忍び寄るのはどんな野蛮な生き物だろう? 閃光のような牙や爪と苦闘しなければ捕らえられない凶暴な犯罪のトラだろうか、それとも弱い、無防備 なものにだけ危険な、こそこそしたジャッカルだったということになるのだろうか?
 一言も口を利かずに藪の中にかがみ、私たちは来るものを待っていた。はじめは数人の宵っ張りの村人 の足音や村からの人声が寝ずの番を元気付けてくれたが、こうした邪魔者も一つ、一つと消えていき、完 全な静寂が私たちを包み、ただ遠くの教会の鐘の音が夜の進行を告げ、また、さらさらと小さな音で細かい 雨が私たちをかくまう群葉の間に落ちていた。
 二時半の鐘が鳴り、夜明け前の最も暗い時間となった時、低いが鋭いカチッという音を門の方角に聞い て私たちは全員はっとした。誰かが私道に入った。再び長い静寂が続き、虚報ではないかと思い始めた時、 ひそかな足音、そして一瞬の後、金属のこすれ、触れ合う音が小屋の反対側から聞こえた。男は錠をこじ 開けようとしていた。今回は腕前が上がったのか、道具がよかったのか、突然パチンと鳴り、ちょうつが いがギーときしんだ。それからマッチがすられ、次の瞬間ろうそくの安定した光が小屋の内部に満ちた。 紗のカーテンを通し、私たちの目はすべて、中の場面に釘付けになった。
 夜の訪問者はきゃしゃでやせた若い男で、黒い口ひげがあり、それが顔の死人のような青白さを強調し ていた。二十歳をあまり超えていないようだった。私はこんなに情けないほど怖がっているように見える 人間を見たことがなかった。見てわかるほど歯をガタガタさせ、手足をぶるぶる震わせていたのだ。ノー フォーク・ジャケットにニッカーボッカー、頭にはハンチングと、紳士然とした装いだった。私たちはお どおどした目であたりを凝視する彼を見ていた。それから彼はろうそくの燃えさしをテーブルに置き、私 たちの視界から一隅へと消えた。彼は大きな書物、棚の上に一列に並んだ航海日誌の一つを持って戻った。 彼はテーブルにもたれ、この巻のページを、探している記載のところにくるまで急いでめくった。それか ら、固めたこぶしによる怒りのしぐさとともに、彼は本を閉じ、元の隅に戻し、明かりを消した。きびす を返して彼が小屋を出て行こうとしたとたんにホプキンズの手が男の襟に置かれ、捕まったことを悟った 彼の恐怖に大きくあえぐ声が聞こえた。再びろうそくがともされ、みじめな捕虜は刑事の手に落ちて震え、 すくんでいた。彼はぐったりとシーチェストに腰を下ろし、どうすることもできずに私たちを順に眺めて いた。
 「さて、ねえ君、」スタンリイ・ホプキンズが言った、「君は誰で、ここに何の用だね?」
 男は気を静め、やっとのこと、冷静になって私たちに顔を向けた。
 「あなた方は刑事さんですね?」と彼は言った。「私がピーター・ケアリ船長の死に関係があると思っ ていますね。はっきり申し上げますが私は無実です。」
 「それは我々が調べます」とホプキンズは言った。「まずは、君の名前を?」
 「ジョン・ハプリイ・ネリガンです。」
 私はホームズとホプキンズがすばやく視線を交わしたのを見た。
 「ここで何をしていました?」
 「ここだけの話にしていただけますか?」
 「いえ、とんでもない。」
 「話さなければいけないんですか?」
 「お答えがなければ、裁判であなたにとってまずいことになるかもしれません。」
 若者はたじろいだ。
 「では、お話しましょう」と彼は言った。「話せますとも。けれども、この昔の醜聞が息を吹き返すと 思うとぞっとするんです。ドーソン・アンド・ネリガンのことをお聞きになったことはありませんか?」
 ホプキンズの顔から知らないことが見て取れたが、ホームズは強い興味を示した。
 「君の言うのは西部地方の銀行家だね」と彼は言った、「百万の不渡りを出し、コーンウォールの旧家の半 分を破産させ、ネリガンは失踪した。」
 「その通りです。ネリガンは私の父です。」
 やっと私たちは明確なものを手にしていたが、それでも姿をくらました銀行家と自身のモリの一つで壁 にピン留めされたピーター・ケアリ船長との間には大きな隔たりがあった。私たちは皆、熱心に若者の言 葉に耳を傾けた。
 「実際に関係したのは私の父です。ドーソンは引退していました。私はその時ほんの十歳でしたが、恥 辱と恐怖を余すところなく味わうまでにはなっていました。いつも父が証券すべてを盗んで逃げたのだと 言われていました。それは真実ではありません。父はそれらを換金する時間さえ与えられれば何もかもう まくいってすべての債権者に満額支払えると信じていました。父は逮捕状の発行される直前に小さなヨッ トでノルウェーに向けて出発しました。父が母に別れを告げたあの最後の夜を覚えています。父は私たち に持っていく有価証券のリストを残し、名誉を回復して戻ってくる、信じてくれた人は一人も損をさせな い、と誓いました。さて、父からの消息は二度と聞かれませんでした。ヨットも父も完全に消えてなくな りました。私たち、母と私は、父もヨットも、持って出かけた有価証券とともに海の底にあると思ってい ました。しかし、私たちには信頼できる友人がありまして、事業家ですが、その人がこの間、父の所持して いた証券がロンドン市場に再び現れたのを見つけたのです。私たちの驚いたこと、ご想像がつきましょう。 私は何ヶ月もかかってそれらを追跡しようとしてついに、散々疑われたり苦労したりしたあげく、最初に売った 人がこの小屋の持ち主、ピーター・ケアリ船長だったことを知ったのです。
 もちろん私はその人についてちょっと聞き合わせてみました。私はその人が、父がノルウェーに渡って いるちょうどその時に北極海から戻ってくる予定の捕鯨船の船長だったことを発見しました。その年の秋 は天候が荒れていて、南からの強風が長く続いていました。父のヨットは北に吹き流され、そこでピータ ー・ケアリ船長の船と出会ったのでしょう。もしそうだとしたら、父はどうなってしまったのでしょう? いずれにせよ、ピーター・ケアリの証言からどうして証券が市場に現れたのかを証明できれば、父はそれ らを売っていないこと、父がそれらを持っていった時に私的利益を得る目的はなかったことの証明になり ます。
 私は船長に会うつもりでサセックスまで来ましたが、その時彼の恐ろしい死が起こったのです。私は検 視のキャビンの記述を読みましたが、彼の船の古い航海日誌が保存されていると述べられていました。 1883年の八月、シー・ユニコーンの船上で何が起こったかを調べることができれば、父の運命の謎は解決 するかもしれないという考えが浮かびました。昨夜、私はこの航海日誌を手に入れようとしましたが、ド アを開けられませんでした。今夜もう一度やってみてうまくいきましたが、その月に関するページはその 巻から破りとられていました。そしてその時私は囚人としてあなた方の手に落ちていました。」
 「それで全部ですか?」とホプキンズは尋ねた。
 「はい、全部です。」そう言いながら彼は目をそらした。
 「ほかに何も言うことはありませんか?」
 彼はちゅうちょした。
 「ええ、何もありません。」
 「昨夜以前にここに来たことはありませんか?」
 「いいえ。」
 「ではこれをどう説明しますか?」とホプキンズは大声で言い、一ページ目には囚人のイニシャル、表 紙には血のしみのある、言い逃れのできない手帳を掲げた。
 哀れな男はくずおれた。両手に顔をうずめ、体中震わせていた。
 「どこで手に入れました?」と彼はうめいた。「わからなかった。ホテルでなくしたものと思ってい ました。」
 「もうよしたまえ」とホプキンズが厳しく言った。「ほかに言うべきことがあるなら法廷で言わなけれ ばなりません。今から警察署まで私と歩いてもらいましょう。さて、ホームズさん、あなたとご友人には 助けに来ていただいて深く感謝します。わかってみればあなたにいていただく必要もなかったし、あなた 抜きでも私がこの好結果を事件にもたらしたでしょう、が、それでも、感謝します。ブランブレティエ・ホテル に部屋が取ってありますから、村まで皆で一緒に歩いて行けますね。」
 「さて、ワトソン、君はどう思う?」翌朝、帰りの道中でホームズが尋ねた。
 「君が納得していないのはわかるよ。」
 「ああ、いや、ワトソン君、僕は完全に納得しているよ。と同時にスタンリイ・ホプキンズのやり方は 気に入らないね。スタンリイ・ホプキンズには失望したよ。もう少しましなものを期待していたんだが。 常に別の可能性を探求し、それに備えているべきなんだ。それが犯罪捜査の第一の法則だ。」
 「じゃあ、その別の、とは何だね?」
 「僕が自分で追跡してきた調査の線だ。何ももたらさないかもしれない。僕にもわからない。だが少な くとも僕は最後までたどってやる。」
 ベーカー街では数通の手紙がホームズを待っていた。彼はその一つを引っつかみ、開封し、勝ち誇った ようにくすくす笑い出した。
 「やったぞ、ワトソン!別の線が進んでいる。電報の発信紙を持っているかい?ちょっと二通ばかり書 いてくれないか。『サムナー、船会社代理店、ラトクリフ・ハイウェイ、明日朝十時着で、三人送れ。--バジル。』 それがあっちの方での僕の名前だ。もう一つはね。『スタンリイ・ホプキンズ警部、ロード街46、ブリ クストン。明日九時半、朝食に来い。重要。無理なら電報を。--シャーロック・ホームズ。』やれやれ、 ワトソン、このいまいましい事件は十日も僕を悩ませてくれたからね。これできれいさっぱり僕の前から 追い払うんだ。明日は、その話を聞くのもそれっきり最後になると思うよ。」
 指定の時間きっかりにスタンリイ・ホプキンズ警部が現れ、私たちは共に、ハドソン夫人の用意した すばらしい朝食の席に着いた。若い刑事は自分の成功に上機嫌だった。
 「君は本当に自分の解決が正しいと思っているのかね?」とホームズが尋ねた。
 「これより完璧な事件は思いつかないくらいです。」
 「僕には決定的とは思えないんだが。」
 「びっくりさせますね、ホームズさん。これ以上何が必要ですか?」
 「君の説明はあらゆる点に当てはまるかな?」
 「間違いありません。ネリガン青年が犯行の当日、ブランブレティエ・ホテルに到着したことがわかり ました。彼はゴルフをするという口実で来ました。部屋は一階で好きな時に外出できました。その当夜、 彼はウッドマンズ・リーまで出かけ、小屋でピーター・ケアリに会い、彼とけんかし、モリで殺したので す。それから、やってしまったことが怖くなり、小屋を逃げ出し、ピーター・ケアリにいろいろな証券に ついて質問するために持っていった手帳を落としたのです。お気づきでしたでしょうか、証券のあるもの にはチェックが入り、ほかのもの--大部分--にはありませんでした。チェックのあるものはロンドン 市場で追跡されたものですが、ほかのものは、たぶん、まだケアリが持っていて、ネリガン青年は、彼自 身の説明によれば、父親の債権者に対してするべきことをするためにぜひともそれを取り戻したかったのです。 逃げた後しばらくはもう一度小屋に近寄る勇気がなかったのですが、結局、必要な情報を手に入れるため に無理にそうしました。確かにまったく簡単明瞭じゃありませんか?」
 ホームズは微笑んで首を振った。「僕にはたった一つ、欠点があるように見えるんだ、ホプキンズ、す なわち本質的に不可能であるということだ。君は死体にモリを突き通して見たことがあるかい?ない?ツ ッ、ツッ、君ねえ、本当はこういう細部に注意を払わなければいけないんだ。ワトソン君に聞いてみたま え、僕はその実習に一朝費やしたよ。それは易しいことではないし、強靭で熟練した腕が必要だ。ところ がその一撃は非常に猛烈に加えられたもので、武器の先は壁に深くめりこんでいた。あの弱々しい青年にそん な恐ろしい攻撃をする力があると思うのかい?あれが真夜中にブラック・ピーターとラムの水割りを酌み 交わした男か?あれが二日前の夜、ブラインドに見えた横顔か?いやいや、ホプキンズ、僕たちが探すべ きは別の、もっと恐るべき人物だ。」
 刑事はホームズが話しているうちに次第に浮かぬ顔になってきた。彼の希望と野心が彼の周りですべて 崩れていった。しかし彼は自分の立場を捨てられずにもがいてみせた。
 「ネリガンがあの夜いたことは否定できませんよ、ホームズさん。手帳がそれを証明します。あなたに あらを見つけられたとしても、陪審を納得させるだけの証拠は握っていると思うんですが。ホームズさん、 私は現にその男を捕まえているんです。あなたのその恐ろしい人物ですが、どこにいます?」
 「そこの階段に来ているんじゃないかなあ」とホームズは穏やかに言った。「それでね、ワトソ ン、例のリボルバーを届くところに置いておいた方がいいと思うんだ。」彼は立ち上がり、サイドテーブ ルに一枚の書面を置いた。「さあ準備よしと」と彼は言った。
 外に何人かのしわがれた話し声がして、それからハドソン夫人がドアを開け、三人の男の方がバジル船 長を訪ねていらしてると言った。
 「一人ずつ案内して」とホームズは言った。
 最初に入ってきたのは、赤い頬、ふわふわした白い頬ひげの小さな赤りんごのような男だった。ホーム ズはポケットから手紙を引き出していた。
 「名前は?」と彼は尋ねた。
 「ジェイムズ・ランカスター。」
 「悪いが、ランカスター、口はいっぱいなんだ。これは半ソブリン、ご足労をかけたから。ちょっとこ っちの部屋に入って二、三分待っていてくれ。」
 二番目は長身のしなびた男で、長いまっすぐな髪、黄ばんだ頬だった。ヒュー・パティンズという名前 だった。この男も手当ての半ソブリンを受け取り、待つように言われた。
 三番目の志願者は驚くべき風貌の男だった。獰猛なブルドッグの顔をもつれた髪とあごひげが縁取り、 二つの大胆で暗色の目は、濃い、ふさふさして垂れ下がる眉毛の陰に隠れて光っていた。彼は敬礼して船 員風に立ち、帽子を手の中で回していた。
 「名前を?」とホームズは尋ねた。
 「パトリック・ケアンズ。」
 「モリ打ち?」
 「そうです。二十六回の航海歴。」
 「ダンディー、でかな?」
 「そうです。」
 「それで探査船でいつでも出発できる?」
 「ええ。」
 「賃金は?」
 「月に八ポンド。」
 「すぐに発てるかな?」
 「道具がそろい次第。」
 「身分証明書は持っている?」
 「ええ。」彼はポケットからすり切れ、油で汚れた一束の書類を取り出した。ホームズはざっと目を通 して返した。
 「君こそ求める男だ。」と彼は言った。「サイドテーブルの上に契約書がある。君がサインすればすべ て決まりだ。」
 船乗りはぐいと舵を切って部屋を横切り、ペンを取り上げた。
 「ここにサインするんですね?」と彼は尋ね、テーブルにかがみこんだ。
 ホームズは男の肩越しに身を乗り出し、両手を首の向こうに渡した。
 「これでよし」と彼は言った。
 私は鋼のカチッという音、怒った雄牛のようなうなり声を聞いた。次の瞬間、ホームズと船乗りは組み 合って床を転がっていた。男は巨人のように力が強く、ホームズが手錠を巧みに手首にかけたのになお、 ホプキンズと私があわてて助けに駆けつけなかったら、あっという間に我が友を打ち負かしていただろう。 私がそのこめかみにリボルバーの冷たい銃口を押し当てた時に初めて、ようやく男は抵抗しても無駄と悟 った。私たちは男の足首を紐でくくり、息を切らして格闘を終えた。
 「本当にすまなかったね、ホプキンズ」とシャーロック・ホームズは言った。「スクランブルエッグが 冷めてなければいいんだが。しかし残りの朝食はなおさら楽しめるんじゃないかな、事件を成功裏に終え られると思えば。」
 スタンリイ・ホプキンズは驚いて言葉もなかった。
 「何と言ったらいいのか、ホームズさん」と、ようやく彼は真っ赤な顔をして口走った。「私は初めか らばかなまねをしていたらしいですね。やっとわかりました、決して忘れてはいけなかったこと、私が生 徒であなたが教師だということが。今でもなさったことはわかりますが、どうやってやったのか、どうい う意味なのかはわかりません。」
 「まあ、まあ」とホームズは上機嫌で言った。「僕たちは皆、経験から学ぶ、今回の君への教訓は決し て別の線を見失うなということだ。君はネリガン青年に入れ込みすぎて本当にピーター・ケアリを殺した者、 パトリック・ケアンズに思いをめぐらす余裕がなかったのだ。」
 船乗りのしわがれ声が私たちの会話に割り込んだ。
 「ねえ、だんな、」彼は言った、「こんな風に手荒い扱いを受けるについちゃあ不平を言わないが、物 事は正しい名で呼んでもらいたいな。あんたは俺がピーター・ケアリを殺したと言う、俺に言わせ りゃ俺はピーター・ケアリをやっちまった、そこには雲泥の差がある。たぶん俺の言うことを信じちゃくれまい。 たぶん俺が出まかせを言ってるだけだと思うだろうな。」
 「とんでもない」とホームズは言った。「君の言いたいことを聞かせてもらおう。」
 「すぐ話せるさ、それに誓って、一言一言全部真実だ。俺はブラック・ピーターって奴を知ってる、 で、奴がナイフを抜いた時、モリを奴に突き通してやった、だって奴か俺かってことがわかってたからな。 そうやって奴は死んだ。それを故意に殺したって言ってもいいぜ。どのみち、ブラック・ピーターのナイフ で胸をやられるよりロープに首をかけて死んだ方がいいや。」
 「どうしてあそこへ行った?」とホームズが尋ねた。
 「初めっから話しましょう。ちょっと座らせてくれや、その方が楽に話せまさあ。あれは1883年にあっ たことだ--その年の八月に。ピーター・ケアリはシー・ユニコーンの船長で、俺は予備のモリ打ちだっ た。帰り道、向かい風や強い南風を受けながら氷海を抜けた時俺たちは、北に吹き流されてきた小型の船 舶を救助した。男が一人乗っていた--おかのもんだ。乗組員は沈没するだろうと思ってボートでノルウ ェーの海岸へ向かったんだ。みんな溺れ死んだと思うよ。それでと、俺たちはそいつを、その男をよ、 船に乗せ、そいつと船長が長いことキャビンで話してたな。一緒に助け出した荷物はブリキの箱一つだけ だった。俺の知る限り、男の名前は一回も話に出なかったし、二日目の夜には男はもともといなかった みてえに消えちまった。自分で船から身を投げたとも、俺たちを見舞っていた悪天候で船から落ちたとも 言われていた。ただ一人、そいつに何が起こったのか知っていて、それが俺だ、というのはだね、俺自身 の目で見たんだ、船長がそいつのかかとを持ってひっくり返し、柵の向こうにやるのを、闇夜の深夜の当 直でね、シェトランド灯台の見える二日前だったな。俺は知ってることを人に明かさず、さてどうなるか と見守っていた。スコットランドに帰ったら簡単にもみ消されちまって誰も何にも尋ねなかった。見知ら ぬ男が事故で死んだんで、誰の尋ねる筋合いもなかった。まもなくピーター・ケアリは海を捨てたが、奴 がどこにいるのか見つけるまで俺はずいぶんかかった。奴があんなことをやったのはブリキの箱の中身の ためで、今じゃ俺にたっぷりと口止め料を払う余裕があるだろうと俺は思った。ロンドンで会った船乗り を通して奴がどこにいるか知った俺は搾り取ってやろうと出かけていった。最初の晩、奴はえらく物分り がよく、俺を一生海から解放するだけのものをくれるつもりだった。俺たちはすべて二日後の晩に決める ことにした。俺が行ってみると奴はすっかり酔っ払ってひどい不機嫌だった。俺たちは座って飲んで昔話 をやらかしたが、酔うほどに奴の顔つきは気に入らなくなっていった。俺はあの壁にあったモリに目をつ け、用を終えるにはそいつが必要になるかもしれないと思った。その時ついに奴が俺にかかってきた、つ ばを吐き、悪態をつき、目には殺意、手にはでかい折りたたみナイフを持って。奴にそいつを鞘から出す ひまをやらずに俺はモリを奴に突き通した。いやまったく!ひどい叫び声だったぜ!それに奴の顔が眠ろう とすると邪魔をするんだ。俺はそこに、奴の血のはねかかった中に立ってちょっと待った、が、あたりは 静まりかえっていたので、俺はもう一度勇気を奮い起こした。見回すと、棚の上にブリキの箱があった。 俺にはピーター・ケアリと同じだけそいつに対する権利がある、とにかく、それで俺はそいつを持って小 屋を出た。ばかだぜ、テーブルにもく入れを置いてきちまった。
 さてこの一部始終の中で一番妙なところを話しましょう。俺が小屋の外に出るが早いか、誰かの来るの が聞こえ、俺は藪の間に隠れた。男がこそこそとやってきて、小屋に入り、幽霊を見たかのような叫び声 を上げ、逃げ出し、見えなくなるまで精一杯走っていった。あれが誰で何の用だったか、俺にわかるこっ ちゃない。俺としては、十マイル歩き、タンブリッジ・ウェルズで列車に乗り、そうしてロンドンに着き、 誰にも気づかれなかった。
 さて、箱を調べる段になったが、そこに金は全然なくてあるのは書類ばかり、俺にはとても売れたもん じゃない。俺はブラック・ピーターの急所をつかみそこない、一シリングもなしにロンドンで立ち往生だ。 俺には仕事しか残ってない。モリ打ち、高い賃金というこの広告を見て俺は船会社の代理店に行き、それでこ こへよこされた。これで知ってることは全部だ、もう一度言うが、俺がブラック・ピーターをやったとし ても、法は俺に感謝すべきだ、首吊り縄を買う金を節約してやったんだからな。」
 「非常に明確な陳述だ」とホームズは、立ち上がってパイプに火をつけながら言った。「思うに、ホプ キンズ、一刻も早く囚人を安全な場所へ移すべきだね。この部屋はあまり監房にふさわしくないし、パト リック・ケアンズ氏はカーペットをたくさん占領しすぎる。」
 「ホームズさん、」ホプキンズは言った、「何とお礼を申していいかわかりません。いまだにどうやっ てこの結果を得たのかわかりません。」
 「単に幸運にも初めから正しい手がかりを得ていたからさ。この手帳のことを知っていたら君同様、間 違った見解に導かれたということも大いにありうるよ。だが僕の聞いたことはすべて一つの方向を指して いた。驚くべき力と腕前を示すモリの使い方、ラムの水割り、アザラシの皮の煙草入れに下等な煙草--こ れらすべてが船乗り、それも捕鯨船員だったことを示していた。僕は煙草入れの『P.C.』のイニシャルは 偶然の一致でありピーター・ケアリのものではないと確信した、なぜなら彼はめったに煙草をやらず、キ ャビンにパイプが見つからなかったからだ。覚えているだろう、キャビンにウィスキーとブランデーがあ るかどうか僕が聞いたのを。君はあったと言った。ほかにこういう酒も飲めるのにラム酒を飲もうという おかの男がどれだけいる?そうだ、それが船乗りなのは確かだと思ったよ。」
 「それでどうやって彼を見つけたのですか?」
 「ねえ君、問題は非常に簡単になったんだ。船乗りとすれば、シー・ユニコーンに一緒に乗っていた船 乗りでしかありえない。僕の知る限り、彼はほかの船で航海したことはない。ダンディーへの電報に時間を 費やし、三日が過ぎる頃、シー・ユニコーンの1883年の乗組員の名前を確認し終えた。モリ打ちの中にパ トリック・ケアンズを見つけた時には僕の調査も終わりに近づいていた。その男はおそらくロンドンにい て、しばらく国を離れたがっているだろうと僕は論結した。そこで僕は数日をイーストエンドで過ごし、 北極探検隊を案出し、バジル船長の下で働こうというモリ打ちに飛びつきたくなるような条件を提示した というわけだ--結果はご覧の通り!」
 「すばらしい!」とホプキンズは叫んだ。「すばらしい!」
 「できるだけ早くネリガン青年の釈放令状を取りたまえ」とホームズは言った。「実のところ君は彼に わびを言わなくてはいけないね。ブリキの箱は彼に返さなくてはならないが、もちろん、ピーター・ケア リが売ってしまった証券は永久に失われてしまった。馬車が来たよホプキンズ、君はお客様を移動させた らいい。裁判で僕が必要なら、僕とワトソンの居所はノルウェーのどこかだ--追って詳細は知らせるよ。」

チャールズ・オーガスタス・ミルヴァートン(The Adventure of Charles Augustus Milverton)

これからお話しする出来事が起きてからずいぶんたつが、直接実名を挙げるのでないにしても私は気後れ がする。長い間、最大限慎重に、控えめにしても、事実を公表することは不可能と思っていたが、今では主 要な関係者には人間の法が届かないことでもあり、きちんと節度を守れば誰も傷つけないようにお話しで きるかもしれない。それはシャーロック・ホームズ氏および私自身の生涯にただ一度きりのある経験 を残したものである。実際の出来事を特定しうる日付やその他の事実を私が隠したとしても、読者には お許しいただけよう。
 私たち、ホームズと私は例によって宵の散歩に出かけ、冷たい、霜の降りる冬の晩の六時頃、戻ったと ころだった。ホームズがランプの火を大きくすると、明かりはテーブルの上の名刺を照らした。彼はそれ にちらと目をやり、それからいとわしそうな叫び声を上げ、それを床に投げた。私はそれを拾って読んだ。

 仲介業
 チャールズ・オーガスタス・ミルヴァートン
 ハムステッド、アプルドア・タワーズ

 「誰だい?」と私は尋ねた。
 「ロンドンで最悪の人物」とホームズは、腰を下ろし、火の前に足を伸ばしながら答えた。「名刺の裏 には何かあるかい?」
 私はひっくり返した。
 「六時半に伺います--C.A.M.」私は読み上げた。
 「フム!そろそろ来るな。どうだいワトソン、動物園で蛇の前に立つとぞっとしてしり込みしたくならないか、 あの執念深い目といやらしい、平たい顔を持つ、つるつるとした、すべるように動く、毒のある 生き物を見ると。ま、ミルヴァートンは僕にそんな印象を与えるんだ。僕は仕事で多数の殺人犯と関わっ てきたが、その中の最悪の奴でもこの男ほど嫌悪を感じたことはない。それでも彼との取引を避けて通れ ないんだ--実はね、僕の招待でここへ来るんだ。」
 「しかし何者なんだね?」
 「それだがね、ワトソン。奴はゆすりたかりの帝王なんだ。男にしろ、いや女ならなおさらのこと、秘 密や評判をミルヴァートンに支配されることになったら大変だ。にこやかな顔に冷酷な心で相手がすっか らかんになるまで徹底的に搾り取るんだ。この男はその道の天才だが、何かもっとまともな仕事でも名を 残しただろうにね。やり方はこうだ。財産や地位のある人の名誉にかかわる手紙に大金を支払う用意があ るということを知られるようにしておく。奴はこういう売り物を裏切り者の従者やメイドからばかりでなく、 人を疑うことを知らない婦人の秘密や愛情をつかんだ上流階級の悪党からもしばしば受け取るんだ。奴は取引でけちな ことはしない。たまたま知るところでは、長さ二行の手紙に対して従僕に七百ポンド支払い、その結果あ る貴族が破滅したよ。売りに出されるものはすべてミルヴァートンのもとへ行く、だから彼の名で真っ青 になる人がこの大都市に何百といるんだ。奴の手がどこに降りかかるか誰にもわからない、というのも恐 ろしく金持ちで、恐ろしく狡猾で、手に入れた物をすぐには使わないからだ。奴は賭けに勝つ価値が最大 になる瞬間に出すためにカードを隠しておく。僕は奴をロンドンで最悪の人物と言ったね、そこで君に尋 ねたいんだが、かっとなって仲間をこん棒で殴るごろつきがだね、この男、系統的に時を見て精神に苦痛 を与え、神経を締め付ける、それもすでに膨れ上がった富を増やすためという男と比較になるだろうか?」
 私は友がこれほど激しく興奮して語るのをめったに聞いたことがなかった。
 「しかし必ず、」私は言った、「そんな奴は法の手に落ちるにちがいないだろう?」
 「確かに法律的にはね、しかし実際にはそうじゃない。たとえばある女性にとって、奴を数ヶ月投獄し たところで何の得がある、すぐに彼女自身の破滅が待っているというのに?犠牲者に仕返しする勇気はな いよ。いつか奴が潔白な人をゆすったら、その時は実際僕たちも奴を捕まえるべきだが、奴は魔王のよう に狡猾だからね。いやいや、僕たちはほかの方法を見つけて奴と戦わねばなるまい。」
 「それでなぜ彼がここへ?」
 「名のある依頼人がその悲惨な問題を僕の手に委ねたからだ。レディ・イーヴァ・ブラックウェル、去年 社交界にデビューした注目の美人だ。彼女は二週間の内にドーヴァコート伯爵と結婚することになってい る。この悪魔は軽率な手紙を数通持っている--軽率さ、ワトソン、それだけのことだ--田舎の若い貧 乏な地主にあてて書かれたものだ。縁組を解消するには十分だろう。巨額の金が払われない限り、ミルヴ ァートンは必ず手紙を伯爵に送る。僕は彼に会い、それからできる限り良い条件で折り合うよう委任され ているんだ。」
 その時、下の通りでがたがたと騒々しい音がした。下を見ると堂々たる二頭立ての馬車が見え、灯火が 輝いて見事な栗毛のつややかな尻に揺らめいていた。従僕がドアを開け、小さい、太った、毛足 の長いアストラカンのオーバーを着た男が降りた。一分後、彼は部屋にいた。
 チャールズ・オーガスタス・ミルヴァートンは五十男で、大きな、知性を示す頭を持ち、丸い、太った、 毛のない顔には常に凍った微笑を浮かべ、鋭い灰色の両眼は幅広の金縁のメガネの奥で明るくきらめいてい た。外見にはピクウィク氏式の善意も見えたが、ただ行動と一致しない作り笑い、休みなく見通すような 目の鋭い光がそれを損なっていた。その声も顔つき同様、滑らか、物柔らかで、小さな太った手を差し出 して近寄りながら、最初の訪問で会いそこねて残念だと小声で言った。ホームズは差し伸ばされた手を無 視し、冷たい顔で彼を見た。ミルヴァートンの笑みが広がり、肩をすくめて彼はオーバーを脱ぎ、非常 にゆっくりとそれを折りたたんで椅子の背にかけ、それから席に着いた。
 「こちらの紳士は?」と彼は私の方に手を振って言った。「慎重にした方がよくないですか?間違いはな いですか?」
 「ワトソン博士は僕の友人で協力者です。」
 「結構ですよ、ホームズさん。ただあなたの依頼人のために抗議したので。それはもう非常にデリケートな 問題ですから--」
 「ワトソン博士はもう知っています。」
 「では仕事に移れますね。お話ではあなたはレディ・イーヴァの代理だそうで。私の条件を受け入れる 権限を与えられているのですか?」
 「あなたの条件とは?」
 「七千ポンド。」
 「ほかの選択肢は?」
 「ねえあなた、そのお話をするのはつらいのですが、十四日にその金が払われなければ、間違いなく十 八日の結婚はないでしょうな。」我慢のならない彼の笑みはさらにいっそう満足げになった。
 ホームズはしばらく考えた。
 「僕にはあなたが、」ようやく彼は言った、「事態を過大評価しているように思われます。もちろん僕 はこれらの手紙の内容をよく知っています。依頼人はきっと僕の忠告に従うでしょう。僕は彼女に、一部 始終を未来の夫に話し、その寛大さを頼りにするよう助言するつもりです。」
 ミルヴァートンはくすくす笑った。
 「明らかに伯爵をご存じないですな」と彼は言った。
 ホームズの困惑した顔つきから、はっきりと彼の知っていることが見て取れた。
 「手紙に何の差支えもないでしょう」と彼は言った。
 「活発な--非常に活発なものですよ」ミルヴァートンは答えた。「レディは魅力的な手紙を書かれま すな。しかし請合っておきますが、ドーヴァコート伯爵はその真価を認められないでしょうよ。しかし、 あなたは別のお考えのようですから、そのようにしておきましょうよ。ただの取引のことですから。これ らの手紙が伯爵の手に渡るのが最もあなたの依頼人のためになるとあなたがお考えでしたら、取り戻すた めにそのような大金を支払うなど実際、愚かしいですからね。」彼は立ち上がり、アストラカンのコート をつかんだ。
 ホームズは怒りと屈辱に青ざめていた。
 「ちょっと待って」と彼は言った。「ちょっと待ってください。こういう難しい問題ではスキャンダル を避けるために何としても最善の努力をするべきです。」
 ミルヴァートンは椅子に戻った。
 「そのように考えていただけると確信していました」と彼は満足そうに言った。
 「と同時に、」ホームズは続けた、「レディ・イーヴァは裕福な人ではありません。確かなところ、二 千ポンドで彼女の資産はなくなりますし、あなたの示した金額は彼女の能力を超えています。従って、あ なたは要求を控えめにして、私の示す値で手紙を返すようお願いします。確かに、それがあなたの手にで きる上限です。」
 ミルヴァートンの笑みが広がり、その目はおかしそうにきらめいた。
 「レディの資産についてあなたのおっしゃることは本当だと知っています」と彼は言った。「とはいえ、 一人のレディが結婚するという折こそ、友人や親類が彼女のために少しばかり努力すべき時である ことは認めてくださるでしょう。結婚祝いとして喜ばれるものを決めかねているかもしれません。この小 さな手紙の束がロンドン中の燭台やバター皿すべてよりも嬉しいものにちがいないことをお伝えしましょ うかね。」
 「無理なことです」とホームズは言った。
 「おやおや、残念ですな!」とミルヴァートンは叫んで、分厚い手帳を取り出した。「努力をなさらな いとは淑女の方々も無分別なものだと考えざるをえませんな。これをご覧ください!」彼は封筒に紋章の ついた小さな手紙を掲げた。「これを書かれたのは--まあ、明日の朝まではその名を言うのは公正ではな いかもしれませんな。しかしその頃には彼女のご主人の手にあることでしょう。それもみんな彼女がお持 ちのダイアモンドをガラスに変えれば得られるわずかな額の金を手に入れようとしないからです。実に残 念です!ところで覚えておられるでしょう、マイルズ伯爵令嬢とドーキング大佐の婚約が突然破談になっ たのを?結婚のたった二日前でしたな、モーニング・ポストに小さな記事で完全に解消とあったのは。な ぜか?ほとんど信じられないことですが、千二百ポンドというばかげた金額ですべての問題が解決してい たものをねえ。哀れなことじゃないですか?そしてこちらでもあなた、分別ある方が、依頼人の未来や名 誉が危ういという時に金額に難色を示されるとは。びっくりするじゃないですか、ホームズさん。」
 「僕の言うことは本当です」とホームズは答えた。「そのような金はできません。間違いなく私の申し 出るかなりの額を取っておいた方がいいでしょう、この女性の生涯を破滅させたところで少しもあなた の得になりますまい?」
 「そこを間違えていらっしゃいますよ、ホームズさん。一つ露顕すると間接的に大いに利益をもたら すことになります。私は八件、あるいは十件も同様の事例を暖めていますから。私が見せしめとしてレデ ィ・イーヴァに厳しくしたことがその人たちに伝われば、今度はその人たちもずっと物分りがよくなって いるはずです。言いたいことはお分かりいただけたようですな?」
 ホームズは椅子から飛び上がった。
 「彼の後ろに回れ、ワトソン!外へ出すな!さあ、その手帳の中身を見せてもらいましょう。」
 ミルヴァートンはねずみのようにすばやく部屋の端にするりと寄り、壁を背に立った。
 「ホームズさん、ホームズさん」と彼は言って、コートの胸を折り返し、内ポケットから突き出ている 大きなリボルバーの台尻を見せた。「何か独創的なことをしてくださると期待していたんですがね。こう いうことをする人はよくありますが、それで役に立ったためしがありますかねえ?私は完全に武装してい ますし、武器を使うこともまったくいといません。法律が私の見方であることはわかっています から。それに、私が手帳にはさんで手紙をここに持ってくるだろうというあなたの推測はまったく間違っ ていますよ。私がそんなばかなことをするわけがありません。それではと、皆さん、今夜一つ、二つちょ っと人に会う用がありますし、ハムステッドまでは長い道のりですので。」彼は前に出てコートを取り上 げ、リボルバーに手をかけ、ドアへと向かった。私は椅子を手に取ったが、ホームズが首を振ったのでそ れを元通り下に置いた。お辞儀、笑み、きらめきを残してミルヴァートンは部屋を出、しばらくして馬車 のドアがバタンとしまる音、走り去る車輪のがたがたいう音が聞こえた。
 ホームズは火のそばに座って身動きもせず、手をズボンのポケットに深く突っ込み、あごを胸にうずめ、 真っ赤な残り火をじっと見つめていた。彼は三十分の間無言でじっとしていた。それから、すでに決断を 下したことを身振りに表してぱっと立ち上がり、寝室に入った。しばらくして、あごにヤギひげのある若いし ゃれ者の職人がランプで陶のパイプに火をつけてから肩で風を切って通りへと降りていった。「少しした ら戻るよ、ワトソン」と彼は言って、夜の闇に消えた。私にもホームズがチャールズ・オーガスタス・ミ ルヴァートンに対する戦闘を開始したことはわかったが、その戦闘が奇妙な形を取る運命になっていると は夢にも思わなかった。
 数日間ホームズは時を選ばずこの姿で出たり入ったりしていたが、彼がハムステッドで時を過ごしてい ること、それが徒労ではないことを一度聞いたほかには、私は彼のしていることを何も知らなかった。し かしついに、風がうなって窓をガタガタ鳴らす大荒れの嵐の晩、彼は最後の遠征から帰り、変装を解い てしまうと火の前に座り、例によって声を立てずに腹の中で思う存分笑った。
 「君は僕が結婚したがっているとは思わないだろうね?」
 「ああ、まさかね!」
 「僕が婚約したという話には興味あるだろうね。」
 「おい君!おめで--」
 「ミルヴァートンのところのメイドだ。」
 「おやおや、ホームズ!」
 「情報が欲しかったんだよ、ワトソン。」
 「そりゃあやり過ぎたんじゃないか?」
 「どうしても避けて通れなかったんだ。僕は成長中の店に勤める配管工で、名はエスコットだ。毎晩彼 女と散歩に出かけ、おしゃべりをしたよ。まったく、そのおしゃべりときたら!しかし欲しいものはすべ てつかんだよ。ミルヴァートンのうちのことは掌を指すようにわかってる。」
 「だがその娘は、ホームズ?」
 彼は肩をすくめた。
 「それは仕方ないさ、ワトソン君。台上でこんな賭けが行われている時だよ、取っときの切り札を出さ なくてはなるまい。しかしね、嬉しいことに僕には憎らしい競争相手があってね、間違いなく僕が後ろを向いたとた んに僕に取って代わるだろうよ。ああ、なんてすばらしい夜だろう!」
 「こんな天気が好きなのか?」
 「目的にはぴったりだ。ワトソン、僕は今夜ミルヴァートンの家に押し入るつもりなんだ。」
 私ははっと息を呑み、固い決意の調子でゆっくりと発せられたその言葉に肌に寒気が走った。夜中に光 る稲妻が一瞬のうちに荒涼とした景色の隅々まであらわにするように、私にはそのような行為のありとあ らゆる結末が一目で見えるような気がした--発覚、捕縛、名誉ある経歴の終わりを告げる取り返しのつ かない失敗と恥辱、憎むべきミルヴァートンの思いのままとなる我が友。
 「お願いだからホームズ、何をしているか考えてくれ」と私は叫んだ。
 「ねえ君、僕はよくよく考えたんだ。僕は決して早計に行動するわけじゃないし、ほかに可能性がある ならこんなに精力のいる、それに実際、こんなに危険な方針は取ったりしない。問題を純粋に、公平に見 てみようよ。この行為が法的に犯罪といえども道徳的には正当と考えられることは君も認めてくれるだろ う。彼の家に押し入ることは彼の手帳を力ずくで取ることと同じだ--それは君も進んで手伝ってくれたじゃな いか。」
 私はそれについて考えを巡らせた。
 「そうだ、」私は言った、「我々の目的が、不法な用途に使われるもの以外何物も取らないものである 限り、道徳的には正当化される。」
 「その通り。道徳的に正当化されるからには、自らの危険に関する問題を考慮しさえすればいい。女性 が必死に助けを求めている時に紳士たるもの、まさかそんなことに重きを置くべきではないだろう?」
 「非常に不本意な立場になるだろうね。」
 「まあ、それも危険の一部だ。あの手紙を取り戻す方法はほかには考えられないんだ。不運なレディに 金はないし、秘密を打ち明けられる家族もない。猶予期間は明日が最後、今夜僕たちが手紙を手にできな ければ、あの悪党が言葉通りにして彼女に破滅をもたらすだろう。従って僕は依頼人を見捨てて破滅するに まかせるか、この最後の切り札を出すか、しなければならない。これは僕たちの間の、ワトソン、あのミ ルヴァートンって奴と僕との公正な勝負なんだ。最初の応酬は、君も見たように彼が勝ったが、僕の自尊 心と僕の面目が最後まで闘うことを望んでいるんだ。」
 「まあ気にいらないがそれよりなさそうだね」と私は言った。「いつ出かけよう?」
 「君は来ないんだ。」
 「では君も行かないんだな」と私は言った。「名誉にかけて約束するよ--生まれてこのかた一度も破 ったことはないんだ--君と冒険を共にさせてくれないなら、馬車でまっすぐに警察へ行き、君のことを ばらすよ。」
 「君は助けにならないんだ。」
 「どうしてそれがわかる?何が起こるかわからないだろう?いずれにせよ、私の決心はついたんだ。君 以外の人間にだって自尊心もあれば面目だってあるさ。」
 ホームズは困っているように見えたが、晴れ晴れした顔になり、ポンと私の肩を叩いた。
 「まあいい、まあいい、君、そうしようじゃないか。長年この部屋を共有してきたんだし、最後に同じ 監房を共有するのもおもしろかろう。ねえワトソン、君には打ち明けてもかまわないが、僕だったらきわ めて優れた犯罪者になったろうといつも考えていたんだ。これはその方面での生涯またとない好機だ。ほ ら見たまえ!」彼は引き出しからこぎれいな、小さな皮のケースを取り出し、それを開けてぴかぴかの道 具を多数広げて見せた。「これは一級の、最新式押し入り道具一式だ、ニッケルめっきのかなてこ、先端 がダイアモンドのガラス切り、万能鍵、そして文明の発達の要求する現代の改良品を取り揃えたよ。それにこれは 暗室ランタンだ。すべて整っている。音のしない靴は持っているかい?」
 「ゴム底のテニスシューズがあるよ。」
 「結構!それと覆面は?」
 「黒の絹から一組作れるさ。」
 「君には生まれつきこの種のことに豊かな才能があるね。よろしい、ぜひ覆面を作ってくれ。出発前に 簡単な夜食を取ろう。今九時半だ。十一時にチャーチ通りに乗りつける。そこからアプルドア・タワーズ までは歩いて十五分だ。真夜中前には仕事をしている。ミルヴァートンはぐっすり眠るし、きっかり十時 半には引っ込む。運がよければ二時までにレディ・イーヴァの手紙をポケットにここへ戻れる。」
 ホームズと私は家へ帰る途中の芝居好き二人に見えるように盛装した。オックスフォード街で私たちは 辻馬車を拾い、ハムステッドのある番地へ乗りつけた。ここで私たちは馬車の支払いを済ませ、ひどく寒 く、風が私たちを吹き抜けるような気がしたので、大きなコートのボタンをかけ、ヒースの縁に沿って歩 いた。
 「これは慎重な扱いを要する事柄だ」とホームズは言った。「その文書は奴の書斎の金庫に入っていて、 書斎は奴の寝室の控え室だ。他方、ああいう太った小男の金持ちはみんなそうだが、奴もよく寝すぎる方 だ。アガサ--それが僕のフィアンセさ--の言うには、召使の間ではご主人を起こすのは不可能だと言っ て笑ってるそうだ。奴には秘書がいて、もうけることに夢中で一日中書斎から決して動かない。そういう わけで僕たちは夜行くんだ。それから庭には大きな犬が歩き回っている。この二晩、遅くにアガサと会っ て、僕が邪魔されずに出入りできるように彼女がそのけだものを閉じ込めておいてくれるんだ。この家だ よ、庭の中の大きなやつだ。門を通って--今度は月桂樹の間を右だ。ここで覆面をした方がいいかな。 ほら、どの窓にもちらとも明かりは見えない、すべてが非常にうまくいっている。」
 黒い絹で顔を覆い、ロンドンで最も凶暴な二人組と化し、私たちは静かな暗い家へ忍び寄った。タイル 張りのベランダのようなものがその側面に広がり、いくつかの窓と二つのドアが並んでいた。
 「あれが奴の寝室だ」とホームズはささやいた。このドアがまっすぐに書斎に通じている。一番都合が いいんだが、鍵がかかっているばかりか掛け金もさしてあって、入るのにすごく音を立ててしまうことに なる。こっちへ回ろう。客間に通じる温室があるんだ。」
 そこは鍵がかかっていたが、ガラスを円形に切り取り、内側から鍵を回した。一瞬の後、私たちの背後 に彼がドアを閉め、私たちは法的に見て重罪犯になっていた。温室のよどんだ暖かい空気、外来植物の強 烈な、むせ返るような香りが私たちののどを襲った。闇の中、彼は私の手をつかんですばやく導き、顔に ぶつかる潅木の生えた土盛りを越えた。ホームズは暗闇でものを見る驚くべき能力を周到に養っていた。 片手で私の手をつかんだまま彼がドアを開け、私は少し前に葉巻が吸われていた大きな部屋に入ったこと にぼんやりと気づいた。彼は家具の間を手探りで進み、もう一つドアを開け、背後に閉めた。手をさし伸 ばした私は壁につるされたいくつかのコートに触れ、廊下にいることがわかった。私たちはそれに沿って 進み、ホームズが非常に静かに右側のドアを開けた。何かが私たちに向かって飛び出してきて私の心臓は 口まで躍り上がったが、それが猫だとわかった時には笑いたくなった。今度の部屋には炉火が燃えていて、 また空気は煙草の煙でにごっていた。ホームズはそっと入り、私が続くのを待ち、非常に静かにドアを閉 めた。私たちはミルヴァートンの書斎にいて、向こう側の仕切りカーテンが彼の寝室への入り口を示して いた。
 火は十分で、部屋は照らし出されていた。ドアの近くに電気のスイッチがかすかに見えたが、つけても 安全だとしてもその必要はなかった。暖炉の片側には私たちが外から見た張り出し窓を覆う厚いカーテン があった。もう一方の側にはベランダに通じるドアがあった。机は中央に、ぴかぴかの赤い革張りの回転 椅子とともにあった。向かい側には本棚があり、いちばん上には大理石のアテナの胸像がのっていた。本 棚と壁の間の隅には背の高い緑色の金庫が置かれ、正面の磨き上げた真ちゅうのノブが火明かりを照り返し ていた。ホームズはそっと横切り、それを眺めた。それから彼は寝室のドアへ忍び寄り、首を傾けて立ち、 懸命に耳をすました。中から何も音は聞こえなかった。その間、外へのドアを通る退路を確保した方が賢 明だいう気がした私はそれを調べてみた。驚いたことに鍵も掛け金もかかっていなかった。私がホームズの腕に 触れ、彼は覆面をした顔をその方へ向けた。彼がびくっとするのが見え、明らかに彼も私同様驚いていた。
 「気に入らないね」と彼は、私の耳に唇をつけるようにしてささやいた。「どうも腑に落ちない。とに かく一刻の猶予もならない。」
 「私にできることは?」
 「ああ、ドアのそばに立ってくれ。誰か来るのが聞こえたら、内側から掛け金で締め、僕たちは来たと ころから立ち去ることができる。向こうから来たら、仕事が終わっていればそのドアから抜けられるし、 まだならばこの窓のカーテンの後ろに隠れる。わかったかい?」
 私はうなずき、ドアのそばに立った。最初の恐怖感は消え、今はゾクゾクして、かって法への挑戦者で はなく、その守り手であった時よりも強い熱狂を味わっていた。私たちの使命の高潔な目的、それが非利己的、 騎士道的であるという意識、敵が悪人であること、すべてがこの冒険の正々堂々たる興趣を増した。罪を 意識するどころか、私は危険に強い喜びを感じていた。ホームズが器具のケースを広げ、難しい手術を行 う外科医のような冷静で科学的な的確さで道具を選ぶのを見守りながら、私は感嘆するばかりだった。私 は金庫を開けることが彼の何よりの趣味であることを知っていたし、立ちはだかるこの緑と金の怪物、 多くの美しい貴婦人の名声を胃袋に詰め込んでいるドラゴンが彼に喜びを与えていることもわかった。燕 尾服の袖口を折り返し--コートはすでに椅子の上に置いていた--ホームズは錐を二つ、かなてこ、合 鍵をいくつか並べた。私は中央の戸口に立ち、非常時に備えてほかのドアにも目を配っていたが、とはい え、実のところ、邪魔が入ったら何をすべきかについて、私の考えはいささかあいまいだった。三十分間、 ホームズは気力を集中して作業した。道具を一つ置いては一つ取り、それぞれを熟練の機械工のように力 強く緻密に扱っていた。ついにカチッと音がして幅広の緑色のドアがスーッと開き、その中に縛られ、封 をされ、書き込みをされた多数の書類の束が垣間見えた。ホームズは一つ選び出したが、ちらちらする炉 火では読みにくく、小さな暗室ランタンを取り出した。ミルヴァートンが隣室にいるのに電灯をつけるの は危険すぎるからだ。突然彼は動きを止め、じっと耳をすまし、それからすぐさま金庫のドアを閉め、コ ートを取り、道具をポケットに詰め込むと、私に従うように合図して窓のカーテンの陰に駆け込んだ。
 そこで彼に合流した時、やっと私は彼の鋭敏な感覚に危険を知らせたものを聞き取った。家の中のどこ かで物音がしていた。遠くでドアがバタンと閉まった。それから何かわからない不明瞭なつぶやきに続い て整然とした足どりの重い音が急速に近づいてきた。足音は部屋の外の廊下だった。それは戸口で止まっ た。ドアが開いた。鋭いパチッという音とともに電灯がつけられた。ドアがもう一度閉まり、強い葉巻の きつい臭いが私たちの鼻孔に運ばれてきた。それから足音は私たちから数ヤードのところを行ったり来た り、行ったり来たりした。最後に椅子のきしむ音がして、足音はやんだ。それから鍵が錠の中でカチッと いい、紙のかさかさする音が聞こえた。
 ここまで私は外を見る勇気がなかったが、ここで目の前のカーテンの分け目をそっと開け、覗き見た。 ホームズの肩が私のを押してくるので彼が一緒に観察していることがわかった。私たちの真正面、ほとん ど届くところにミルヴァートンの幅広の丸い背中があった。明らかに私たちは彼の行動について完全に見 込み違いをしていたわけで、彼は寝室にいたのではなく、起きて喫煙室かビリヤード室か何かにいたのだ。 それは建物の向こう側の翼にあって窓は私たちには見えなかったのだ。禿げたところが輝いている大きな 白髪交じりの頭が私たちの視野の前景にあった。彼は赤い革の椅子に深々ともたれ、足を広げ、長く、黒 い葉巻を口から斜めに突き出していた。黒いビロードの襟の、軍人風の赤紫のスモーキングジャケットを 着けていた。手には長い、法的文書を持ってつまらなそうに読みながら、その合間に煙草の煙の輪を吹き 出していた。その落ち着いた態度、くつろいだ姿勢を見ると、すぐに出て行く見込みはなかった。
 ホームズがそっと私の手をつかみ、元気付けるように揺すぶるのを感じた。状況は彼が支配しているし、 心配していないとでも言うかのようだった。彼に見えているかどうかわからなかったが、残念なことに私 の位置から見ると明らかに金庫のドアが完全に閉まっていないし、ミルヴァートンがいつ何時それに気づ くかもしれなかった。心の中で私は、もしも、彼の視線のこわばりからそれが彼の目に留まったと確信 したら、直ちに飛び出し、私の大きなコートを彼の頭にかぶせ、彼を押さえつけ、後はホームズにまかせよ うと決意していた。しかしミルヴァートンは一度も視線を上げなかった。彼は手にした書類に希薄な関心 を持って次々にページをめくって法律家の議論をたどっていた。とにかく書類と葉巻を終えたら寝室に行 くだろうと私は思ったが、それらが終わりに達する前に驚くべきことが新たに起こり、私たちは考えをま ったく別の方針に変えた。
 私は何度かミルヴァートンが時計を見たのに気づいていたし、一度、彼がいらいらしたしぐさで立ち上 がってまた座りなおしたこともあった。しかしそのような奇妙な時間に彼に約束があるという考えは、外 のベランダからかすかな音が耳に達するまで私には思い浮かばなかった。ミルヴァートンは書類を中断し、 椅子の上で身をこわばらせた。再び音がして、それからそっとドアを叩く音が聞こえた。ミルヴァートン が立ち上がってドアを開けた。
 「やれやれ、」彼はそっけなく言った、「三十分近く遅刻だ。」
 してみるとこれが鍵のかかっていないドア、ミルヴァートンの夜の寝ずの番の理由だったのだ。女性の 服の静かな衣擦れの音がした。ミルヴァートンの顔が私たちの方に向けられたので、私はカーテンの隙間 を閉じたが、それからもう一度それを、非常に注意しながら思い切って開いた。彼は再び席に着き、葉巻 は依然として不作法な角度で口の端から突き出ていた。彼の前に、まばゆい電灯の光を浴びて長身の、ほ っそりした女性が、ベールで顔を覆い、マントをあごの周りに引き寄せた人目を忍ぶ姿で立っていた。そ の呼吸は速くなり、しなやかな姿は体中強い感情に震えていた。
 「さてと、」ミルヴァートンが言った、「あんたのせいでゆっくり休ませてもらえなかったんだか ら、ねえ。その価値があったとことを示してもらいたいですな。ほかの時間に来られなかったのかなあ--ええ?」
 女性は首を振った。
 「ま、来られないなら来られないんだな。伯爵夫人がご主人としてつらく当たるなら、今復讐する機会 が来たというわけだ。おやおや、何を震えているのかね?そうそう。気を落ち着けて。さあ、仕事に取り かかろうか。」彼は机の引き出しから手帳を取り出した。「ダルベール伯爵夫人の名誉にかかわる手紙を 五通持ってるということだね。そしてそれを売りたいと。私はそれを買いたい。ここまではよしと。後は値段 を決めるだけだ。もちろん、手紙は詳しく調べさせてもらいたい。もし本当によい標本なら--なんとま あ、あなたですか?」
 女性は無言でベールを上げ、マントをあごから下げた。ミルヴァートンと向かい合ったのは浅黒く、美 しい、はっきりした顔だった--湾曲した鼻、太く、濃い眉とその陰の厳しい、輝く目、まっすぐな薄い 唇の口--その顔に危険な笑みが広がっていた。
 「私です、」彼女は言った、「お前が人生を破滅させた女よ。」
 ミルヴァートンは笑ったが、その声には恐怖の響きがあった。「あなたがあまり強情でしたから」と彼 は言った。「どうして私があのような非常手段を取らざるをえないようにされたのですか?ほんとに私とし ては虫も殺さぬ性格なんですが、誰にでも仕事がありますし、私はどうすればよかったんですか?私は十 分あなたの資力の範囲で価格をつけたんです。あなたは払おうとなさらなかった。」
 「それでお前は夫に手紙を送った、そしてあの人は--誰よりも気高い人、私などその靴の紐を結ぶ 資格もない人--あの人はその雄々しい心を痛め、死にました。覚えているでしょう、あの最後の夜、私 はあのドアから来て、お前の慈悲を請い願った、お前は私を嘲笑した。今もそうしようとしているようね、 でもお前は臆病者だからどうしても唇が引きつってしまうようですね。そうよ、まさかまたここで私 に会うとは思わなかったのね、でも私はあの晩、どうすればお前と差し向かいで、二人きりで会えるかわかっ たのよ。さあ、チャールズ・ミルヴァートン、何か言うことがある?」
 「私を脅かせると思わないことです」と彼は立ち上がりながら言った。「私は声を上げさえすればいい、 召使を呼んであなたを捕まえさせられるんです。だが私はあなたの当然のお怒りをしんしゃくしましょう。 すぐに来たところから部屋を出て行きなさい、もう何も申しますまい。」
 女性は手を胸元に入れ、相変わらず敵意ある微笑を薄い唇に浮かべて立っていた。
 「お前はもう、私を破滅させたように誰かの人生を破滅させることはないでしょう。私を苦しめたよう に誰かの心を苦しめることはもうないでしょう。私は世の中からこの有害な生き物を除去するのです。こ れでどうです、この卑劣漢--これでもか!--これでもか!--これでもか!--これでもか!」
 彼女は取り出した小さなリボルバーを光らせ、ミルヴァートンのシャツの胸から二フィートの銃口から 次々と彼の体に向けて発射した。彼は後ずさりし、それから激しく咳き込み、書類のあたりをかきむしり ながら卓に突っ伏した。それからよろよろと立ち上がり、もう一発食らい、床に転がった。「やってくれ たな」と彼は叫び、じっと横たわっていた。女性は彼をまじまじと見つめ、仰向けの顔をかかとで踏みつ けた。彼女は再び見たが、音も動きもなかった。不意に大きな衣擦れの音が聞こえ、夜風が暖かい部屋に吹 き込み、復讐者は立ち去った。
 私たちが邪魔に入ったところでこの男を悲運から救うことはできなかったけれども、私は、女性が後ずさりす るミルヴァートンの体に次々と銃弾を浴びせるのを見て飛び出しかけた時、ホームズの冷たい手が私の手 首を強く握るのを感じた。私はその断固として引き止める握り方が主張することをすべて理解した--私 たちには関係ないこと、正義が悪党に下されたこと、私たちには自分の任務、目的があり、それを見失っ てはならないことだ。しかし女性が部屋から走り出るやいなや、ホームズはすばやく、足音を立てずにほ かの戸口へ行った。彼は錠に鍵をかけた。同時に私たちは家の中の人声、急ぎ足で来る音を聞いた。リボ ルバーの発射が家の者を起こしたのだ。完全に冷静を保ってホームズは金庫に忍び寄り、手紙の束で両腕 をいっぱいにして、それらをすべて火の中に投げ込んだ。彼は何度もそうやって、ついに金庫は空になっ た。誰かがノブを回し、ドアを外から叩いた。ホームズはすばやく見回した。ミルヴァートンの死の使者 となった手紙が卓の上で彼の血にまみれていた。ホームズはそれを炎を上げる書類の中に放り込んだ。そ れから彼は外へのドアから鍵を抜き取り、私の後から通り、外から鍵をかけた。「こっちだ、ワトソン、」 彼は言った、「こっちの方は庭の塀をよじ登れるんだ。」
 信じられないほど早く警報は伝わった。振り返ると、大きな家全体が明かりに輝いていた。正面玄関は 開き、いくつか人影が道を駆けていた。庭中人がいっぱいで、私たちがベランダから姿を現すと一人の男 が大声を上げ、懸命に私たちの後を追った。庭を完璧に知っているらしいホームズは小さな木々の植え込 みの間を縫うようにすばやく通り抜け、私がそのすぐ後に続き、追っ手の先頭は私たちの後ろであえいで いた。私たちの進路をふさいでいたのは六フィートの塀だったが、彼はてっぺんに飛びつき、越えた。私 が同じようにした時、後ろの男の手が私の足首をつかむのを感じたが、私は蹴って自由になり、草で覆わ れた笠石を這い越えた。私は何度か藪の中でつんのめったが、すぐにホームズが立たせ、私たちは一緒に 大きく広がるハムステッド・ヒースを横切り、走って逃げた。二マイルも走ったろうか、ようやくホームズ が立ち止まり、じっと耳をすました。私たちの後ろはすべてが完全に静まり返っていた。私たちは追っ手 を振り切り、安全だった。

 私が物語ってきた驚くべき経験の翌日、私たちが朝食を済ませ、朝の一服を吹かしている時、非常に謹 厳で有能なスコットランドヤードのレストレード氏が私たちのつつましい居間に案内されてきた。
 「おはようございます、ホームズさん、」彼は言った、「おはようございます。失礼ですが、今はご多 忙でしょうね?」
 「君の話を聞けないほど忙しくはないよ。」
 「特に手がけていることがないようでしたら、昨日の夜、ハムステッドで起きたばかりのきわめて驚く べき事件で私たちを助けていただけないかと思いましてね。」
 「ほう!」とホームズは言った。「何だね、それは?」
 「殺人--きわめて劇的で驚くべき殺人です。あなたがこういう事件を大変お好みなのは知ってますし、 アプルドア・タワーズまで足をお運びになって忠告をいただけるとありがたいんですがなあ。平凡な犯罪 じゃありません。我々もこのミルヴァートン氏にはかねて目をつけていましてね、ここだけの話、いささ か悪党でして。恐喝を目的とする文書を保有していることで知られていました。その文書類が殺人者によっ てすべて燃やされましてね。貴重品は一つも持ち去られていません。なにしろ犯人たちは地位の高い男で、 社会にさらされるのを防ぐことだけが唯一の目的だったのですから。」
 「犯人たち?」とホームズが言った。「複数かい?」
 「ええ、奴らは二人いました。もう少しで現行犯で捕まるところだったんですが。足跡もありますし、 人相書きもありますし、十中八九突き止めますよ。最初の奴はちと機敏すぎたですが、二番目は庭師の見 習いに捕まって何とかもがいて逃げていきました。そいつは中背、がっしりした体格の男で--角張った あご、太い首、口ひげ、目は隠してました。」
 「ずいぶんあいまいだね」とホームズは言った。「なんだ、それならワトソンの人相書きだ!」
 「そうですね」と警部はおもしろそうに言った。「ワトソンの人相書きと言ってもいい。」
 「まあ、気の毒だが力にはなれないよ、レストレード」とホームズは言った。「実はね、僕はこのミル ヴァートンって奴を知っていて、ロンドンでも最も危険な連中の一人だと考えているし、また法の手の届 かない、従ってある程度まで私的な復讐が正当化されるある種の犯罪があると思っているんだ。いや、議 論は無駄だ。もう決めたんだ。僕は被害者よりもむしろ犯人たちに同情するね、だからこの事件を扱う気 はない。」
 ホームズは私たちが目撃した惨劇について一言も語らなかったが、その朝ずっと彼の様子から物思いにふけっている らしいことに私は気づいた。うつろな目、ぼんやりした態度から、何かを思い出そうとしているという 印象を受けた。昼食の最中だった、突然彼がぱっと立ち上がった。「あ、ワトソン、わかったよ!」と彼は叫んだ。 「帽子を取って!一緒に来るんだ!」彼は全速力でベーカー街を下り、それからオックスフォード街に沿 って急ぎ、リージェントサーカスの近くに着いた。そのあたりの左手に、時の名士たち、美人たちの写真 でいっぱいのショーウィンドーがあった。ホームズの目はそれらの一つにじっと向けられており、その視 線をたどって私は女王のような堂々たる貴婦人が宮中服を着て、その高貴な頭に見事なダイアモンドのテ ィアラを載せている写真を見た。私はあの優美な曲線を描く鼻を、特徴的な眉を、まっすぐな口を、その 下の力強い小さなあごを見た。それから私は彼女がその妻であった偉大な貴族であり政治家である人の由 緒ある称号を読んで息を呑んだ。私の目がホームズのそれと会い、彼が唇に指を当て、私たちはウィンド ーに背を向けた。

六つのナポレオン(The Adventure of the Six Napoleons)

 

スコットランドヤードのレストレード氏が夕方にちょっと私たちのところをのぞくのはあまり珍しい ことではなく、その訪問をホームズも歓迎していた。それによって警察本部で行われていることすべてに 通じていられるからである。レストレードのもたらす情報の見返りに、ホームズはいつも喜んで刑事の取 り掛かっている事件の詳細に注意深く耳を傾け、時には、積極的に干渉することなく、彼自身の広い知識 や経験から引き出したヒントや示唆を与えることもできた。
 この日の夕方、レストレードは天気や新聞のことを話していた。それから彼は黙り込み、物思いに沈ん で葉巻を吹かし続けていた。ホームズは鋭い目で彼を見た。
 「何か変わったことがあるのかな?」と彼は尋ねた。
 「ああ、いえ、ホームズさん--それほど格別なことは。」
 「ではそれを話してくれたまえ。」
 レストレードは笑った。
 「やれやれ、ホームズさん、気がかりなことがあるのを否定しても何にもなりませんね。それでもこん なばかげた事件であなたを煩わすのはためらわれますなあ。他方、ささいなこととはいえ、確かに風変わ りですし、あなたが普通でないことなら何でもお好きだということを知ってますしね。しかし、私の考え ではこれは我々の、というよりワトソン博士のご専門ですな。」
 「病気かい?」
 「狂気ですね、とにかく。それも風変わりな狂気です。今の時代に生きている者がナポレオンを憎むあ まり、その像と見れば壊してしまうなんて考えられますか?」
 ホームズは深々と椅子にかけた。
 「僕が手を出すことじゃないね」と彼は言った。
 「その通りです。私もそう言ってるんです。とは言っても、自分の物でない像を壊すために夜盗を働く となると、それはドクターを離れて警官のものになります。」
 ホームズは再び座り直した。
 「夜盗!それはいくらかおもしろい。詳細を聞かせてもらおうか。」
 レストレードは職務上の手帳を取り出し、ページを繰って記憶を新たにした。
 「第一の事件は四日前に報告されました」と彼は言った。「ケニントン街で絵画と彫像を扱っているモ ース・ハドソンの店でした。店員がちょっとの間店の前を離れた時、ガチャンという音が聞こえ、急いで 戻ると、カウンターの上にいくつかの美術品と一緒に立っていた石膏でできたナポレオンの胸像が粉々の 破片になっていたのです。店員は道路へ飛び出しましたが、数人の通行人が店から走り出る男に気がつい たと断言したとはいえ、彼には誰も見えなかったしそのならず者を見分ける方法も見つかりませんでし た。まあ時々起きる非常識な乱暴行為だろうと思われ、パトロール中の巡査にそのように報告されました。 その石膏像はせいぜい数シリングのものですし、事件全体が幼稚すぎて特別に調査するには当たらないよ うに見えました。
 しかし第二の事件はより重大で、しかもより奇妙でした。昨日の夜起きたばかりです。
 ケニントン街のモース・ハドソンの店から数百ヤードのところに、テムズの南側で最も繁盛している開 業医の一人、有名なバーニコット博士が住んでいます。住居と主要な診察室はケニントン街ですが、二 マイル離れたロワー・ブリクストン街に分院と医務室があります。このバーニコット博士が熱狂的なナポ レオンの崇拝者で、彼の家はフランス皇帝に関する書物、絵画、記念品でいっぱいです。だいぶ前に彼は モース・ハドソンからフランスの彫刻家、ドゥヴィヌによる有名なナポレオンの頭部の石膏像の複製を二 つ買いました。このうち一つを彼はケニントン街の家の玄関に、もう一つをロワー・ブリクストン街 の医院のマントルピースの上に置きました。さて、今朝バーニコット博士が降りてきますと、驚いたこと に夜の間に家に押し入られていまして、ところが玄関の石膏の頭像のほか何も取られていないことがわかりました。 それは持ち出されて庭の塀に激しく打ちつけられ、その下のあたりにばらばらになった破片が発見されました。」
 ホームズは手をこすり合わせた。
 「これは確かに非常に奇抜だ。」
 「あなたが喜ぶと思いましたよ。ですがまだ終わりじゃないんです。バーニコット博士は十二時に分院 に行くことになっていましたが、そこに着いて、夜中に窓が開けられ、部屋中に二つ目の胸像の破 片が散らばっているのを見つけた時の彼の驚きは想像がつきましょう。それはあった場所で粉みじんに砕 かれていました。どちらの場合もこんな悪さをした犯罪者なり精神異常者なりに関する手がかりを与え る痕跡はまったくありませんでした。さあ、ホームズさん、事実はこれだけです。」
 「怪奇と言えないまでも奇妙だね」とホームズは言った。「ちょっと訊きたいんだがバーニコット博士 の部屋の二つの砕かれた胸像はモース・ハドソンの店で壊されたものとまったく同じ複製かね?」
 「同じ型から取ったものです。」
 「そのような事実は壊した男がナポレオン全般に対する憎しみに動かされているという仮説には不利に ならざるをえないね。偉大な皇帝の彫像がロンドンに何百とあるにちがいないことを考えると、無差別の 偶像破壊者が手始めとした三例がたまたま同じ胸像だったなどという偶然の一致はとても信じられないな。」
 「ですなあ、私もそのように考えました」とレストレードは言った。「他方、 ロンドンのあのあたりで胸像を提供しているといえばこのモース・ハドソンなのですが、だいぶ前から店に置いていたのはこの三つだけ だったのです。そうなると、おっしゃるようにロンドンに彫像が何百とあるにしても、あの地区にはこの 三つだけだったということは大いにありえます。従って地元の狂信者がそれらから取り掛かったのでしょ う。どう思います、ワトソン博士?」
 「偏執狂はどこまで行くかわからないからね」と私は答えた。「現代フランスの心理学者が固定観念と 呼ぶ状態があってね、性格上ささいなものかもしれないし、また同時にほかのあらゆる点で完全に正常な んだ。ナポレオンのことを本で読みすぎたか、あるいは戦争で一族の被った傷を代々受け継いでいる男な ら、そういう固定観念を形成することも考えられるし、その影響でどんな途方もない乱暴もしかねないな。」
 「それではだめだよ、ワトソン君、」ホームズは首を振り振り言った、「どんなに固定観念が強くても 君の興味深い偏執狂は胸像がどこにあるのか見つけ出せないだろうよ。」
 「では君はどう説明するんだ?」
 「やってみようと思わないよ。僕はただこの紳士の風変わりな行動にはある種の法則があるということ だけ言っておきたいな。たとえば、バーニコット博士の玄関だ、そこでは音が家族の目を覚まさせるかも しれない、胸像は壊す前に外に持ち出された、しかるに分院だ、そこではびっくりさせる危険は少ない、 それであった場所で打ち砕かれた。事件はばかばかしいくらいつまらないものに見えるけれども、僕はど んなものでもつまらないとはあえて言わないね、よく考えてみると、僕の扱ったきわめて重要な事件にも 初めはちっとも有望じゃないものがあったからね。覚えてるだろう、ワトソン、アバネティ家の恐ろしい 事件も初めは暑い日にバターの中に沈んだパセリの深さが僕の注意を引いたんじゃないか。だからね、レ ストレード、君の三つの壊れた胸像に僕はとてもじゃないが笑っていられないし、この一連の奇妙な出来 事に何か新たな進展があったら聞かせてもらえると非常にありがたいんだがね。」
 我が友が求めた進展はことのほか早く、想像をはるかに超えた悲劇として訪れた。翌朝私がまだ寝室で 身支度していると、ドアを叩く音がして電報を手にホームズが入ってきた。
 彼はそれを音読した。
 「すぐ来い、ケンジントン、ピット街131。レストレード。」
 「何だね、ところで?」私が尋ねた。
 「わからないね--何にしろ。だが彫像の話の続編じゃないかと思うんだ。だとすると友だちの像の 破壊屋はロンドンの別の方角で活動を開始したわけだ。テーブルにコーヒーがあるからね、ワトソン、僕 は玄関で馬車だ。」
 三十分のうちに到着したピット街は、ロンドンでも最も活発な往来の一つのすぐ裏にある閑静な横町だ った。131番は一様に平たい、まずまずの、まったくロマンチックなところのない家並の一つだった。近 づいた私たちはその家の前の柵のところに物見高い群集が並んでいるのを見つけた。ホームズは口笛を吹 いた。
 「おやおや、少なくとも殺人未遂だな。そうでもなけりゃロンドンの配達人は立ち止まるまい。あの男 の猫背から伸ばした首を見るとこれは暴力行為だ。どうしたんだろうこれは、ワトソン。いちばん上の段 は洗い流されていてほかは乾いている。まあいい、まあいい、レストレードが正面の窓にいる、すぐにそ のことはわかるだろう。」
 公の探偵は非常にまじめな顔で私たちを迎え、居間に案内した。よれよれのフランネルの部屋着を着け、すっかり 動揺してぼさぼさ頭の初老の男が行ったり来たり歩き回っていた。この人はこの家の持ち主で、セントラ ル・プレス・シンジケートのホレス・ハーカー氏であると紹介された。
 「またまたナポレオンの胸像事件です」とレストレードが言った。「昨日の晩、あなたが興味を持たれ たようなので、ホームズさん、事が非常に重大な展開を見せた以上、たぶん喜んで参加されるだろうと思 いましてね。」
 「というとどんな展開を見せたね?」
 「殺人です。ハーカーさん、こちらのお二人に何が起きたか正確に話していただけますか?」
 部屋着の男はひどく憂鬱な顔で私たちの方へ向き直った。
 「驚いたことに、」彼は言った、「人生ずっと他人様のことを取材してきて、今度はえらいニュースが そっちの方から私んところへやってきたというのに、すっかり途方に暮れちまって一つも文が書けないん です。記者としてここに来たとしたら、私は自分自身を取材してどの夕刊にも二段載るところなんで すが。実際はといえば、次から次へいろんな人に繰り返し話をして貴重な新聞種を提供しているのに、自 分では一つもそれを使えないんです。しかしあなたのお名前は伺ってますよ、シャーロック・ホームズさ ん、あなたがこの妙な事件を説明してくださるなら、それだけで私としてはわざわざお話しする甲斐があ るというものです。」
 ホームズは座って耳を傾けた。
 「何もかも、四ヶ月ほど前にこの部屋にと買ったあのナポレオンの胸像を中心に回っているらしいです ね。ハイ・ストリート駅から二軒先のハーディング・ブラザーズで安く買ったものです。私はジャーナリ ストとしての仕事を夜たくさんやりますし、朝まで書くこともよくあります。そこで今日のことです。私 は家の最上階の裏手にある仕事部屋に座っていました。三時ごろ、確かに階下で音がしました。耳をすま しましたがそれきり聞こえず、結局外からだったのだと思いました。その後突然、五分後ぐらいでしたか、 ひどく恐ろしい叫び声が聞こえました--いやホームズさん、生まれてこの方聞いたこともないものすごい声でし た。生きている限り耳の中で鳴り響くでしょう。私は一分か二分、恐怖に凍り付いて座っていました。そ れから私は火かき棒をつかんで下へ降りました。この部屋に入ってみると窓が大きく開いており、すぐに 私は胸像がマントルピースから消えているのに気づきました。どんな泥棒にしろあんなものをなぜ取って いくのか私には理解できません。ただの石膏像で実質的な価値は何もないですからね。
 見ればわかりますが、誰にしろあの開いた窓から出たら、足を伸ばせば正面戸口の段に届きます。泥棒 もそれをやったのは明らかで、それで私は戸口へ回って開けました。暗闇に踏み出した私は、危うくそこ に横たわっている死んだ男に倒れ掛かるところでした。私が明かりを取り、走って戻ると、かわいそうに 男はのどにひどい深手を負い、あたり一面血があふれ出していました。男は仰向けに倒れ、ひざを立て、 口は気味悪く開いていました。きっと夢に見ますよ。ちょうど警笛を吹くだけの間はあったのですが、そ れから気絶したにちがいありません。というのは後は何もわからず、気がつくと玄関ホールに警官が立っ て私を見下ろしていたのです。」
 「それで、殺された男は何者でした?」とホームズが尋ねた。
 「何者かを示すものはありませんでした」とレストレードは言った。「死体は死体置き場で見られます が、それについては今の所何もわかっていません。背の高い男で、日焼けしていて、非常に強そうで、三 十は超えてませんね。身なりは貧しいけれども労働者には見えません。柄が角製の折りたたみナイフが男 のそばの血の海の中にありました。それが犯行の凶器なのか、それとも死んだ男の物なのか、わかりませ ん。衣類に名前はなく、ポケットにあったのはりんご、何かのひも、一シリングのロンドンの地図、写真 が一枚です。ほら、これです。」
 それは明らかに小さなカメラで取ったスナップ写真だった。それが写し出したものは敏捷で、鋭い顔立 ちのサルに似た男で、眉毛が濃く、顔の下半分はヒヒの鼻面のようにとても妙な具合に突き出ていた。
 「それで胸像はどうなった?」この写真を注意深く調べた後、ホームズが尋ねた。
 「ちょうどあなたの来る前に情報がありました。カムデン・ハウス街の空き家の前庭で発見されました。 ばらばらに壊されていましたよ。今から見に行こうとしているところです。行きますか?」
 「もちろん。まあひとつ見に行かなくてはなるまい。」彼はじゅうたんと窓を調査した。「これは非 常に足が長いか非常に機敏な男だね」と彼は言った。「下に勝手口があるから、あの窓の出っ張りに届い た上、窓を開けるのは並みの技じゃない。戻るのは比較的易しいが。僕たちと胸像の残骸を見に行きます か、ハーカーさん?」
 悲嘆に暮れるジャーナリストは書き物机に座った。
 「私は何とかこいつをものにしなければなりません、」彼は言った、「もっとも詳細の載った夕刊の第 一版がもう出ているのは疑いないですが。何てついてないんでしょう!ドンカスターでスタンドが倒れた のはいつか覚えてますか?なんと、私がスタンドにいた唯一の記者なのに、記事が載らなかったのはうち の新聞だけなんです。ってのは、ひどく動転してしまって書けなかったんですからねえ。そして今度は自 分ちの戸口で起こった殺人で手遅れになろうとしているとは。」
 フールスキャップに彼がペンを走らせる鋭い音を聞きながら私たちは部屋を後にした。
 胸像の破片が発見されたのはほんの数百ヤード離れた場所だった。未知の男の心にそのような狂気と破壊を 事とする憎しみを引き起こしたらしい、この偉大な皇帝を表現したものに、初めて私たちは目を向けた。 それは芝生の上に粉々の破片になって散らばっていた。ホームズはいくつか破片を拾い上げて注意深く調 べた。その真剣な顔、揺るぎない態度からついに彼が手がかりに近づいていることを私は確信した。
 「それで?」とレストレードが尋ねた。
 ホームズは肩をすくめた。
 「まだまだ先は長いね」と彼は言った。「それでも、それでもだね、僕たちは行動の指針となる暗示的 な事実をいくつか握っている。このつまらない胸像を手に入れることは、このおかしな犯人の目から見て、 人の命より価値がある。その点が一つ。それから壊すことだけが唯一の目的だとすると、家の中で、ある いは家のすぐ外で壊さなかったという奇妙な事実もある。」
 「あのもう一人の男と会って驚き、あわててしまったんですよ。自分が何をしているのかよくわ からなかったんです。」
 「まあありそうなことだ。だが胸像が破壊された庭のあるこの家の位置に特段の注意を向けて欲しいん だ。」
 レストレードはあたりを見回した。
 「空き家ですからな、邪魔されずに庭に入れるとわかったんですな。」
 「うん、だが通りのもっと向こうにも一軒空き家があってここに着く前に通り過ぎたはずだよ。どうし てそこで壊さなかったんだろう、だってそれを運んでいく一歩ごとに誰かと出会う危険が増すじゃないか?」
 「降参です」とレストレードは言った。
 ホームズは頭上の街灯を指さした。
 「ここならやっていることが見えるがあそこではだめだ。それが理由だ。」
 「まったくだ!その通りです」と刑事は言った。「今から思えばバーニコット博士の胸像は赤いランプ から遠くないところで壊されていました。では、ホームズさん、我々はその事実をどう扱うべきでしょう?」
 「心に留めておくこと--ラベルをつけてね。後で関係あることにぶつかるかもしれない。さてここで どんな方策を取るつもりかな、レストレード?」
 「いちばん現実的な取っ掛かりは、私の意見では、死人の身元を明らかにすることでしょう。それは難 しくないはずです。あの男が誰で、仲間は誰かがわかれば、幸先よく、あの男が昨日の夜ピット街で何をしていたか、 誰と会ってホレス・ハーカー氏の戸口で殺されたかが知れるはずです。そう思いませんか?」
 「確かに。でも僕の事件に取り掛かる方法は少し違うな。」
 「ではあなたならどうしますかな?」
 「ああ、決して僕に左右されてはいけないよ。君は君の線で行く、僕は僕の、というのはどうだい。後で 意見を交換できるし、互いに補い合えるだろう。」
 「結構です」とレストレードは言った。
 「これからピット街に戻るなら、ホレス・ハーカー氏に会うだろうね。代わりに彼に言ってくれたまえ、 僕は判断を下した、昨日の夜彼の家にいたのはナポレオンになった妄想を抱いた危険な殺人狂に間違いな いと。彼が記事に役立つに違いないよ。」
 レストレードは目を丸くした。
 「そんなことまじめに信じちゃおらんでしょう?」
 ホームズはにっこりした。
 「僕が?まあ、おそらくはね。だがきっとホレス・ハーカー氏とセントラル・プレス・シンジケートの 購読者にはおもしろかろう。さあワトソン、思うに僕たちはこれから一日、長く、なかなか入り組んだ仕 事をすることになりそうだよ。レストレード、今晩七時に都合をつけてベーカー街で会ってくれると嬉し いんだがね。それまでこの、死んだ男のポケットで見つかった写真を預からして欲しいんだ。もしかして、 僕の一連の推理が正しいということになれば、君に同行と手助けを願って今晩ちょっとした遠征を企てな ければならないかもしれない。それまではごきげんよう、幸運を祈る!」
 シャーロック・ホームズと私はハイ・ストリートまで一緒に歩き、あの胸像の購入元、ハーディング・ ブラザーズの店で足を止めた。若い店員の話ではハーディング氏は午後まで留守であり、彼自身は新顔と いうことで、何の情報も得られなかった。ホームズの顔には失望と苛立ちが見えた。
 「まあいい、まあいい、何でも思い通りにしようと期待しちゃいけないね、ワトソン」と彼はようやく 言った。「午後戻ってこなくてはいけないね、ハーディング氏がそれまではここにいないとなれば。君も きっと見当をつけているだろうが、僕はなんとかこれらの胸像の出所を突き止めようとしているんだ、そ の驚くべき運命の説明になる何か変わったことがないかどうか見つけるためにね。ケニントン街のモー ス・ハドソン氏のところへ行って、問題に光明が投じられるかどうか、確かめよう。」
 絵画商の店へと私たちは一時間馬車に乗った。ハドソン氏は赤ら顔に怒りっぽい態度の、小柄でがっし りした男だった。
 「ええ、ええ。まさしくうちのカウンターで。何のために税金を払うのかわかりませんな、どこかのご ろつきがやってきて、人んちの商品を壊すんでは。ええ、ええ、私ですよ、バーニコット博士に彫像を二 つ売ったのは。破廉恥です!ニヒリストの陰謀--あたしゃそう思いますね。アナキストでなけりゃ彫像 を壊し始めたりしやしません。レッド・リパブリカン--あたしゃ奴らをそう呼ぶんだ。誰から彫像を仕 入れたかですって?それが何の関係があるのかわかりませんがね。ええと、ほんとに知りたいんですな、 ステップニー、チャーチ街のゲルダー商会から手に入れました。業界では有名な商社でして、この道二十年 ですな。いくつ買ったか?三つ--二つと一つで三つでさあ--バーニコット博士の二つと、一つは白昼 堂々あたしんとこのカウンターでぶち壊されたやつです。その写真のを知ってるか?いや、知りませんな。 いや、でも知ってる。なんだ、ベッポだ。あれはイタリア人の出来高払いの職人のようなもんで店では役 に立ちましたよ。彫刻もちょっとやるし、金メッキや枠入れもする、便利屋ですな。奴は先週出てったき り、何も聞いちゃいません。いや、奴がどこから来てどこへ行ったか知りません。ここにいる間、奴に文 句はありませんでした。奴が出て行ったのは胸像が壊される二日前でしたな。」
 「まあ、モース・ハドソンから期待できるのはせいぜいあんなところかな」と、店から出てホームズが 言った。このベッポがケニントン、ケンジントン双方の共通要素となったわけだから、十マイルのドライ ブも価値があったね。今度はワトソン、胸像のそもそもの仕入れ元ステップニーのゲルダー商会へ出発進行だ。 そこで何か役立つことがなかったら驚きだよ。」
 流行の先端ロンドン、ホテルの街ロンドン、劇場の街ロンドン、文学の街ロンドン、 商業の街ロンドン、そして最後に海辺の街ロンドン、とめまぐるしく続くそれらの縁を通り抜け、私たち がたどり着いたのは川岸の十万都市で、立ち並ぶ安アパートは炎暑の上、ヨーロッパののけ者たちの悪臭 がしていた。ここ、かって富裕なロンドン商人の住居が並んでいた大通りに探していた彫刻の製作所があ った。外側は大きな庭いっぱいの巨大な石造建築だった。内部は大きな部屋で、五十人の職人が彫刻した り型を作ったりしていた。支配人は大きな、ブロンドのドイツ人で、私たちを礼儀正しく迎え、ホームズ の質問すべてに明確に答えた。彼の帳簿を参照し、ドゥヴィヌのナポレオンの大理石の頭部の複製から数百 の型が取られたものの、一年ほど前にモース・ハドソンに発送された三つは六つセットの半分であり、残 りの三つはケンジントンのハーディング・ブラザーズに発送されていることがわかった。それらの六つが ほかの数百のものと異なるべき理由はなかった。誰かがそれらを壊したいと思う原因などありえないと彼 は言った--そうした考えをばかにして笑うほどだった。それらの卸売り価格は六シリングだが、小売は 十二かそれ以上取るはずだった。石膏の型は顔の両面から二つに取り、それからこれら二つの石膏の横顔 を接合して完成した胸像を作るのだった。作業はその部屋で、普通イタリア人がやっていた。終わると胸 像は乾かすために廊下のテーブルに置かれ、その後倉庫に入れるのだった。彼が私たちに話せるのはそれ で全部だった。
 しかし写真を出して見せると、それは支配人に驚くべき効果を引き起こした。その顔は怒りで赤くなり、 ゲルマン民族の青い目の上の眉は寄せられた。
 「ああ、あのごろつき!」と彼は叫んだ。「ええ、まったく、よく知っていますとも。ここは常に立派 な会社だったんですが、たった一度だけ警察を入れたのがこいつのことでだったんです。もう一年以上に なります。奴が通りで別のイタリア人をナイフで刺し、それから警察に追われて作業場に来て、ここで捕 まったのです。ベッポという名前で--姓は聞いたことがありません。あんな顔の男を雇ったのだし当然 ですかな。しかし奴は職人としてはよかった--最高と言ってもいい。」
 「この男はどんな刑に?」
 「相手は生きていたし一年で済みました。疑いなく奴はもう出ていますが、ここへはずうずうしく顔を 出したりしませんでした。ここに奴のいとこがいますから、たぶん居場所を教えられるでしょう。」
 「いやいや、」ホームズが叫んだ、「いとこには一言も--一言もしないようお願いします。事はきわ めて重大だし、先に進めば進むほど重大になってくるように思えます。あなたが元帳で六つの石膏像の取引を参 照された時に気づいたのですが、その日付は去年の六月三日でしたね。ベッポが逮捕された日付はおわか りでしょうか?」
 「賃金の明細からだいたいのことはお教えできますよ」と支配人は答えた。「そう、」何度かページを めくった後、彼は続けた、「五月二十日に最後の賃金を払っています。」
 「ありがとう」とホームズは言った。「これ以上あなたにお時間をとらせ、忍耐を強いる必要はないと 思います。」私たちの調査について何も言ってくれるなという警告の言葉を最後に、私たちはもう一度顔 を西に向けた。
 私たちがレストランで急いで昼食を取ることができたのは午後もだいぶ遅くなってからだった。入り口 のニュース広告は『ケンジントンの暴力。狂人による殺人』と謳い、新聞の内容はホレス・ハーカー氏が 記事を印刷に付したことを示していた。二段の欄は出来事の一部始終に関する非常にセンセーショナルで 華やかな表現で占められていた。ホームズはそれを薬味立てに立てかけ、食べながら読んだ。一、二度彼 はくすくす笑った。
 「これは申し分ないよ、ワトソン」と彼は言った。「聞きたまえ。
 『幸いにもこの事件に意見の相違はありえないことがわかった。最も老練な警察官の一人、レストレー ド氏および、著名な調査の専門家、シャーロック・ホームズ氏がそれぞれ、あのように悲惨な形で終わっ た一連の怪奇な出来事は計画犯罪というより、むしろ狂気から発生したとの結論に達したのである。精神 以上のほかには事実に当てはまる説明はありえない。』
 新聞というものはね、ワトソン、利用の仕方を知ってさえいれば、非常に役に立つ機関なんだ。さあ、 終わったのならケンジントンに戻ってハーディング・ブラザーズの支配人がこの件で何を言うか見てみよ う。」
 その大きな商店の創業者は元気のいい、てきぱきとした小男で、こざっぱりとして機敏、頭脳は明晰で 舌がよく回った。
 「ええ、私も夕刊のその記事はもう読みました。ホレス・ハーカーさんは私どものお客様です。あの胸 像は数ヶ月前にお届けしました。私どもではその種の胸像を三つステップニーのゲルダー商会に注文しま した。現在ではすべて売れています。誰に?おお、たぶん販売台帳を調べればお教えするのはお安いご用 でしょう。ええ、ここに書いてあります。一つはご存知ハーカーさん、一つはチズウィック、ラバーナ ム・ヴェイル、ラバーナム・ロッジのジョサイア・ブラウンさん、一つはリーディング、ロワー・グロー ヴ街のサンドフォードさんですね。いえ、せっかく見せていただきましたがこの写真の顔は見たこ ともありません。これは忘れないでしょう、ねえ、こんなに醜いのにはめったに出会うもんじゃないです から。イタリア人が勤めていないか?ええ、ええ、工員や掃除夫の中に何人かおります。その気になれば 彼らにも販売台帳をのぞき見ることはできたでしょう。いやはや、実に奇妙な事件ですね、調査の結果、 何かおわかりになったら、お知らせいただければと思います。」
 ホームズはハーディング氏が証言する間、いくつかメモを取っていたが、事の成り行きにすっかり満足 しているのが見て取れた。しかし彼は、急がないとレストレードとの約束に遅れてしまうということのほ か、何も言わなかった。果たして、私たちがベーカー街に着いた時、刑事はすでに来ていて、恐ろしくい らいらして行ったり来たり歩いているところだった。彼の偉そうにする様子から、彼のその日の仕事が無 駄ではなかったことがわかった。
 「それで?」彼は尋ねた。「運は向きましたか、ホームズさん?」
 「非常に多忙な一日だったがまったく無益ではなかったよ」と友は説明した。「小売も製造卸も調べて きた。今ではそれぞれの胸像を最初からたどることができる。」
 「胸像!」とレストレードは叫んだ。「まあ、まあ、あなたにはあなたのやり方がありますからな、シ ャーロック・ホームズさん、それに対して言うことなど私にはありませんがね、しかし私の方がいい仕事 をしたと思いますよ。私は死人の身元を明らかにしましたよ。」
 「本当かい?」
 「そして犯行の原因も発見しました。」
 「お見事!」
 「我々のところにサフラン・ヒルとイタリア人街を専門にしている警部がいましてね。さて、この死ん だ男ですが、首の周りにカトリックの記章をつけてまして、それと彼の襟ですね、それを見て私はあの男 は南から来たと思いました。ヒル警部は一目見た瞬間に彼がわかりました。名前はピエトロ・ヴェヌッチ、 ナポリの出、ロンドンでも名うての人殺しの一人です。殺人によってその掟を守らせる、ご存知の秘密政 治組織、マフィアとつながりがあります。さあ、事が明らかになりかけているのがわかりますね。もう一 人の男もおそらくイタリア人でマフィアのメンバーでしょう。男は何らかの意味でルールを破ってしまっ たのです。ピエトロは彼を追うように命じられた。おそらく彼のポケットで発見した写真がその男本人で しょうから、間違えてナイフで人を刺したのではないかもしれません。彼は男を尾行し、家に入るのを見、 外で男を待ち、格闘になって彼の方が致命傷を受けた。これでどうです、シャーロック・ホームズさん?」
 ホームズは賛成の拍手をした。
 「すばらしいよ、レストレード、すばらしい!」と彼は叫んだ。「だが胸像を破壊した理由が君の説明 ではよくわからないんだが。」
 「胸像!あの胸像をどうしても頭から振り払えないんですね。結局のところ、あんなものは何でもあり ませんよ。けちな窃盗、最高で六ヶ月です。私たちが本当に捜査しているのは殺人ですし、言っておきま すが、あらゆる糸がこの手に集まっているところですよ。」
 「それで次の段階は?」
 「非常に単純なものです。ヒルとともにイタリア人街まで行き、手持ちの写真の男を見つけ、殺人罪で 逮捕してみせますよ。一緒に来ますか?」
 「そうかなあ。僕はもっと単純なやり方で目的を達することができるんじゃないかと思うんだ。はっき りしたことは言えないよ、というのもすべてがある要因に--うむ、すべてが僕たちにはまったくどうし ようもない要因に依存しているんでね。だが僕は大いに期待しているんだが--実際、厳密に二対一 の賭けだからね--今夜僕たちと来れば、君がその男に足かせをはめる手伝いができるかもしれないよ。」
 「イタリア人街で?」
 「いや、チズウィックが男を発見する可能性が高い場所だと思うんだ。今夜僕と一緒にチズウィックへ 行ってくれたらね、レストレード、明日は君と一緒に僕がイタリア人街へ行くと約束するし、そのぐらい の遅れは差し支えないだろう。それと体のために数時間眠っておくと非常にいいと思うんだ。というの も十一時前に出発するつもりはないし、朝までに戻れそうもないからね。一緒に食事をしようよ、レスト レード、それから出発の時間まではソファを自由に使ってくれたまえ。その間にワトソン、速達の配達を 呼んでくれると嬉しいんだがね、手紙を出すんだがすぐに送ることが重要なんだ。」
 ホームズはその晩を物置の一つに押し込んである古い日刊新聞の綴じ込みを引っかき回して費やした。 やっと彼が降りてきた時、彼の目には成功の喜びがあったが、調査の結果については私たちのどちらにも 何も言わなかった。私個人としては、この入り組んだ事件のさまざまに屈曲したところをたどる彼の方法 を一歩ずつ追ってきて、まだ私たちが到着するはずのゴールを知覚することはできなかったが、この異様 な犯人が残っている二つの胸像を奪おうとするとホームズが予期していることははっきり理解したし、そ の二つのうちの一つがチズウィックにあることも覚えていた。疑いなく私たちの旅の目的は現場で男を捕 らえることであり、無事に計画を続行できると相手に吹き込むために、夕刊に誤った手がかりを差し挟ん だ友の抜け目なさには感服するほかなかった。ホームズが私にリボルバーを持っていくべきだと提案した時 も私は驚かなかった。彼自身はお気に入りの武器、鉛入りの狩猟用鞭を手に取った。
 四輪馬車が十一時に戸口に着き、それに乗って私たちはハマースミス橋の向こう側の地点まで行った。 ここで御者は待つように指示された。少し歩くと閑静な道に沿って気持ちのよい家々がそれぞれの庭の中 に立っていた。街灯の光で私たちはそのうちの一軒の門柱の上の『ラバーナム・ヴィラ』の文字を読んだ。 住人たちは明らかに床について休んでいるらしく、玄関のドアの上の明り取りのほかは真っ暗で、それが 庭の歩道にただ一つのぼんやりした円を投じていた。庭と道路を隔てる木の柵がその内側に黒々とした影 を落とし、ここに私たちはかがみこんだ。
 「長く待つことになるんじゃないかと思うんだ」とホームズがささやいた。「雨が降っていない幸運に 感謝してもいいね。時間をつぶすために煙草をすうような無謀なまねまではできないと思うが。しかし、 僕たちの苦労に報いる何かを得る見込みは二対一だからね。」
 しかし私たちの寝ずの番はホームズが脅かしたほど長くはなく、まったく突然、奇妙な具合に終わった。 一瞬のうちに、来たことを私たちに警告するような音を少しも立てず、庭の門がスーッと開き、小柄な黒 い姿が、サルのようにすばやく機敏に庭の歩道を駆け寄った。私たちはそれがドアの上から投じられた光 の向こうに走り去り、背景の建物の黒い影に消えて行くのを見た。長い間があり、その間私たちは息をこ らしていたが、それから非常に静かなきしむ音が私たちの耳に届いた。窓が開けられていた。音はやみ、 再び長い静寂が訪れた。男は家に進入していた。私たちは突然部屋の中で暗室ランタンがひらめくのを見 た。どうやら探しているものがそこにはなかったらしく、再び別の、さらにまた別のブラインド越しに閃 光が見えた。
 「開いた窓のところへ行きましょう。這い出てきたところを捕まえるのです」とレストレードがささや いた。
 しかし私たちが移動する前に男は再び現れた。男が薄明かりの中に出た時に、小脇に何か白いものを抱 えているのが見えた。彼はこっそりとあたり全体を見回した。人のいない静かな通りが彼を安心させた。 男が私たちに背を向けて荷を降ろすと、次の瞬間鋭く叩く音が、続いてガチャガチャ騒々しい音がした。 男は自分のしていることに熱心のあまり、芝地を横切って忍び寄る私たちの足音をまったく聞かなかった。 トラのような跳躍とともにホームズが男の背に乗り、一瞬の後、レストレードと私が男の両手首をつかみ、 手錠がしっかりとかけられた。彼をひっくり返すと、もがき、怒り狂った形相で私たちをにらみ上げる醜 い、黄ばんだ顔が見え、実際に私たちが手に入れた写真の男であることがわかった。
 しかしホームズが注意を向けたのはこの囚人にではなかった。彼は男が家から持ち出したものをせっせ と、きわめて注意深く調べていた。それはその朝私たちが見たものと同様のナポレオンの胸像であり、同 じようにばらばらに壊されていた。注意深くホームズは一つ一つの破片を光にかざしたが、ほかの粉々に なった石膏のかけらと違うものは一つもなかった。ちょうど彼が検査を終えた時玄関の明かりがパッとつ き、ドアが開き、シャツとズボンを着けたこの家の持ち主の陽気な、丸々とした姿が現れた。
 「ジョサイア・ブラウンさんですね?」とホームズが言った。
 「ええ、そしてあなたは、きっとシャーロック・ホームズさんですね?あなたが速達便で送った手紙を もらっておっしゃる通りにしましたよ。すべてのドアに内側から鍵をかけ、展開を待ちました。さて、あ なた方がごろつきを捕まえられて非常に嬉しいです。どうぞ皆さん、お入りになってちょっと軽食でも取 っていただければと思うのですが。」
 しかしレストレードはどうしても男を無事に署に入れたいと思い、それで数分のうちに私たちの馬車が 呼ばれ、四人そろってロンドンへの道中となった。一言も私たちの捕虜は話そうとしなかったが、もじゃ もじゃの髪の陰から私たちをにらみつけ、一度など、私の手に届きそうだと見るや、飢えた狼のようにそ れにかみついた。私たちは長々と警察署にいて、男の衣類の検査の結果、数シリングと柄におびただしい 新しい血痕のついた長い鞘入りナイフのほか何もなかったことを知った。
 「いいんですよ」と別れ際にレストレードが言った。「ヒルはこういう連中は皆知っていますから、奴 の名前を教えてくれるでしょう。結局、私のマフィアの仮説でちゃんとうまくいくことがわかりますよ。 ですが私はほんとに感謝してますよ、ホームズさん、奴を捕らえた手際のいいやり方には。まだすっかり よくはわからないんですが。」
 「説明するには時間が遅すぎるようだね」とホームズが言った。「その上、一、二細かいところが片付 いていないし、これは最後の最後までやり遂げる価値のある事件の一つだからね。もう一度明日の六時に 僕の部屋へ寄ってくれれば、犯罪史上、まったく独創的なものとなる特徴をいくつか示しているこの事件 全体の意味を、そして今となっても君が把握していないことを明らかにできると思うよ。いつか僕が許可して君 が僕のちょっとした問題をさらに年代記に加えるとしたら、ねえワトソン、君がナポレオンの胸像の奇妙 な冒険の話で作品をにぎやかにするのが見えるようだよ。」
 翌日の晩、私たちが再び会った時、レストレードは私たちの囚人に関する情報をたくさん入手していた。 名前は、どうやらベッポで、姓はわからなかった。彼はイタリア人の町では有名なろくでなしだった。か っては腕のいい彫刻職人でまともに稼いでいたが、邪悪な道に向かい、すでに二度も刑務所に入っていた--一度は けちな窃盗で、一度は、すでに我々も知っているように、同国人を刺して。英語は完璧に話せた。彼が胸 像を破壊する理由はまだわからず、彼はその問題についていかなる質問にも答えるのを拒否したが、これ ら、同一の胸像は、ゲルダー商会の製造所でこの種の作業に従事していた彼自身の手で作られた可能性が 高いことを警察は知った。その多くを私たちがすでに知っているこの情報の一部始終に、ホームズは礼儀 正しく注意して聞いていたが、彼をよく知る私は、彼の考えがどこかよそにあるとはっきりわかっ たし、いつも彼が身につけている仮面の下に不安と期待の入り混じったものを見つけた。ついに彼は椅子の 上でびくっとし、その目が輝いた。ベルが鳴っていた。一分後私たちは階段に足音を聞き、白髪交じりの 頬ひげのある、年配の、赤ら顔の男性が招じいれられた。右手に持った旧式な旅行かばんを彼はテーブル の上に置いた。
 「シャーロック・ホームズさんはこちらに?」
 友はお辞儀をして微笑んだ。「リーディングのサンドフォードさんですね?」と彼は言った。
 「そうです、少し遅くなりましたでしょうか、列車が思うようにならなくて。私の持っている胸像につ いて手紙をくださいましたな。」
 「その通りです。」
 「ここにお手紙を持っています。おっしゃってますね、『ドゥヴィヌのナポレオンの複製を所有したい と望み、あなたの所有になるものに対して十ポンド支払う用意がある』と。そうですね?」
 「間違いありません。」
 「私はあなたの手紙に非常に驚きました、というのもどうして私がそんなものを持っているとわかった のか、想像もつかないからです。」
 「もちろん驚かれたにちがいないでしょうが、説明は非常に簡単です。ハーディング・ブラザーズのハ ーディングさんが、最後の複製をあなたに売ったと言ってあなたの住所を教えてくれたのです。」
 「あ、そういうことだったんですか?私がいくら払ったかを聞きましたか?」
 「いえ、聞きませんでした。」
 「ではですね、私はあまり金持ちではありませんが正直な男ですから。私はその胸像に十五シリングし か出してませんし、私は十ポンドあなたから受け取る前にあなたがそれを知っておかれるべきだと思いま して。」
 「いやほんとに見上げた道義心ですね、サンドフォードさん。しかし僕はその値を指定したのですから、 それを守るつもりです。」
 「ほう、実に気前のいいことですね、ホームズさん。私はあなたのお求めに応じてここへ胸像を持って きました。さあこれです!」彼がかばんを開き、ついに私たちは、すでに一度ならず破片を見てきたあの 胸像の完全な見本がテーブルの上に置かれるのを見た。
 ホームズはポケットから紙を一枚取り出し、テーブルの上に十ポンド札を置いた。
 「どうぞその紙にサインしてください、サンドフォードさん、こちらの証人の前で。単にあなたがこの 胸像に持っていらしたありとあらゆる権利を僕に譲渡するというものです。僕は几帳面な人間でしてね、 だって後でどんなことになるか、決してわかりませんからね。ありがとう、サンドフォードさん。これは あなたの金です、ではごきげんよう。」
 客が見えなくなった後のシャーロック・ホームズの行動は私たちの注目を一身に引きつけるものだった。 彼は初めに引き出しから白いきれいな布を取り出し、テーブルにかぶせた。それから彼はその布の中央に 手に入れたばかりの胸像を据えた。最後に、彼は狩猟用鞭を取り、ナポレオンの頭のてっぺんに鋭い一撃 を加えた。彫像はばらばらに壊れ、ホームズは夢中になってその粉々の残骸にかがみこんだ。次の瞬間、 大きな勝利の叫びとともに彼が掲げた破片には、プリンの中の干しブドウのように丸くて黒っぽい物体が しっかりとくっついていた。
 「諸君、」彼は叫んだ、「有名なボルジア家の黒真珠を紹介いたします。」
 レストレードと私はしばらく無言で座っていたが、それから、思わず衝動的に、よくできた芝居の 山場を見た時のように、二人ともドッと拍手をした。ホームズの青白い頬がぱっと赤く染まり、観客の称 賛を浴びる優れた劇作家のように、彼は私たちにお辞儀をした。そんな時、一瞬彼は論理機械であること をやめ、感嘆や喝采を愛する人間らしさを思わず見せるのだった。いつも大衆的な名声に軽蔑から背を向 ける、並外れて尊大で打ち解けない性質だが、友人の思わず知らずの驚嘆や賞賛には深く感動することも あるのだった。
 「そうです、諸君、」彼は言った、「現存する世界で最も有名な真珠であり、幸運にもそれは、帰納的推理の 連鎖により、失われたデイカー・ホテルのコロンナ王の寝室から、この、ステップニーのゲルダー 商会で製作された六つのナポレオンの胸像の最後のものの内部に至るまで追跡されたのです。覚えている だろう、レストレード、この高価な宝石の消失の引き起こした騒ぎと、ロンドン警察が取り戻そうとした が徒労だったことを。この僕も事件のことで助言を求められたけれど、新たな光明を投ずることはできな かった。疑いはイタリア人である王妃のメイドにかけられ、彼女にはロンドンに兄弟がいることが明らか になったが、そこに何らかの関係を突き止めることはできなかった。このメイドの名がルクレチア・ヴェ ヌッチで、あの二日前に殺されたピエトロが兄弟だったことを僕は確信しているよ。僕は古い新聞の綴じ 込みで日付を調べ、真珠の消失はベッポの逮捕のちょうど二日前だったことを発見した。何か暴行罪での 逮捕で、これらの胸像が作られていたちょうどその時にゲルダー商会の工場で起こった事だった。今では 君にも事件のつながりがはっきりわかるね、もっとも、もちろん僕の頭に浮かんだのとは逆の順序で理解 しているわけだが。ベッポは真珠を持っていた。彼はピエトロから盗んだのかもしれないし、ピエトロの 共犯だったかもしれないし、ピエトロと彼の妹の仲立ちをしていたかもしれない。正しい答えがどれかは 僕たちにとって重要ではない。
 主要な事実は彼がその真珠を持っていたこと、警察に追跡されていたその時、それを身につけていたこ とだ。彼は自分の働く工場へ向かったが、この莫大な価値のあるお宝を隠すのに数分しかなく、できな ければ身体検査をされた時彼から見つかってしまうことを知っていた。六つのナポレオンの石膏像が廊下 で乾燥中だった。そのうち一つはまだ軟らかかった。腕のいい職人であるベッポはすぐに乾いていない石膏に小 さな穴を開け、真珠を入れ、ちょっと触ってもう一度すき間を覆い隠した。見事な隠し場所だった。とて も誰かに発見できるものではない。しかしベッポは懲役一年の判決を受け、その間に彼の六つの胸像はロ ンドンのあちこちに散らばった。どれに彼の宝物が入っているか、彼にはわからなかった。それらを壊し て初めて確かめられることだった。振ったところで何もわかるまい。石膏は乾いていなかったのでたぶん 真珠はくっついただろうからね--事実そうだったね。ベッポはあきらめることなく、なかなかの創意と 忍耐で捜索をやってのけた。彼はゲルダー商会で働いているいとこを通して胸像を買った小売店を見つけ 出した。彼はどうにかモース・ハドソンに就職し、そうしてそのうちの三つを突き止めた。真珠はそこには なかった。それから、誰かイタリア人の従業員の助けを借りて残りの三つの胸像の行方を見つけ出すこと に成功した。一つ目はハーカーのところだった。そこで彼は、真珠の紛失はベッポのせいだと思っている 共犯者に尾行され、その結果、格闘中に相手を刺したのだ。」
 「あれが共犯者なら、なぜ彼の写真を持っていなくちゃならないのかね?」
 「追跡する手段として、彼のことを第三者に尋ねたい時にね。明白な理由じゃないか。さて、殺人の後、 ベッポはたぶんその行動を遅らすよりむしろ急ぐだろうと僕は推定した。彼は警察が彼の秘密を解くこと を恐れ、従って先んじられる前にとことを急いだ。もちろん、彼がハーカーの胸像の中に真珠を見つけてい ないとは言えなかった。僕はそれがその真珠であるとはっきり結論を下してさえいなかったが、彼が何か を探していることは僕にとって明白だった。街灯の見下ろす庭で壊すためにそれを持ってほかの家を通り 過ぎたのだからね。ハーカーの胸像は三つのうちの一つだから、その中に真珠のあった可能性に対するにこちらの見込みは、 僕が言ったようにちょうど二対一だ。残った胸像は二つ、彼がロンドンのものを先に選ぶのは明らかだっ た。第二の悲劇を避けるために家の人たちに警告し、僕たちは出かけ、非常に満足な結果を得た。その時には、 もちろん僕は、僕たちの追っているのがボルジアの真珠であることをはっきりと知っていた。殺された男 の名が一つの事件をもう一つのものと結びつけたのだ。唯一つの胸像--リーディングのもの--が残る だけとなり、真珠はそこにある違いない。僕はそれを君たちの目の前で持ち主から買い--そしてここにあるのだ。」  私たちはしばらく黙って座っていた。
 「ええとですね、」レストレードが言った、「あなたが多くの事件を扱うのを見てきましたが、ホーム ズさん、これは中でもいちばん見事な腕を見せられたんじゃないですか。スコットランドヤードではあな たをねたんだりしません。そうですとも、私たちはあなたを大変誇りに思いますし、明日あなたがいらっ しゃれば、最古参の警部から新入りの巡査まで、一人残らず、喜んで握手させていただきます。」
 「ありがとう!」とホームズは言った。「ありがとう!」そして彼が顔を背けた時、私にはかって見たことがないほど彼が優しい 人間的感情に動かされようとしているように見えた。一瞬の後、彼は冷たい、 現実的思索家に戻っていた。「真珠を金庫に入れたまえ、ワトソン、」彼は言った、「それからコンク- シングルトン文書偽造事件の書類を出してくれ。ごきげんよう、レストレード。何かちょっとした事件が あったら、喜んでその解決に、僕にできればだけど、多少の助言はするからね。」

三人の学生(The Adventure of the Three Students)

 1895年、ここで立ち入ることはしないが、いろいろな事件の取り合わせにより、ホームズと私は数 週間をある大きな大学町で過ごすことになり、この間にこれから語ろうと思う重大ではないが教訓的な出 来事が私たちに降りかかった。明らかに、読者が学寮や犯罪者をそのまま特定する助けとなるような詳細を 明かすのは不適当だし無礼であろう。痛ましいスキャンダルは消えていくのにまかせるのがよいと思う。 しかし相応の思慮を払えば、出来事そのものを述べるのはかまうまい。というのも我が友を非凡ならしむるあの特質の 一部を例示するのに役立つからである。記述に際し、事件を特定の場所に限定したり、関係する人々に関する 手がかりを与えるたりするのに役立つような用語は避けるべく努力しよう。
 当時私たちは家具つきの下宿に住まっていた。近くに図書館があり、そこでシャーロック・ホームズは イギリス初期の勅許状について骨の折れる研究をしていた--この研究は目覚しい結果を得たので、いずれ 私が語る物語の一つの主題となるかもしれない。ここである晩のこと、私たちは知り合いの一人、セント ・ルークスの学寮の個人指導もする講師、ヒルトン・ソームズ氏の訪問を受けたのである。ソームズ氏は 背の高い、やせた男で、神経質で興奮しやすい気性だった。常々彼の態度に落ち着きのない のは知っていたが、この時に限れば彼は抑えられないほど動揺した様子で、何か異常なことが起きたのは 明らかだった。
 「きっと、ホームズさん、貴重な時間を私のために数時間割いてもらえますよね。セント・ルークスで 実に苦々しい出来事がありまして、いや実際、運良くあなたが町にいなかったら、どうしていいかわから ないところでした。」
 「ちょうど今、非常に忙しいのでね、気を散らされたくないんだ」と友は答えた。「できれば警察の助 けを求めてもらいたいな。」
 「いやいや、あなた、そういう方法はまったく不可能です。一度警察を呼んだら、もう猶予はなりませ んし、これはまさに、学寮の信用のためにも、スキャンダルを避ける事が非常に重要な事件といっていい でしょう。あなたに分別のあることは腕前同様に有名ですし、私を助けられるのは世界中にあなたただ一 人です。お願いです、ホームズさん、できるだけのことをしてください。」
 我が友の短気はベーカー街の性に合った環境を奪われて以来改善していなかった。スクラップブック、 化学物質、心地よい乱雑さがないと、彼はやっかいな人になった。彼が肩をすくめ、無愛想にしぶしぶ同 意すると、客は急き込み、興奮しきった身振り手振りでその話を語った。
 「説明させてもらいますが、ホームズさん、明日はフォーテスキュー奨学金の試験の初日なのです。私 は試験官の一人です。科目はギリシャ語ですが、問題の初めの部分は長文のギリシャ語訳から成っていて、 志願者が見たことのないものです。この一節が問題用紙に印刷されていますが、志願者が前もってその準 備をできれば、計り知れないほど有利になるのは当然です。こうした理由から、非常に注意して問題は秘 密にしておかれます。
 今日三時ごろ、この問題の校正刷りが印刷業者から届きました。課題はトゥキュディデスの一章の半分 から成っています。本文は絶対に間違っていてはなりませんから、私は注意深くそれを読み通さなければ なりませんでした。四時半になってもまだ私の仕事は終わりませんでした。しかし私は友人の部屋でお茶 を飲む約束をしていましたので、校正刷りを机の上に残し、一時間少々留守にしました。
 お気づきでしょうか、ホームズさん、学寮のドアは二重で--内側は緑のベーズ、外側は重いオークの ものです。外のドアに近づいた私は鍵がそこに入っているのを見て驚きました。一瞬私は自分のをそこに 残してきたと思いましたが、ポケットを探るとちゃんとそこにありました。合鍵がありますが、それは私 の知る限り、召使のバニスターのものただ一つです--もう十年私の部屋の世話をしていますが、正直な ことは絶対に疑う余地がありません。鍵は実際彼のもので、私がお茶を飲むか聞こうと思って部屋に入り、 まったく不注意にも出る時に鍵をドアに置き忘れてしまった、ということがわかりました。私の部屋に来 たのは私が離れてほんの数分以内だったにちがいありません。別の折なら鍵を忘れたことも大したことに ならなかったでしょうが、この日に限っては最も嘆かわしい結果を招いてしまいました。
 机を見た瞬間、私は誰かが問題用紙を引っ掻き回したことに気づきました。校正刷りは三枚の長い紙片 でした。私はそれを皆まとめておきました。ところが、そのうち一枚は床の上に、一枚は窓際のサイドテ ーブルの上に、三枚目は私が置いたところにあったのです。」
 ホームズが初めて身動きした。
 「一ページ目が床の上、二ページ目が窓、三ページ目が置いた場所」と彼は言った。
 「その通りです、ホームズさん。驚きました。どうしてそれがわかりましたか?」
 「どうかその非常におもしろい話を続けて。」
 「一瞬私はバニスターが許しがたい勝手なふるまいをして問題を調べたかと思いました。しかし、彼は これ以上はなく真剣にそれを否定し、私も彼が真実を言っていたと確信しています。別の可能性は誰かが 通りすがりにドアに鍵がついているのを見つけ、私が外出していると知り、中に入って問題を見たという ことです。この奨学金は非常に貴重なもので、大金が懸かっていますし、良心に欠ける男なら仲間より優 位に立つために危険を冒すことも大いにありそうです。
 バニスターはこの出来事にすっかり動転してしまいました。問題用紙が疑いなく勝手にいじられている とわかった時には危うく気絶するところでした。私は彼にブランデーを少々与え、くずおれた椅子にその まま残し、きわめて注意深く部屋を調べました。くしゃくしゃになった問題用紙のほかにも侵入者が存在 した痕跡を残しているのがすぐにわかりました。窓辺のテーブルには鉛筆を削った切り屑がいくつかあり ました。折れた鉛の先端もそこに転がってました。明らかにならず者は大慌てで問題を写し、鉛筆を折り、 新たに先端を出さざるをえなかったのです。」
 「すばらしい!」と、事件に注意を集中するにつれて上機嫌を取り戻したホームズは言った。「運が味 方しましたね。」
 「これだけではありません。赤い革の表面が美しい、新しい書き物机があるんです。私はいつでも宣誓 する用意がありますし、バニスターもそうですが、それは滑らかで傷はありませんでした。ところが私は そこに約三インチの長さのスパッと切れた傷を見つけたのです--ただの引っかき傷ではなくはっきりと した切り傷です。それだけではなく、机の上に小球状の黒いパン生地というか粘土があり、その中にはお が屑のように見えるものがぽつぽつとありました。これらの痕跡は問題を盗み見た者が残したものである と私は確信します。足跡やそのほか、男の正体を明らかにする証拠はありませんでした。思案にくれてい たところ、妙案が浮かび、あなたが町にいるではないか、この件をあなたの手に委ねよう、とまっすぐにこ ちらに寄ったのです。どうか助けてください、ホームズさん。私のジレンマがおわかりでしょう。その男 を見つけるか、さもなければ試験を延期して新しい問題を準備しなければなりません。するとそれには説 明なしでは済みませんから、結果として忌まわしいスキャンダルとなり、学寮ばかりか大学にまで暗い影 を落とすことになるでしょう。とりわけ、問題をそっと目立たぬように解決したいのです。」
 「喜んで調べてできる限りの助言をしましょう」とホームズは立ち上がってオーバーを着ながら言った。 「まったく興味に欠けるという事件でもないね。試験問題が君のところに来た後、誰か君の部屋を訪ねま したか?」
 「ええ、同じ階段伝いに住んでいるインド人の学生のダウラット・ラス青年が試験についていくつか細 かいことを訊きに来ました。」
 「そのために入ってきたんですね?」
 「そうです。」
 「で、問題用紙は机の上に?」
 「私の信じる限り、巻いてあったと思います。」
 「でも校正刷りとわかったかもしれませんね?」
 「あるいは。」
 「ほかには誰も部屋に?」
 「一人も。」
 「誰か校正刷りがそこにあると知っていましたか?」
 「印刷業者のほかには誰も。」
 「そのバニスターという男は知っていましたか?」
 「いいえ、とんでもない。誰も知りませんでした。」
 「バニスターは今どこに?」
 「かわいそうに非常に具合が悪くて。椅子にくずおれたまま残してきました。すごく急いでここへ来ま したので。」
 「ドアは開けっ放しですか?」
 「いちばんに試験問題はしまいこみました。」
 「するとこういうことになりますね、ソームズさん。インド人の学生が巻いたものが校正刷りであると 気づいたのでない限り、それをいじった男はそれがそこにあると知らずに偶然にやってきたのである、と。」
 「そのように見えますね。」
 ホームズは謎めいた微笑を浮かべた。
 「ではと、」彼は言った、「行ってみますか。君の出番じゃないよ、ワトソン--精神的なもので肉体 的ではない。結構、来たければ来たまえ。さあ、ソームズさん--なんなりと!」
 私たちの依頼人の居間は長く、低い格子窓が、時代のついた学寮の年代もののコケに染まった中庭に面し ていた。ゴシック式のアーチ型のドアを通ると磨り減った石の階段だった。一階は講師の部屋だった。上 には三人の学生がそれぞれの階にいた。私たちが問題の現場に着いた時は既にたそがれ時だった。ホーム ズは立ち止まり、熱心に窓を見ていた。それから彼は窓に近寄り、爪先立ちで首を伸ばし、部屋の中をの ぞき込んだ。
 「ドアから入ったにちがいありませんよ。窓ガラス一枚しか開きませんから」と私たちの学識ある案内 人が言った。
 「おやおや!」とホームズは言い、連れに目をやりながら奇妙な笑い方をした。「ま、ここに知るべき ことが何もなければ中に入るのがいちばんだね。」
 講師は外側のドアの鍵を開け、私たちを招じ入れた。ホームズがじゅうたんを調べる間、私たちは入り 口に立っていた。
 「何も痕跡はないんじゃないかな」と彼は言った。「こんなに乾燥した日ではとても何か望めたものじ ゃないな。召使の人はすっかり回復したらしいね。椅子に残してきたんですね。どの椅子?」
 「向こうの窓際のです。」
 「なるほど。この小さなテーブルの近くだ。さあ入っていいですよ。じゅうたんは終わりましたから。 まずその小さなテーブルからかかりますか。もちろん、何が起きたかはきわめて明白だ。男が入り、問題 を一枚ずつ中央の机から取った。窓辺のテーブルまで持っていったのは、そこからなら君が中庭を横切っ てくるかどうかが見えるので、逃げおおせることができるからだ。」
 「実際にはそれはできませんでした、」ソームズが言った、「私が横手のドアから入ったので。」
 「ああ、それはよかった!まあ、いずれにせよ、男はそう思っていた。その三枚の紙片を見せてもらい ましょうか。指の跡はなしか--なし!さて、男はまずこれを向こうへ持っていって写しを取った。あり とあらゆる短縮形を用いたとしてそれにはどのくらいかかるかな?十五分、それ以下ではない。それから それを放り出して次のをひっつかんだ。その真っ最中に君が戻ってきたので大急ぎで逃げ出すはめになっ た--大急ぎというのは、そこにいたことがわかってしまうのに問題用紙を元に戻す時間がなかったから です。外のドアを入った時に階段を急ぐ足音に気づきませんでしたか?」
 「いえ、気づかなかったようです。」
 「さて、男は猛烈な書き方で鉛筆を折り、それで、君も気づいたように削り直した。これはおもしろい ね、ワトソン。鉛筆はありきたりのものじゃないよ。普通サイズより大きく、柔らかい芯、外側の色は紺、 メーカーの名は銀色に印字され、残っている部分の長さは一インチ半ほどしかない。そんな鉛筆を探せば、 ソームズさん、お目当ての男が捕まりますよ。その男が大きくて非常になまくらなナイフを持っているこ とを付け加えれば、さらに助けになりますかね。」
 ソームズ氏はこの情報の洪水にやや圧倒された。「ほかの点は理解できますが、」彼は言った、「実際、 その長さの問題は--」
 ホームズはNNの文字とその後に何もない木の余白がある小さな削り屑を掲げた。
 「おわかりかな?」
 「いいえ、いまだにどうも--」
 「ワトソン、いつも君を不当に扱ってきたんだね。ほかにもいるんだ。いったいこのNNは何か?単語の 終わりだ。Johann Faberが最もよく知られたメーカーの名であることは知ってるでしょう。普通にJohannの 後に続くちょうどその分だけ鉛筆が残っているのは明らかじゃないですか?」彼は小さなテーブルをはす かいにして電灯の光にかざした。「男の書いた紙が薄ければ、何か下まで通った跡がこの磨き上げられた 表面にあるかもしれないと思っていたんだが。いや、何も見えない。ここから学ぶことはもう何もなさそ うだ。今度は中央の机だ。この小さな球が君の話した黒いパン生地のような塊かな。おおよそピラミッド 型にくり抜くように取れたものと思われる。君の言うように、おが屑の粒々が中に見えるね。ほう、これ は非常におもしろい。それと切り傷--はっきりした裂け目だ、なるほど。初めは細いかき傷だが最後は ぎざぎざの穴だ。この事件に僕の注意を向けてくれて本当にありがとう、ソームズさん。あのドアはどこ に通じてます?」
 「私の寝室です。」
 「この事が起きてから中に入りましたか?」
 「いいえ、直接あなたのところへ出ました。」
 「ちょっと見てみたいですね。何と素敵な、古風な部屋だろう!できればちょっと、どうか待ってくだ さい、床を調べてしまいますから。いや、何も見えない。このカーテンはどうなっているのかな?後ろに 洋服をつるしてますね。誰かがこの部屋で隠れざるをえないとすると、そこよりほかにないな。ベッドは 低すぎるし、洋服ダンスは浅すぎるから。誰もそこにいないだろうな?」
 カーテンを引くホームズの少し硬くなって警戒する態度から、彼が非常時に備えているのがわかった。 実際には、カーテンを引いても、並んだ釘から下がった三、四着の服のほかには何も現れなかった。ホー ムズは目をそらし、不意に床にかがんだ。
 「おや!何だこれは?」と彼は言った。
 それは黒いパテのような材質の小さなピラミッドで、書斎の机の上のものと寸分違わぬものだった。ホ ームズはそれを開いた手のひらにのせ、まぶしい電灯の光にかざした。
 「お客様は居間同様、君の寝室にも跡を残したようだね、ソームズさん。」
 「いったいそこに何の用があったんでしょう?」
 「まったく明らかだと思いますよ。君が思いがけない方から戻ってきたものだから、男は君がそこの戸口に 来るまで警戒してなかったのだ。どうしたらよかった?正体がわかるものをすべて急いでつかみ、寝室に 駆け込んで隠れたのさ。」
 「何とまあ、ホームズさん、私がこちらの部屋でバニスターと話している間ずっと、知ってさえいれば その男を捕まえられたと言うつもりですか?」
 「そう僕には思われます。」
 「確かにもう一つ、別の可能性がありますよ、ホームズさん。どうでしょう、寝室の窓はご覧になりま したか?」
 「ガラス格子、鉛の枠、三つの窓に分かれ、一つはちょうつがいで開く、人一人入るのに十分な大きさ。」
 「その通りです。それに中庭の角に面していて見えにくくなっているんです。男はそこから入ってのけ て、寝室を通り過ぎる時に跡を残し、最後にドアが開いているのを見つけてそっちへ逃げたのかもしれま せんよ。」
 ホームズはもどかしそうに首を振った。
 「現実的に行きましょう」と彼は言った。「君の言うにはここの階段を使う学生は三人いて、いつも君 の部屋の前を通るということだね?」
 「そう、三人です。」
 「それでその全員が今度の試験を受けるんだね?」
 「そうです。」
 「誰か一人をほかの二人より疑う理由はありますか?」
 ソームズはちゅうちょした。
 「大変答えにくい質問です」と彼は言った。「証拠もないのに疑いをかけたくないですからね。」
 「その疑わしいところを聞かせてください。証拠は僕が何とかするから。」
 「では、ここの部屋に住んでいる三人の性格を簡単に申しましょう。三人のうちいちばん下のギルクリ ストは、優秀な学生でスポーツマン、学寮のラグビーのチームとクリケットのチームでプレーし、ハード ルと走り幅跳びは大学の代表です。すばらしい、男らしいやつです。父親は有名な、競馬で破産したサー・ ジェイベズ・ギルクリストです。うちの学生は非常に貧しい状態で残されましたが、勤勉な勉強家です。 彼は成功するでしょう。
 三階にはインド人のダウラット・ラスが住んでいます。無口で不可解な男です。たいていのインド人の 連中と同じで。自分の勉強のことはよく知っていますが、ギリシャ語は苦手な科目です。堅実で几帳面で す。
 最上階はマイルズ・マクラーレンの部屋です。その気になれば天才的なやつで--大学でも最も優れた 知性を持つ一人です。しかし彼はわがままで、道楽者で、道義心に欠けています。一年の時にカードでの 不祥事で危うく退学になるところでした。彼はこの学期はずっと怠けていましたから、試験を待つのも不 安にちがいありません。」
 「では彼を疑っているのですね?」
 「あえてそこまではちょっと。しかし、三人のうちでは彼が、もしかしたらあっても不思議がないですね。」
 「そうですね。さて、ソームズさん、ちょっと召使のバニスターに当たってみますか。」
 それは小柄な、青い顔をしてひげはきれいにそり上げた白髪頭の五十男だった。彼はまだこの、突然彼の生 活の穏やかな日常をかき乱したものに苦しんでいた。その太った顔は不安にひきつり、指はじっとしてい られなかった。
 「私たちはこの不幸な事件を調査しているのだ、バニスター」と彼の主人が言った。
 「はい。」
 「君が、」ホームズが言った、「ドアに鍵を置き忘れたんだってね?」
 「さようでございます。」
 「この試験問題が中にあるというちょうどその日にそんなことをするなんて、実に異常なことじゃないかな?」
 「きわめて不運なことでございました。しかしほかにも時々同じことをしたことがございます。」
 「いつ部屋に入りました?」
 「四時半ごろでした。それがソームズ様のお茶の時間でございます。」
 「どのくらいそこにいたかな?」
 「ご不在とわかってすぐに引き下がりました。」
 「机の上の試験問題を見たかね?」
 「いいえ--とんでもないことでございます。」
 「どうして鍵をドアに忘れることになったろう?」
 「手にお茶の盆を持っておりました。鍵は取りに戻ればいいと考えたのです。その後忘れました。」
 「外側のドアにバネ錠はついているのかな?」
 「いいえ。」
 「ではずっと開いていたのだね?」
 「さようでございます。」
 「誰か部屋の中にいれば出られたね?」
 「はい。」
 「ソームズさんが戻って君を呼んだ時、ずいぶん動転したってね?」
 「はい。こちらに参りまして長年の間、このようなことは一度も起こりませんでした。気絶するところ でございました。」
 「そうだってねえ。気分が悪くなりかけた時に君はどこにいましたか?」
 「私がどこに、でございますか?ええと、ここ、ドアの近くでした。」
 「それは奇妙だねえ、君はあの向こうの隅の近くの椅子に腰を下ろしたんじゃないか。なぜこの辺のほ かの椅子を素通りしたね?」
 「わかりません、どこに座りましてもかまいませんでした。」
 「本当にそれはあまりよくわからなかったと思いますよ、ホームズさん。すごく具合が悪そうでしたか ら--まったく幽霊のように。」
 「ご主人が出て行った時、ここに残ったね?」
 「ほんの一分かそこいらです。それからドアの鍵を閉め、自室に参りました。」
 「誰を君は疑う?」
 「おお、私などに申し上げられることではございません。この大学にそのような行為で利益を得ること ができる方がいるとは思いません。ええ、決してそんなことは信じません。」
 「ありがとう、結構だよ」とホームズは言った。「ああ、もう一言。君が世話している三人の誰かに何 か不都合があったことは言ってないね?」
 「はい--一言も。」
 「彼らの誰かに会わなかったかい?」
 「はい。」
 「結構。さあ、ソームズさん、よかったら中庭を散歩しましょうか。」
 迫り来る闇の中、私たちの上に三つの四角い明かりが黄色く輝いていた。
 「三羽の鳥はみんな巣の中ですね」と、ホームズは見上げながら言った。「おや、あれはどうしたんだ? 中の一人はずいぶん落ち着かないようだね。」
 それはインド人で、その黒いシルエットが突然ブラインド上に現れたのだ。彼は足早に部屋を行ったり 来たりしていた。
 「それぞれのところをちょっとのぞいてみたいんですが」とホームズが言った。「できますか?」
 「まったく問題ありません」とソームズは答えた。「この部屋の一角は学寮でもいちばん古いところで、 訪問客が視察するのも珍しいことではありません。さあこちらへ、私が自分で案内しましょう。」
 「どうか名前は出さずに!」とホームズは、ギルクリストの部屋をドアをノックする時に言った。背の 高い、亜麻色の髪の、細身の若い男がそれを開け、私たちの用向きを知って歓迎した。確かに室内には 中世の家庭建築様式の珍しいものがいくつか見られた。ホームズはその一つにすっかり魅せられ、それを 手帳に描くんだと言い張り、鉛筆を折り、部屋の主から一本借りなければならず、挙句に自分のを削るた めにナイフも借りた。奇妙なことに同じ事がインド人の部屋でも起こった--無口で小柄、鉤鼻の男は私 たちを横目でじろじろ見、ホームズの建築学の研究が終わりになった時には明らかに喜んでいた。どちら の場合にも、ホームズが捜している手がかりに出会ったのかどうか、私にはわからなかった。三番目だけ は私たちの訪問は失敗に終わった。ノックしたが外のドアはどうしても開かず、その後ろから何の意味も ないののしりが浴びせられるばかりだった。「あんたが誰だってかまうもんか。くたばっちまうがいい!」 と腹立ちまぎれの怒鳴り声が言った。「明日は試験なんだ、誰とも話しなんかしないぞ。」
 「無礼な奴だ」と私たちの案内人は怒りに顔を赤くして言った。私たちは引き下がって階段を下りた。 「もちろん、ノックしているのが私だとわからなかったのですが、それにしても彼のふるまいは実に礼儀 知らずですし、それに、実際、この状況ではかなり怪しいですね。」
 ホームズの反応は奇妙なものだった。
 「彼の正確な身長はわかりますか?」と彼は尋ねた。
 「実のところホームズさん、断言はできかねますが。インド人よりは高くてギルクリストほど高くはあ りません。五フィート六インチといったところだと思います。」
 「非常に重要なことなんです」とホームズは言った。「さてそれではソームズさん、ごきげんよう。」
 私たちの案内人は驚きうろたえて大声に叫んだ。「何ですって、ホームズさん、まさかこんな風にいき なり私を見捨てるつもりじゃないでしょうね!状況がおわかりではないようだ。明日は試験です。私は今 夜明確な行動をとらなければなりません。問題用紙の一枚がいじられているのに、このまま試験を行うわ けにはいきません。事態に立ち向かわなければいけません。」
 「そのままにしておかなければいけません。明日朝早く必ず寄りますから、そのことについて話しまし ょう。あるいはその時には何か行動の方針を示すことができるかもしれません。それまでは何も変更しな いように--一切何も。」
 「わかりました、ホームズさん。」
 「すっかり安心していていいですよ。きっと困難を抜け出す方法を見つけますから。黒い粘土は持って 行きますよ、それと鉛筆の削りかすも。おやすみ。」
 暗い中庭に出た私たちは再び窓を見上げた。インド人はまだ部屋を歩き回っていた。ほかの二人は見え なかった。
 「さて、ワトソン、君はどう思う?」大通りに出た時にホームズが尋ねた。「ちょっとした室内ゲーム だね--三枚のカードを使った手品のようなものじゃないかな?三人の男がいる。そのうちの一人にちが いない。好きなのを取りたまえ。どれにする?」
 「いちばん上の口汚い奴だ。彼は履歴もいちばん悪い。でもインド人もずるい奴だな。なぜ部屋をずっ と歩き回らなければならんのだろう?」
 「それは何でもないさ。何かを暗記しようとする時には多くの人がすることだ。」
 「変な風に私たちを眺めていたよ。」
 「君だってそうだろう、翌日の試験の準備をしていて一刻一刻が貴重という時に見知らぬ連中の一団が やってきたら。いや、それは何でもなさそうだ。鉛筆も、それとナイフも--みんな申し分なしだ。しか し、あの男はふに落ちないな。」
 「誰だい?」
 「なに、バニスターだよ、召使の。この件で何をたくらんでいるんだろう?」
 「まったく正直な男という印象を受けたがね。」
 「僕もそう思った。そこがふに落ちないところなんだ。なぜまったく正直な男がだよ--まあいい、ま あいい、ここに大きな文房具屋がある。ここから調査を始めるとしよう。」
 町に主要な文房具屋は四軒だけで、それぞれでホームズは鉛筆の削り屑を出してみせ、同じものに高値 を提示した。どの店も、それは注文できるが、その鉛筆は普通のサイズではなく、めったに在庫を置い ていないということで一致していた。友は不首尾に落ち込んだ様子もなく、肩をすくめて半分おどけてあ きらめた。
 「だめだね、ワトソン君。この、最良にして唯一決定的な手がかりが何にもならなかったね。しかしね、 実際僕は、それなしでも十分な事実を打ち立てられることを疑わないな。おや!ねえ君、もうすぐ九時じ ゃないか、おかみさんはグリーンピースは七時半と言っていたよ。君のひっきりなしの煙草やら、ワトソ ン、食事の時間の不規則なことやらで、きっと君は立ち退きを言い渡されるだろうし、僕も君の転落の巻 き添えだよ--だが、その前に神経質な教師と、不注意な召使と、三人の意欲満々の学生たちの問題を解 決しなければだめだ。」
 ホームズはその日、もうその件については言及しなかったが、遅れた夕食の後長いこと物思いにふけっ ていた。朝八時、ちょうど私が身じまいを終えたところへホームズが部屋に入ってきた。
 「さて、ワトソン、」彼は言った、「セント・ルークスへ出かける時間だよ。朝食抜きでもいいかい?」
 「もちろん。」
 「僕たちが何かはっきりしたことを言ってやるまでソームズは恐ろしくいらいらしているだろうね。」
 「何かはっきりしたことが言えるのかね?」
 「そう思う。」
 「結論が出ているのか?」
 「うん、ワトソン君、謎はもう解いたよ。」
 「だがどんな新たな証拠を手に入れたんだ?」
 「ハ!朝早くから六時に起きだしたのも無駄ではないってことだ。二時間懸命に働き、少なくとも五 マイルを歩き通した結果、見るべきものあり、さ。これを見たまえ!」
 彼は手を差し出した。手のひらには黒い、パン生地のような土の、三つの小さなピラミッドがのっていた。
 「おや、ホームズ、昨日は二つだけだったぞ。」
 「そして今朝もう一つだ。三つ目のあったところが、また第一、第二のものの出所でもあるというのは 正当な議論だろ。ええ、ワトソン?ではと、行って友ソームズを苦しみから救い出してやろう。」
 不幸な指導教員は、部屋に行ってみると、確かに哀れなほど動揺していた。数時間のうちに試験は始ま ろうとしていて、彼はいまだに事実を公表するか、犯罪者が貴重な奨学金を目指して競い合うのを許すか のジレンマに陥っていた。彼はじっとしていることもできず、あまりに精神の動揺が激しいので、ホーム ズの方へ待ちきれないように手を差し伸べながら駆け寄った。
 「ありがたい、来てくれたんですね!あきらめて放り出してしまったんじゃないかと思いましたよ。私 はどうしたらいいのです?試験は続行しましょうか?」
 「ええ、ぜひ続行してください。」
 「しかしあのならず者は?」
 「受けないでしょう。」
 「その男がわかっているんですね?」
 「そう思ってます。この問題を公にしてはいけないとすれば、僕たち自身が確かな権限を得て小さな私的軍法 会議に変じなければならない。君は、よかったらそこだ、ソームズ!ワトソン、君はこっちだ!僕は真ん 中の肘掛け椅子に座ろう。これでやましい心を震え上がらせる効果は十分だと思うよ。どうぞベルを鳴らして!」
 バニスターが入室し、私たちの裁判のような様子を見て明らかに驚き、おびえてしり込みした。
 「どうかドアを閉めてください」とホームズが言った。「さて、バニスター、昨日の出来事について本 当のことを教えてもらえませんか?」
 召使は髪の根元まで青くなった。
 「すべてを申し上げております。」
 「付け加えることはないかね?」
 「まったくございません。」
 「そう、それでは、君にちょっと思いつきを聞いてもらわなければいけないな。君が昨日あの椅子に座 っていた時のことだが、何か、誰が部屋にいたのかが明らかになってしまう物を隠すためにそうしたんだね?」
 バニスターの顔は死人のようだった。
 「いいえ、とんでもない。」
 「ほんの思いつきだ」とホームズはもの柔らかに言った。「それを証明できないことは率直に認めるよ。 しかしどうもそうらしいねえ。だってソームズさんが背中を向けたとたんに、君はあの寝室に隠れていた 男を出してやったんだから。」
 バニスターは乾いた唇をなめた。
 「どなたもいらっしゃいませんでした。」
 「ああ、残念だな、バニスター。今まで君は本当のことを話していたかもしれないが、今嘘をついてし まったね。」
 召使の顔は不機嫌な反抗の態度を示した。
 「どなたもいらっしゃいませんでした。」
 「さあ、さあ、バニスター!」
 「いいえ、誰もおられませんでした。」
 「そうなると、君からはもう情報をもらえないな。部屋に残ってもらえませんか?向こうの寝室のドア に近くに立って。さあ、ソームズ、大変申し訳ないが、ギルクリスト青年の部屋まで上がっていって、君 のところへ降りてくるように頼んでもらいたいと思っているんだがね。」
 すぐに指導教員は学生を連れて戻った。彼は立派な体格の男で、背が高く、しなやかで機敏、軽快な足 どりで、感じのよい、正直な顔をしていた。その不安そうな青い目が私たちのそれぞれをちょっと見て、 最後にすっかりうろたえた表情で、遠い隅にいるバニスターに向いた。
 「ちょっとドアを閉めてください」とホームズが言った。「さて、ギルクリスト君、ここはまったく僕 たちだけですし、僕たちの間で交わされた言葉は誰にも知らせる必要がありません。互いに完全に率直に なれるわけです。僕たちは知りたいのですが、ギルクリスト君、一体どうして君のような名誉ある人が、昨日のあ のような行為を犯すことになったのかな?」
 不幸な青年はよろよろと下がり、恐怖と非難に満ちた目をバニスターに向けた。
 「いいえ、いいえ、ギルクリスト様、私は一言も申しません--決して一言も!」と召使は叫んだ。
 「そう、だが今言ってしまったね」とホームズが言った。「ほら、ほら、バニスターがああ言ったから には君の立場は絶望的だし、率直に告白するほか見込みがないことはわかりますね。」
 しばらくの間、ギルクリストは手を持ち上げて苦痛にゆがむ顔を抑制しようとした。次の瞬間、彼はひ ざをつき、そばの机に身を投げ出し、顔を両手に埋め、ワッとばかりに激しくしゃくり上げだした。
 「さあ、さあ、」ホームズは優しく言った、「過ちを犯すのが人間だし、少なくとも誰も君のことを平 気で罪を犯すといって責めはしないよ。たぶん何が起こったのかを僕がソームズさんに話す方が君には楽 だろうね。僕の間違っているところを君がチェックできるし。そうしようか?まあ、まあ、わざわざ答え なくていい。聞きたまえ、そして僕が君のことで間違った判断をしていないのを確かめたまえ。」
 「ソームズさん、君が僕に、誰も、バニスターでさえも、問題が君の部屋にあると知らなかったと言っ た瞬間から、事件は僕の頭の中で明確な形を取り始めたのです。印刷業者はもちろん除外していい。自分 の事務所で問題を調べればいいのですから。インド人も僕は考えに入れませんでした。校正刷りが巻いて あったなら、それが何であるか、彼にはとてもわからなかったでしょう。一方、誰かが思い切って部屋に 入ったら、思いがけなくもちょうどその日に試験問題が机の上にあったなどというのは考えられない偶然 の一致のようです。僕はその考えを捨てました。中に入った男は問題がそこにあるのを知っていたので す。どうやって知ったのか?
 君の部屋にやってきた時に僕が窓を調べたろう。君は笑わせてくれたね、誰かが白昼堂々、反対側の部 屋のあらゆる人の目があるのにそこから押し入ったという可能性を僕が考えている、と君は思ったんだ。 それはばかげた考えだった。僕はね、中央の机の上に何の紙がのっているかを通りすがりに見るためには どのくらい背があればいいかを測っていたんだ。僕は六フィートだが、僕でやっとそれができた。それ以 下の者では見込みはないはずだ。もうわかるでしょう、三人の学生の一人が並外れて背の高い男な ら、三人のうちで最も注意を払う価値があると考える理由が僕にはあったのです。
 僕は部屋に入り、サイドテーブルについて考えられることを君に明かしました。中央の机については何 も役立てられなかったが、そこへ君がギルクリストを描写して走り幅跳びの選手だと言うではないか。そ の時、一瞬のうちに事の全体が僕の頭に浮かび、僕に必要なのは確かな裏づけとなる証拠だけとなり、僕 はそれを速やかに手に入れたのです。
 起こったことはこうです。この若者は午後を運動場でジャンプの練習をして過ごしていました。彼は運 動靴を持って戻りましたが、それにはご存知のようにいくつか鋭いスパイクが付いています。この部屋の 窓を通り過ぎる時に彼は、その高い身長を利して机の上の校正刷りを見て、それが何であるか推測しまし た。そんなことになっていなかったら何も悪いことは起こらなかったのでしょうが、彼はドアを通り過ぎる時、 鍵が召使の不注意で置き忘れられていることに気づいたのです。突然、中に入ってそれが校正刷りかどう か確かめようという衝動が彼を襲いました。それは危険な行為ではなく、いつでも単に質問をするために ちょっと寄ったふりをすることができたのです。
 さて、それが本当に校正刷りであることを見たその時、彼は誘惑に負けました。彼は机の上に靴を置き ました。あの窓のそばの椅子の上に置いたものは何ですか?」
 「手袋です」と若い男は言った。
 ホームズは勝ち誇ったようにバニスターを見た。「彼は手袋を椅子の上に置き、校正刷りを一枚ずつ取 り、写しを取りました。先生は正門から戻るにちがいない、それなら見えるはずだ、と彼は考えました。 知っての通り、先生は側門から戻ってきました。突然彼はそこのドアに音を聞いたのです。逃げることは 不可能でした。手袋を忘れたものの、靴は引っつかみ、彼は寝室に駆け込みました。見ればわかるが机の 上の引っかき傷は片方の端ではわずかだが、寝室のドアに向かって深くなっている。そのこと一つだけで も、靴がその方向に引っ張られたこと、犯人がそこへ逃げたことを示しています。スパイクのまわりの土 が机の上に残され、第二の見本は寝室ではがれて落ちました。付け加えさせてもらえば、僕は今朝、運動 場まで歩いて出かけ、幅跳びの走路に黒い粘性の土が使われていることを確かめ、その標本と、選手が滑 らないようにそこに撒かれている細かい樹皮の粉かおが屑を少し、一緒に取ってきました。僕の話したこと は真実ですか、ギルクリスト君?」
 学生は背筋をまっすぐにして立っていた。
 「はい、真実です」と彼は言った。
 「何てことだ!付け加えることはないのか?」とソームズが叫んだ。  「ええ、あります、が、この恥ずべきことの露顕にうろたえてしまって。ここに手紙があります、ソー ムズ先生、これは眠れぬ夜のまま、朝早く書いたものです。それは僕が罪を犯したことが発見されたと知 る前のことです。さあ、これです。こう書いてあるとわかるはずです。『私は試験を受けないことに決め ました。ローデシア警察への就職の申し出を受けていますので、直ちに南アフリカへ移住するつもりです。』」
 「君に不正に乗じて利益を得るつもりがなかったと聞いて私は本当に嬉しい」とソームズは言った。 「しかしなぜ考えを変えたのかね?」
 ギルクリストはバニスターを指さした。
 「その男が僕を正道につかせてくれたのです」と彼は言った。
 「さあさあ、バニスター」とホームズが言った。「僕が言ったことから明らかだろう、君しかこの若者 を外に出せなかったことは。だって君は部屋に残り、出て行く時にはドアに鍵をかけなければならなかっ たのだからね。あの窓から逃げるなどは信じられないことだったし。この謎で最後に残った点を解いて、 君の行動の理由を僕たちに教えてもらえまいか?」
 「ご存知でさえあればまったく簡単なことでしたが、でもいくら頭がおよろしくても、知れるはずの ないことでございます。以前、私はこちらの若い方の父君、サー・ジェイベズ・ギルクリスト老の執事だ ったことがあるのです。主人が破産して、私は召使として学寮に参りましたが、決して元の主人を忘れた ことはございません。何しろ落ちぶれてしまわれたのですから。昔のことを思い、私はできる限りご子息 を見守ってまいりました。さて、昨日この部屋に参りました時、非常を知らされ、真っ先に私が目にした のがあの椅子の上に置いてあるギルクリスト様の黄褐色の手袋でした。あの手袋はよく存じていましたし、 その告げるところもわかりました。ソームズ様がご覧になれば、万事休すです。私はバッタリとその椅子 に倒れこみ、ソームズ様があなたのところへお出かけになるまで何としても動くものではありませんでした。 一人になったところへ、このひざの上であやしたこともある、お気の毒な若主人が出てこられまして、す べてを私に告白されました。私がお救いするのは当然のことではないでしょうか、また、私が亡き父上に代わっ てお話し申し、そのような行為で利益を得てはならないことをおわかりいただこうとするのは当然のこと ではないでしょうか?私を非難できますでしょうか?」
 「いや、全然」と、ホームズは心から言い、パッと立ちあがった。「では、ソームズ、僕たちは君のちょっとし た問題を解き終えたようだし、家では朝食が待っているんだ。行こう、ワトソン!君のことはね、ローデ シアで輝かしい未来が待っていると信じていますよ。一度だけ、堕落してしまいましたね。将来、どこま で高く昇れるか、僕たちに見せてください。」

金縁の鼻眼鏡(The Adventure of the Golden Pince-Nez)

1894年の私たちの仕事を記録した三巻にのぼる大部の原稿を調べてみると、実を言って、その豊富な材料 の中から、それ自体最も興味深いと同時に、我が友を有名にしたあの特有の能力を最もお見せしやすい事件を選び出す のは非常に難しい。ページをめくると、赤いヒルと銀行家クロスビーの惨死にまつわるぞっとするような物語 の記録がある。ここにはまたアドルトンの悲劇とイギリス古代塚の中にあった奇妙なものに関する顛末も 見られる。有名なスミス-モーティマー相続事件もこの期間に起こり、ブールヴァールの暗殺者、ユレー の追跡、逮捕--その功績によりホームズはフランス大統領直筆の礼状とレジオンドヌール勲章を勝ち得 た--もそうである。そのどれもが物語の種になりうるが、私の意見では大体においてそのどれもが興味 ある非凡な点をヨクスリイ・オールド・プレイスのエピソードほど多くは持ち合わせていない。それはウ ィロビー・スミス青年の悲しい死にとどまらず、それに続いて起こった新たな出来事が犯罪の原因を解く不思 議な光を投じたのである。
 それは十一月も終わりに近い、激しい嵐の夜だった。ホームズと私は夕方からずっと一緒に無言で座り、 ホームズは強力なレンズを用いてパリンプセストの元々の記述の名残を解読する作業に夢中で、私は最近 の外科の論文を耽読していた。外では風がうなりをあげてベーカー街を吹き抜け、雨は激しく窓を打って いた。どの方向にも十マイルにわたって人間の作ったものがあるここ、都会の深奥部にいて、自然の冷徹 な支配を感じ、大自然の力の前ではロンドン全体が野原に点在するモグラ塚同様であると意識するのは不 思議なことだった。私は窓へ歩み寄り、人気のない外の通りを見た。臨時の街灯が、広がるぬかるみの道と 輝く舗道にきらめいていた。馬車がたった一つ、オックスフォード街のはずれから水音を立ててやってき た。
 「やれやれ、ワトソン、今夜は出かけないですんでかえってよかったよ」と、ホームズがレンズをわき に置き、パリンプセストをくるくる巻きながら言った。「十分ひと仕事したよ。目が疲れる作業でね。僕の 理解するところ、十五世紀後半にさかのぼる大寺院で書かれたものほどわくわくするものはないね。おや! おや!おや!どうしたんだ?」
 風のうなる中、馬がひづめを踏み鳴らす音、縁石をこする車輪の長いきしり音が聞こえてきた。私の見 た馬車が私たちの家の前で止まった。
 「何の用があるんだろう?」男が降りるのを見て私は叫んだ。
 「用?僕たちに用があるのさ。そして我々には、ねえワトソン、コートにクラヴァットにオーバーシュ ーズに、それから雨風と闘うために発明されたありとあらゆる道具が必要だ。でもちょっと待てよ!馬車 はまた行っちまった!まだ望みはある。僕たちに行って欲しいならあれは留めておくだろう。ねえ君、急 いで行ってドアを開けたまえ、善男善女はみんなとうにお休みだからね。」
 玄関のランプの光が真夜中の訪問者に当たり、苦もなく誰だかわかった。それは将来有望な刑事、スタ ンリイ・ホプキンズ青年で、その仕事にホームズは何度かきわめて実践的な関心を示したことがあった。
 「おいでですか?」と彼は急き込んで尋ねた。
 「さあ上がって、君」とホームズの声が上から言った。「こんな夜に君が何かたくらんでないことを願 うよ。」
 刑事は階段を昇り、部屋の明かりがその光るレインコートに戯れていた。それを私が手伝って脱がせ、 ホームズは火床のまきから急いで火を起こした。
 「さあ、ホプキンズ君、近寄って足を暖めたまえ」と彼は言った。「葉巻をどうぞ、それから先生が温 かいレモン水を処方してくれるよ、こんな夜には最高の薬だからね。こんな嵐に出てきたからにはきっと 何か重要なことだろうね。」
 「まったくそうなんです、ホームズさん。請け合いますがね、忙しい午後でした。最新版でヨクスリイ 事件のことを何かご覧になってませんか?」
 「今日は十五世紀より後のことは何も見ていないんだ。」
 「まあ、ほんの小記事ですし、それも間違いだらけですから、何を見逃したわけでもないんですが。私はぐ ずぐずせずに行動にかかりました。南はケント州、チャタムから七マイル、鉄道路線から三マイルのとこ ろです。三時十五分に電報を受け、五時にヨクスリイ・オールド・プレイスに着き、調査を行って、終列 車でチャリング・クロスに戻り、馬車でまっすぐにあなたのところへ。」
 「ということは、事件があまりはっきりしないんだね?」
 「つまり、私にはちっとも理解できないのです。私の見る限り、事のもつれようは始終扱っているもの と同程度で、それに初めは間違いようのないほど単純だと思われたのですが。動機がないんです、ホーム ズさん。それが悩みの種でして--動機をつかむことができません。ここに死んだ男がいる--それは否 定できない--しかし、私の見る限り、誰かがその男に危害を加えたがる理由はまったくありません。」
 ホームズは葉巻に火をつけ、椅子の背にもたれた。
 「それを聞かせてもらおうか」と彼は言った。
 「事実はかなりはっきりつかみました」とスタンリイ・ホプキンズは言った。「今はそれがいったい何を 意味するのか知りたいだけです。話は、私の知る限りではこうです。数年前、この田舎の家、ヨクスリイ ・オールド・プレイスをコラム教授と名乗る年配の男が買いました。その人は病人でしょっちゅう寝てば かりいまして、そうでない時は杖で家の周りをよろよろと歩くか、庭師に車椅子を押させて庭を回ってい ました。彼を好いて訪ねてくる隣人もほとんどなく、あの辺りでは非常に学識のある人という評判があり ます。世帯は以前、年配の家政婦、マーカー夫人とメイドのスーザン・タールトンから成っていました。 二人とも彼がそこへ来た時から一緒で、性格も申し分のない婦人たちのようです。教授は学術書を執筆し ており、一年ほど前、秘書を雇う必要を感じました。最初の二人は試しに使ったところ、うまくいきませ んでしたが、三番目の、大学を出立ての非常に若い男、ウィロビー・スミス氏はまさに雇い主の望み通り だったようです。その仕事は午前中を通して教授の口述を書き取ることで、夕方はいつも翌日の仕事に関 係のある参考文献や文章を捜して過ごしました。このウィロビー・スミスは少年時代のアピンガムでも、 青年時代のケンブリッジでも反感を持たれてはいませんでした。私は彼の推薦状も見ましたし、それに最 初から彼はきちんとした、静かで、勤勉な男で、弱点もまったくありませんでした。それなのに、これが 今朝、教授の書斎で、殺人としか考えられない状況で死んでしまった若者なのです。」
 窓に当たる風はヒューヒューとうなっていた。ホームズと私は火に近づき、若い警部はその奇妙な話をゆっ くりと逐一展開した。
 「仮にイングランド中を捜したとしても、」彼は言った、「あれ以上自己充足的で外からの影響のない 家庭は見つからないでしょうよ。まる何週間が過ぎても、誰一人庭の門から外へ出ないのです。教授は仕 事に没頭し、そのためだけに生きています。スミス青年は近所の人は誰も知りませんし、大体雇い主と同 じように暮らしていました。二人の婦人はこの家をやめる理由はありませんでした。車椅子を押す庭師の モーティマーは軍人恩給の受給者で--クリミア戦争に従軍した老人で申し分のない性格です。彼はこの 家ではなく、庭の反対側にある小さな家に住んでいます。これだけの人々しかこのヨクスリイ・オールド ・プレースの敷地内にはいないのです。同時に、庭の門はロンドンからチャタムに通じる本道から百ヤー ド離れています。それは掛け金だけで開きますので、誰かが歩いて入るのを防ぐものはありません。
 それではスーザン・タールトンの証言を披露しましょう。この件ではっきりしたことを言える唯一の 人物です。午前中の、十一時と十二時の間のことでした。彼女はその時せっせと二階の正面の寝室のカーテンをい くつかかけていました。コラム教授はまだ寝ていました。というのも天気の悪い日はめったに昼前に起き ないのです。家政婦は家の裏手で何かの仕事を忙しくしていました。ウィロビー・スミスは居間としても 使っている彼の寝室にいましたが、メイドはその時彼が廊下を通って彼女の真下の書斎に下りてゆくのを 聞きました。彼女は彼を見ませんでしたが、彼の足早なしっかりした歩き振りを間違えるはずはないと言 っています。彼女は書斎のドアの閉まる音を聞きませんでしたが、一分かそこらの後、下の部屋で恐ろし い叫び声がしました。それは荒々しい、かすれた叫び声で、男女の区別もつかないほど聞きなれない、不 自然なものでした。同時にドサッと重い音がして、古い家を揺らし、それからすっかり静まり返りました。 メイドはしばらく棒立ちになっていましたが、その後、勇気を取り戻し、階下へ駆け下りました。書斎の ドアは閉まっており、彼女は開けました。中には、ウィロビー・スミス氏が床に大の字になっていました。 初め彼女には傷が一つも見えませんでしたが、彼を起こそうとして、首の下から血が流れ出ているのが見 えました。それは突き刺された、非常に小さいけれども非常に深い傷で、頚動脈を断たれていました。傷 を負わせた道具はじゅうたんの上の彼のそばに転がっていました。古風な書き物机などで見られる、よく ある小さな封ろう用ナイフで、象牙の柄に硬い刃がついています。教授自身の机の備品の一つです。
 初めメイドはスミス青年は既に死んでいると思いましたが、水差しの水を彼の額にかけるとすぐに、一 瞬彼が目を開けました。『教授、』彼は小声で言いました--『あの女です。』メイドはそれが正確な言 葉であることをいつでも宣誓するそうです。彼は必死になってほかにも何か言おうとして右手を空中に持 ち上げました。それから彼は後ろに倒れて死にました。
 その間に家政婦も現場にやってきましたが、青年の死に際の言葉を聞き取るにはちょうど間に合いません でした。スーザンを死体と共に残し、彼女は教授の部屋へ急いでいきました。彼はベッドに起き直り、ひ どく動揺していました。彼にもよく聞こえて何か恐ろしいことが起きたのを確信していたからです。マー カー夫人にはいつでも宣誓する用意がありますが、教授はまだ寝巻き姿でしたし、実際、彼にはモーティ マーの助けなしでは着替えるのは無理で、庭師は十二時に来るよう指示されていました。教授は遠くに叫 び声を聞いたがそれ以上何も知らないと断言しました。彼は青年の最後の言葉、『教授--あの女です』につ いて何の説明も与えられませんでしたが、精神錯乱の結果と想像しています。彼の信じるところ世界中にウィロビー・スミ スの敵はなく、犯罪の理由を示すことはできませんでした。彼が最初にとった行動は、庭師 のモーティマーに地元の警察を呼びに行かせたことでした。少したって警察本部長が私を呼んだのです。 私がそこに着くまで何物も動かされず、家に続く道は誰も歩いてはいけないと厳しく命令されました。あ なたの理論を実践に移すすばらしい機会でしたよ、ホームズさん。実際欠けているものは何もありません でした。」
 「シャーロック・ホームズ氏を除いてはね」と私の相棒はやや苦笑いをしながら言った。「まあ、それ を聞かせてもらおうか。どんな仕事を君はやったのかな?」
 「まず初めにホームズさん、この大ざっぱな図面に目を通していただけませんか。教授の書斎の位置と 事件のさまざまな問題点について大体のことがわかるでしょう。私の調査の話を追う助けにもなります。」
 ここに再現する大ざっぱな図を彼は広げ、ホームズのひざの上に置いた。私は立ち上がってホームズの 後ろに立ち、彼の肩越しにじっくり見た。

 「もちろん非常に大ざっぱで、私が大事だと思う点だけを取り上げているわけです。ほかのものは皆、 後でご自分でご覧になれますから。さて、まず第一に、殺し屋が家に入り込んだと仮定して、彼もしくは 彼女はどうやって入ったのでしょう。間違いなく庭の小道を通って裏口からであり、そこからは直接書斎 に入れます。ほかではきわめて入り組んだところを通ることになったでしょう。脱出もその道筋に沿って なされたものにちがいなく、ほかの二つの出口のうち一つは階段を駆け下りるスーザンによって妨げられ、 もう一つはまっすぐに教授の寝室に通じています。従って私は直ちに注意を庭の小道に向けましたが、そ れは新しく降った雨がしみこんでいて、間違いなく何らかの足跡が見えるものと思われました。
 調査の結果、私が相手にしているのは注意深い、熟練の犯罪者であることがわかりました。小道に一つ の足跡も見つからなかったのです。しかし、誰かが小道に沿った縁取りの芝を伝って通ったこと、跡を 残すのを避けるためにそうしたことは疑う余地がありません。はっきりした痕跡といえるものは何も見つ けられませんでしたが、芝は踏み倒されていて、誰かが通ったのは間違いありません。それは殺人者でし かありえなかったのです。なぜなら庭師にしろほかの誰かにしろその朝はそこにいませんでしたし、雨は 夜になって降りだしたのですから。」
 「ちょっと待って」とホームズが言った。「この小道はどこに通じている?」
 「道路です。」
 「どのくらい続く?」
 「百ヤードかそこらです。」
 「小道が門を通過する地点ではきっと足跡を発見できたろうね?」
 「あいにくそこのところで小道はタイル張りになっていました。」
 「では、道路の上には?」
 「いいえ、すっかり踏み荒らされてどろどろでした。」
 「ツッツッ!それではだね、その芝の上の跡は向かってきているものかね、去っていくものかね?」
 「それを申し上げるのは不可能です。輪郭さえありませんでした。」
 「大きな足、小さな足?」
 「見分けられるものではありませんでした。」
 ホームズは苛立ちの叫びを上げた。
 「それ以来雨は激しく降り続いているし嵐が吹き荒れ通しだ」と彼は言った。「もはやあのパリンプセストより も読み取るのは困難だろうね。まあ、まあ、しょうがない。それでホプキンズ、何も確認せずに終わった ことを確認し終えたところでどうしたね?」
 「たくさんのことを確認したと思いますよ、ホームズさん。誰かが外から注意深く家に入ったことがわ かったのです。次に私は廊下を調べました。ヤシのマットが敷き詰められていて、どんなものにせよ 跡はついていませんでした。これが書斎に通じています。そこはあまり家具のない部屋です。主な物は据 付けの引き出しつきの大きな書き物机です。これは二対の縦列の引き出しとそれに挟まれた中央の小さな 戸棚から成っています。引き出しは開いていて戸棚は錠が下りていました。引き出しはいつも開いていた らしく、貴重品は何も入っていませんでした。戸棚には大事な書類が多少ありましたが、これがいじられ た形跡はなく、教授が紛失したものがないのは確かだと言いました。強盗でないのは間違いありません。
 さていよいよ青年の死体です。その図に印してあるように、書き物机のそば、すぐ左側で発見されまし た。傷は首の右側を後ろから前へ刺したもので、自分でつけることはほとんど不可能です。」
 「ナイフの上に倒れない限りね」とホームズが言った。
 「その通りです。その考えも浮かびました。しかしナイフは死体から数フィート離れたところに見つか り、それも不可能のようです。その上、もちろん、彼自身の死に際の言葉があります。そして最後に、死 んだ男の右手に握り締められていたこの非常に重要な証拠品があります。」
 ポケットからスタンリイ・ホプキンズが引っ張り出したのは小さな紙包みだった。彼はそれを広げ、二 本の黒い絹の紐の切れ端が両端からぶら下がっている金縁の鼻眼鏡を出して見せた。「ウィロビー・スミ スの目は非常によかったのです」と彼は付け加えた。「これが殺し屋その人かその顔からひったくったも のであることは疑う余地がありません。」
 シャーロック・ホームズは眼鏡を手に取り、細心の注意を払い、興味深そうにそれを調べた。彼はそれ を鼻に当て、それで読んでみようと努め、そのまま窓辺に行って通りに沿って目を凝らし、明るいランプ に当ててそれを綿密に調べ、最後にくすくす笑って、テーブルに着席し、一枚の紙に数行書き込み、そ れをスタンリイ・ホプキンズの方へ放ってよこした。
 「僕にできるのはそのぐらいかな」と彼は言った。「後で何かの役に立つかもしれないね。」
 びっくりした刑事はその手配書を音読した。次のように書かれていた。

「お尋ね者、応対上手な女性、淑女の装い。驚くほど厚みのある鼻で、目はその両側に接近している。 額にしわがより、目を凝らすような表情で、おそらく肩は丸みを帯びている。彼女が最近二ヶ月の間に少 なくとも二度、眼鏡屋を利用した兆候がある。彼女の眼鏡が驚くほど度の強いこと、眼鏡屋があまり多数 はないことから、彼女を突きとめるのは難しくあるまい。」

ホームズはホプキンズの、そして私の顔にも映し出されていたにちがいない驚きを見てにっこりした。
 「僕の推論は確かに簡単そのものなんだ」と彼は言った。「眼鏡ほど、とりわけこういう驚くべき眼鏡 ほど推理を働かせる場を与えてくれる物は思いつかないんじゃないかな。これが女性のものだというのは それがきゃしゃなことから、それともちろん、死にゆく男の最後の言葉からも推論した。彼女が洗練され ていて身なりのよい人物だということについては、気づいているだろうが、この気前よく使った純金だ。 こういう眼鏡をかけている人がほかの点ではだらしないなんてことは信じられないからね。留め金具が君 の鼻には幅が広すぎるのはわかるだろう。その婦人の鼻が付け根のところですごく広がっていることを示 している。こういう類の鼻はたいてい寸詰まりで下品なものだが、例外も少なくないから独断やこの点に こだわって描写することは避けたんだ。僕の顔は細い方だが、それでもやってみると目をこの眼 鏡の中心どころか中心の近くにも合わせることができないんだ。従って、この婦人の目は非常に鼻の近く に寄っている。わかるだろう、ワトソン、眼鏡は凹レンズで異常に度が強い。生まれつきずっと極端な近 視だった婦人は必ずそうした視力が原因の肉体的特色を持っていて、額、まぶた、肩にそれが見られるも のだ。」
 「そうだ、」私は言った、「君の議論はいちいちよくわかるよ。しかし、実を言うと、二度眼鏡屋を訪 れたということをどうやって見つけたのか理解できないんだ。」
 ホームズは眼鏡を手に取った。
 「わかるだろう、」彼は言った、「鼻を圧迫するのをやわらげるために金具の裏にちっちゃなコルクの 帯があててある。その一方はほんの少しだが変色してすり切れているが、他方は新しい。明らかに一つは 取れて落ちて付け替えたんだ。僕の判断では古い方も一、二ヶ月以上はたっていない。それらはまったく 同一のものであり、そこで僕は女性が二度続けて前と同じ店に行ったと思ったのだ。」
 「いやあ、信じられない!」とホプキンズは感嘆のあまり夢中になって叫んだ。「私もその証拠をすべ て握っていながら今までわからなかったとは!それでも私もロンドンの眼鏡屋を回ってみるつもりではい ました。」
 「もちろんそうだろう。ところで、事件のことでほかに何か話すことはあるかね?」
 「ありません、ホームズさん。今では私と同じだけご存知と思います--おそらく私以上に。私たちは あの辺の道路や鉄道の駅で見知らぬ人間が見られなかったか聞き込みをさせました。何もありませんでし た。どうにもわからないのは犯罪の目的全体がまったく欠けていることです。動機の影すら誰一人思いつ かないんですから。」
 「ああ!その点、君を助けることはできないな。しかし明日は僕たちに出かけて欲しいんだろうね?」
 「無理なお願いでなければ、ホームズさん。朝六時、チャリング・クロス発チャタム行きの列車があり ますので、八時と九時の間にはヨクスリイ・オールド・プレイスに着くでしょう。」
 「ではそれに乗るとしよう。君の事件には確かに、いくつか非常におもしろい特徴があるし、喜んで調 べるとしよう。じゃあ、もうすぐ一時だし、数時間睡眠をとるのが何よりだ。おそらく君は暖炉の前のソフ ァでも何とか大丈夫だろうね。僕のアルコールランプをつけておくし、出かける前にコーヒーを一杯ご馳走 するよ。」
 強風は翌日には吹き止んでいたが、旅に出発するにはつらい朝だった。私たちは冷たい冬の太陽がテム ズの荒涼たる沼地、長く陰気に広がる川の向こうに昇るのを見た。そこはいつの日も私に、 アンダマン島人を追跡した若き日々の仕事を連想させるだろう。長く、退屈な旅の末、私たちはチャタムから数マ イルの小さな駅で降りた。土地の宿屋でトラップ馬車に馬がつけられている間に、私たちは急いで朝食を 取り、それで、ようやくヨクスリイ・オールド・プレイスに着いた時、私たちは皆、いつでも仕事に取り 掛かる気になっていた。巡査が庭の門で私たちを出迎えた。
 「それで、ウィルソン、何か新しい情報は?」
 「いえ、何も。」
 「見知らぬ者を見たという報告はなしか?」
 「はい。駅までの道、昨日は確かに見知らぬ人間は行き来してないそうです。」
 「旅館や宿屋の聞き込みはさせたのか?」
 「はい。我々に動きのつかめていない人間はいません。」
 「では、チャタムまで歩いたというのが唯一合理的か。誰にせよ気づかれずにそこに泊まったり列車に 乗ったりしたかもしれないな。これが私の話した庭の小道です、ホームズさん。名誉にかけて、昨日はそ こに足跡はありませんでした。」
 「芝に跡がついていたのはどちら側かな?」
 「こちら側です。この小道と花壇の間の狭い縁取りの芝です。今はもう跡が見えませんが、その時はは っきりしていました。」
 「そう、そうだ。誰かが伝って歩いている」とホームズは、芝の縁取りにかがみこんで言った。「この 女性は注意深く足を運んだにちがいない、ちがうかい?だって一方に踏み出せば小道に跡が残ってしまう し、反対側は柔らかい花壇でなおさらはっきりするじゃないか。」
 「そうですね、冷静な人だったにちがいありません。」
 強烈な興味の色がホームズの顔を通り過ぎるのを私は見た。
 「君は彼女がこの道を戻ったにちがいないと言うのか?」
 「ええ、ほかにはありません。」
 「この細長い芝の上を?」
 「もちろんです、ホームズさん。」
 「フム!それは実に驚くべき芸当だ--実に驚くべき。さてと、僕たちは余すところなく小道を調べた ようだね。先へ進もうか。この庭へのドアは通常開け放しなんだろうね?するとこの訪問者はただ歩いて 入るだけで何もしないでよかったんだ。人を殺そうという考えは彼女の頭になかった、でなければ彼女は 何か武器の類を身につけていたはずで、そうすればそのナイフを書き物机から取る必要はなかった。彼女 はこの廊下に沿って、ヤシのマットの上だから跡を残さずに進んだ。それから彼女はこの書斎に入ることになった。ど のくらいそこにいたのだろう?判断する方法がないな。」
 「数分以上ではありません。言うのを忘れましたが、家政婦のマーカー夫人がそこで片づけをしてから あまり長くはたっていないんです--十五分ぐらい、と彼女は言ってます。」
 「なるほど、それで区切れるね。くだんの女性は部屋に入る、それで彼女は何をする?書き物机のとこ ろへ行く。何のために?引き出しの中の何かのためではない。何か彼女が持っていく価値のあるものがあ れば、間違いなく錠を下ろされていたろう。いや、それはその木の戸棚の中の何かだった。おや!この表 面の傷は何だろう?ちょっとマッチを持っててくれ、ワトソン。どうしてこのことを言わなかった、ホプ キンズ?」
 彼が調べている傷跡は鍵穴の右側の真ちゅう細工の上に始まって約四インチにわたり、表面のニスが引 っかかれてはがれていた。
 「気づいたのですが、ホームズさん、鍵穴のまわりにはいつだって引っかき傷はあるものですから。」
 「これは新しい、まったく新しいよ。傷ついたところの真ちゅうの輝き具合を見てごらんよ。古いかき 傷なら表面と同じ色合いだろう。僕のレンズで見てみたまえ。ほら、ニスも、溝の両側に土のようについ ている。マーカー夫人はいるかい?」
 悲しそうな顔をした初老の女性が部屋に入ってきた。
 「昨日の朝、この戸棚のほこりを払いましたか?」
 「はい。」
 「この引っかき傷には気づきましたか?」
 「いいえ、気づきませんでした。」
 「確かにそうでしょう、ちり払いを使えばこの切れ切れのニスを払いのけてしまったでしょうから。こ の戸棚の鍵は誰が持ってますか?」
 「教授が懐中時計の鎖につけておいでです。」
 「単純な鍵ですか?」
 「いいえ、チャブの鍵です。」
 「結構。マーカーさん、行っていいですよ。これで少し進展しているね。くだんの女性は部屋に入り、 戸棚に進み寄り、開けるか開けようとする。彼女がそうやってせっせとやっているところへウィロビー・ スミス青年が部屋に入る。彼女はあわてて鍵を引っ込めて扉にこのかき傷を作る。彼が彼女を捕まえ、彼 女はいちばん近くにあった物を引っつかみ、たまたまそれはそのナイフだったが、彼を打って彼の手から 逃れようとする。それが致命的な一撃となる。彼は倒れ、来た目的のものを持ってか持たずか、彼女は逃 げる。メイドのスーザンはいるかね?君が叫び声を聞いた後で誰かがそのドアを通って出て行くことは可能 かな、スーザン?」
 「いいえ、無理です。階段を下りる前に、誰かが廊下にいれば見えたでしょう。その上、ドアは絶対に 開いてません、でなければ私が聞いたはずです。」
 「それでこっちの出口は解決する。そうなると疑いなく女性は来た道を出て行ったわけだ。このもう一 つの廊下は教授の部屋にだけ通じているんだったね。そっちの方に出口はないのかな?」
 「ございません。」
 「そっちへ行って教授と知り合いになるとしようかね。おや、ホプキンズ!これは非常に重要だ、実際 非常に重要だよ。教授の廊下もやっぱりヤシのマットが敷かれているじゃないか。」
 「はあ、それが何か?」
 「事件との関係が何もわからないのかい?まあいい、まあいい。あえて主張すまい。たぶん僕が間違っ ているんだろう。それでも僕には暗示的に見えるねえ。一緒に来て紹介してくれたまえ。」
 私たちは庭に通じる廊下と同じ長さの通路を通って進んだ。その端はドアのところで終わる短い階段だ った。案内人がノックし、それから私たちは教授の寝室に招じ入れられた。
 それは非常に大きな部屋で、数え切れないほど本が並べられ、本棚からあふれた分は部屋の隅に山積み にして置かれ、あるいは本棚の下のところにもまわり一面に積み重ねられていた。ベッドは部屋の中央に あり、そこに、枕を支えにしてこの家の持ち主がいた。私はこれほど驚くべき顔をした人にめったに会っ たことがない。私たちの方へ向けられたのは、げっそりやせた鷲のような顔、そして張り出して房をなす眉の下 の深いくぼみに潜む、鋭い、黒い目だった。髪とあごひげは白く、ただ後者は口のまわりが妙に黄色くな っていた。もつれた白い毛の真ん中に煙草の火が燃え、部屋の空気はこもった煙草の煙で臭かった。彼が ホームズに手を差し出した時、そこにもまた黄色いニコチンがしみついていることに私は気づいた。
 「愛煙家で、ホームズさん?」彼は適切な英語を話すが、変な、ちょっと気取ったアクセントで言った。 「どうぞ煙草をお取りください。あなたはいかがで?お勧めですよ、なにしろ特別にアレキサンドリアの イオニデスに作らせたものですから。一度に千ずつ送ってくるのですが、悲しいことに二週間ごとに手配 して新たに補充しなければいけないんです。体に悪い、非常に悪いですが、年寄りは楽しみがあまりない ですから。煙草と仕事--それが私に残されたすべてでしてな。」
 ホームズは煙草に火をつけ、部屋中にすばやい視線をチラッと走らせた。
 「煙草と仕事、だが今は煙草だけです」と老人は大声で言った。「ああ!何という致命的な中断!誰に あんな恐ろしい惨事が予知できましょう?実に立派な青年が!本当に、数ヶ月の訓練を経て、彼は優秀な 助手でした。事件をどう思いますか、ホームズさん?」
 「まだ決断は下していません。」
 「私たちにとってすべてが不可解な闇であるところへ光明を投じていただければ本当にありがたいんで すが。私のような哀れな本の虫の病人がこのような打撃を受けては麻痺してしまいます。私は考える能力 を失ってしまったようです。しかしあなたは行動の人だ--実務家だ。これもあなたの生活では毎日の日 課の一部でしょう。どんな非常時にもあなたは平静を保っていられる。あなたを味方につけて、私たちは 本当に幸運です。」
 ホームズは老教授が話している間部屋の片側を行きつ戻りつしていた。見ていると、彼は異常なスピー ドで煙草を吸っていた。明らかに彼は、できたてのアレキサンドリア煙草について、もてなし役と趣味を 同じくしていた。
 「そうです、これは決定的な打撃です」と老人は言った。「あれが私の代表作です--あそこのサイド テーブルの上の論文の山です。シリアおよびエジプトのコプト教会の修道院で発見された文書を私が解析 したもので、啓示宗教の基礎そのものに深くメスを入れる仕事になるものです。今や助手を奪われ、この 衰えた健康ではいつか完成させられるものかどうかわかりません。おやおや!ホームズさん、なんと、あ なたは私よりも煙草をよく吸うほどですなあ。」
 ホームズは微笑んだ。
 「僕は目利きでしてね」と彼は言って、箱からもう一本煙草を取って--四本目--終えたばかりの吸 い差しから火を取ってつけた。「長々と尋問をしてお手間を取らせることはしませんよ、コラム教授、 あなたは犯行の時刻にベッドにいらして何もご存知なかったはずだと思いますので。ただ一つだけお尋ね したいのです。あの気の毒な若者は最後の言葉、『教授--あの女です』で何を言おうとしたと思いま すか?」
 教授は首を振った。
 「スーザンは田舎娘です、」彼は言った、「あの連中が驚くほどばかなのはご存知でしょう。あの男が 何かつじつまの合わない、錯乱した言葉を小声で言ったのを、彼女がこじつけてこの無意味なメッセージ になったのではと思います。」
 「なるほど。あなたご自身にこの悲劇の説明はつきませんか?」
 「ことによると事故でしょう、ことによると--ほんのここだけの話ですが--自殺でしょうか。若い者は秘密の悩み を抱えているものですから--たぶん、何か恋愛沙汰とか、私たちが知らなかっただけで。殺人よりはあ りそうな仮説です。」
 「しかし眼鏡は?」
 「私はただの学者--夢想家です。世の中の現実的なことは説明できません。でも、周知のように、ねえあ なた、恋愛の物差しは奇妙な形を取りかねないですから。どうぞもう一本お取りください。そこまでこの 味がわかる方がいると知って嬉しいですよ。扇、手袋、眼鏡--自殺する人間がその時に記念品だか宝物 だかとして何を持っていくかなんてわかったもんじゃない。この紳士は芝の足跡のことを話されたが、 何しろ、そういうことは間違いやすいですから。ナイフについて言えば、あの不幸な男が倒れる時に遠く へ投げたとしても無理はない。私の話は無邪気かもしれないが、私にはウィロビー・スミスは自分の手で 最後を遂げたように思えます。」
 ホームズはこのように述べられた仮説に感心したらしく、しばらくの間行きつ戻りつを続け、もの思い にふけりながら次から次へと煙草を吸っていた。
 「ねえコラム教授、」やっと彼が言った、「あの書き物机の戸棚の中には何があったのですか?」
 「泥棒の欲しがるようなものは何も。家庭の書類、死んだ妻からの手紙、私の名誉となっている数々の 大学の学位記。ここに鍵があります。ご自分でご覧になって結構ですよ。」
 ホームズは鍵を取り上げ、ちょっとの間それを見て、それから返した。
 「いや、とても役に立ちそうには思えません」と彼は言った。「それより静かに庭へ下りて、事件全体 に考えを巡らせる方がよさそうです。あなたのおっしゃった自殺説は注目すべきものがありますね。お邪 魔をしてしまって申し訳ありません、コラム教授、昼食の終わるまではお騒がせしないことを約束します。 二時にもう一度伺って、その間に何か起きましたら報告しましょう。」
 ホームズは妙に放心した様子で、庭の小道を行ったり来たり、しばらくの間無言で歩いていた。
 「手がかりはあるのか?」とうとう私が訊いた。
 「あの僕が吸った煙草次第さ」と彼は言った。「まったく僕が間違っているのかもしれない。煙草が教 えてくれるだろう。」
 「おいホームズ、」私は声を上げた、「一体全体どうして--」
 「まあ、まあ、君も自分でわかるかもしれないさ。そうでなくても何も害はない。もちろん、僕たちは いつでも眼鏡屋の手がかりを頼りにすることができるが、僕は近道がとれるならそれを選ぶんだ。ああ、 ここにマーカー夫人がいる!五分ばかり彼女との有益な会話を楽しもうよ。」
 前にも述べたかもしれないが、ホームズには、その気になると、女性のご機嫌を取る独特のやり方があ り、実にたやすく女性と信頼関係を気づいてしまうのだった。自分で言った時間の半分で、彼は家政婦の 好意を引き出し、長年の知り合いのように彼女とおしゃべりをしていた。
 「ええ、ホームズさん、おっしゃる通りです。教授はほんとにものすごく煙草を吸いますわ。一日中、 時には一晩中です。ある朝あの部屋を見ましたら--それはもう、ロンドンの霧かと思うほどでした。お 気の毒なスミスさん、あの人も煙草はお好きでしたけど、教授ほどひどくありませんでした。教授の健康ですか --そうね、煙草のせいでよくなっているのか、悪くなっているのかわかりませんわ。」
 「ああ!」ホームズは言った、「でも食欲はなくなるでしょう。」
 「そうねえ、それはわかりませんわ。」
 「教授はほとんど何も食べないのでしょうね?」
 「そうねえ、あの人は気分屋ですね。それだけは言えますわ。」
 「賭けてもいいが今朝は朝食を取らなかったし、あれだけ煙草を吸ったのを見ると昼食は見向きもしな いでしょうよ。」
 「あら、そこは間違ってらしゃるわ、たまたまですが、今朝は驚くほどたくさん朝食を召し上がったわ。 あれほど調子がいいのは見た覚えがありませんし、昼食にもたっぷり一皿カツレツを注文なさいました。 私自身びっくりですわ。だって昨日あの部屋へ入ってスミスさんがあそこの床の上に倒れているの を見て以来、食べ物を見るのも耐えられないんですから。まあ、世の中にはいろいろな人がいますし、教 授はそれで食欲を失くしたりしないんでしょう。」
 私たちは午前中を庭でぶらぶら過ごした。スタンリイ・ホプキンズは前日の朝チャタム・ロードで何人 かの子供たちが見たという見なれない女性の噂を調べに村まで出かけていた。我が友はと言えば、いつも の行動力がすっかり彼を見捨ててしまったようだった。そんな風に気乗りのしない感じで事件を扱う彼は かって見たことがなかった。子供たちを見つけ、その子供たちがホームズの書いた人相書きとぴったり一 致する眼鏡をつけた女性を確かに見たという、ホプキンズの持ち帰った新たな情報さえも強い関心の気配 を呼び起こすことはできなかった。彼はむしろ、昼食の時に私たちの給仕をしたスーザンが自分からし た話に注意深く耳を傾けた。それは、スミス氏は昨日の朝散歩に出ていたと彼女は思う、彼は悲劇の起き る三十分前にやっと帰ってきた、という情報だった。私自身はこの出来事の意味がわからなかったが、ホ ームズがそれを頭の中で作り上げた腹案全般の中に織り込んだことははっきりと理解した。突然彼は椅子 からパッと立ち上がり、時計に目をやった。「二時だ、諸君」と彼は言った。「上がっていって、友人の 教授と話の決着をつけなければならない。」
 老人はちょうど昼食を終えたところで、確かに空の皿は見事な食欲の証拠となっており、家政婦の信じ ていた通りだった。白い長髪と燃えるような目を私たちに向けた彼は、実際、不気味な姿だった。絶え間 のない煙草が口の中にくすぶっていた。彼は身じたくを終え、火のそばのひじかけ椅子に腰掛けていた。  「さて、ホームズさん、謎はもう解けましたか?」彼はそばのテーブルの上に立つ大きなブリキの煙草入れを私 の連れの方へ押しやった。同時にホームズが手を伸ばし、二人は間にした箱を縁からひっくり返してしま った。一、二分というもの、私たち皆、ひざをつき、ばらまかれた煙草をやっかいな場所から回収した。 再び立ち上がった時、私はホームズの目が輝き、頬が薄く赤らんでいることに気づいた。重大な局面でし か、私はその戦闘のシグナルが翻るのを見たことがない。
 「ええ、」彼は言った、「解き終えました。」
 スタンリイ・ホプキンズと私は驚いて見つめた。冷笑のようなものが老教授のやせ衰えた目鼻立ちを震 わせた。
 「ほう!庭でですか?」
 「いいえ、ここでです。」
 「ここで!いつです。」
 「たった今です。」
 「きっと冗談をおっしゃってるんですな、シャーロック・ホームズさん。重大な問題をそんな風に扱っ てはいけないと言わざるをえませんな。」
 「僕は鎖のすべての輪を鍛え、検査していたのです、コラム教授。そしてそれが堅固であることを確信 しています。あなたの動機が何か、この奇妙な事件であなたの演じた正確な役割は何か、それはまだわか りません。おそらく数分のうちにあなた自身の口から聞けるでしょう。それまで、僕があなたのために過 ぎた事を再構築しましょう、そうすれば僕がまだ必要としている情報があなたにもわかるかもしれません。
 一人の婦人が昨日あなたの書斎に入りました。彼女はあなたの書き物机の戸棚にある、ある文書を自分の 手に入れるつもりで来ました。彼女は自分で鍵を持っていました。僕はあなたのを調べる機会がありまし たが、それにはニスにできた引っかき傷により生じたはずの変色が少しも見つかりませんでした。あなた は従犯者ではなかった、従って、彼女が来た時、僕が証拠から理解する限り、あなたから盗むことをあなたは知 りませんでした。」
 教授は口から煙を吐き出した。「これは実におもしろいし、ためになりますな」と彼は言った。「もう 付け加えることはないですか?そこまでこの婦人を追跡されたとあれば、きっと彼女がどうなったかも言 えることでしょうな。」
 「そのように努力しましょう。まず、彼女はあなたの秘書に捕まり、逃げようとして彼を刺した。この 惨事を、僕は不幸な事故と考えたいと思います。なぜならこの婦人にはそのような大けがを負わせるつも りはなかったと確信しているからです。殺し屋は武器を持たずには来ません。自分のしたことにショック を受け、彼女はでたらめに悲劇の現場から駆け出しました。運悪く彼女は格闘の際に眼鏡を失くしてしま い、極端な近視ですから、それなしでは本当にどうすることもできませんでした。彼女は来た時の道と思 って廊下を走り--どちらにもヤシのマットが敷かれてますから--、間違った通路を選んでしまった こと、退路は後ろで断たれたことがやっとわかった時には遅すぎました。彼女はどうすればよかったか? 引き返せません。そのままそこにいるわけにもいきませんでした。進むよりない。彼女は進んだ。彼女は 階段を昇り、ドアを押し開け、あなたの部屋に入っていたのです。」
 老人はホームズを狂ったように見つめ、口を開けて座っていた。驚愕と恐怖がその表情豊かな顔つきに はっきり現れていた。それから、やっとのこと、彼は肩をすくめ、いきなり心にもなく笑いだした。
 「大変結構ですな、ホームズさん」と彼は言った。「しかしあなたのすばらしい理論には一つ小さな欠 陥がありますよ。私自身が部屋にいて、日中一度も出ませんでした。」
 「それは知っております、コラム教授。」
 「するとあなたは、私はあのベッドに寝ておって部屋に女が一人入ってきたのに気づきもしないと言う つもりかな?」
 「そんなことは言ってませんよ。あなたは気づいた。あなたはその女と話をした。あなたはその女が誰 かわかった。あなたはその女が逃げるのを助けたのです。」
 再び教授は高い声で笑い出した。彼は立ち上がり、その目は熾のように燃えていた。
 「あなたは狂ってる!」と彼は叫んだ。「正気でない話をしている。私がその女が逃げるのを助けた? その女は今どこにいます?」
 「そこにいます」とホームズは言い、部屋の隅の高い本棚を指さした。
 私は、老人が両手を上げ、そのいかめしい顔に恐ろしい痙攣が走り、後ろの椅子に彼が倒れこむのを見 た。同時にホームズの指さした本棚がちょうつがいで回転し、一人の女性が部屋の中に飛び出した。「その 通りです!」その女性は変わった外国なまりの声で叫んだ。「その通りです。私はここです。」
 彼女はほこりで茶色に染まり、隠れ場所の壁についていたくもの巣をまとっていた。顔にも汚れの筋がつ いていたが、彼女は盛りの日々にも決して美しくはなかったはずだ。というのも彼女の肉体的特徴はホー ムズが予知したそのままであり、それに加え、長い、頑固なあごをしていた。生まれつきよく見えないこ とや、暗いところから明るいところに出たことで、彼女は目がくらんだようにして立ち、どこにいるのか、 私たちが誰か、とまわりを見ては目をぱちくりしていた。それでも、こうしたいろいろな不都合にもかか わらず、この女性の態度は確かに貴族的であり、挑戦的なあごや昂然たる頭にある勇敢さは多少なりとも 尊敬、感嘆せざるをえない気持ちにさせた。
 スタンリイ・ホプキンズは彼女の腕に手をかけ、彼女を拘束すると言ったが、彼女は静かに、とはいえ 服従を強いる圧倒的な威厳を示し、彼を払いのけた。老人は顔を引きつらせて椅子の背にもたれ、考えこ むような目で彼女を見つめていた。
 「ええ、私は拘束されました」と彼女は言った。「私の立っていたところですべて聞こえましたし、あなた 方が真実を知っていることはわかります。私はすべてを告白します。若い方を殺したのは私です。でもそ れが事故だったとおっしゃるのはその通りです。絶望のあまり机の上の何かをつかみ、放してもらおうと あの人を打ったのですから、自分の手にしたものがナイフだったことさえ知りませんでした。本当のこ とを話しています。」
 「奥様、」ホームズは言った、「僕はそれが真実と確信します。あなたは具合がよくないのではないで すか。」
 彼女はひどい顔色になっており、幾筋かの黒っぽいほこりの下の顔はますます青ざめていた。彼女はベ ッドの傍らに座った。それから彼女は再び続けた。
 「ここではほんのわずかな時間しかありません、」彼女は言った、「しかしあなた方に真実をすべて知 っていただきたいのです。私はこの人の妻です。彼はイギリス人ではありません。ロシア人です。名前は 申しますまい。」
 初めて老人が身動きした。「感謝するよ、アンナ!」と彼は叫んだ。「感謝する!」
 彼女は彼に向かって心底からの侮蔑のまなざしを注いだ。「なぜあなたはその惨めな人生にそんなに固くしがみつい ているの、セルギウス?」と彼女は言った。「多くの人に害を与えるばかりで誰にもいいことはなかった わ--あなた自身にさえも。でも、神の時を前にしてもろい命の糸を断ち切るようなことを私はすべきではあ りませんね。まったくもうたくさんです、この呪われた家の敷居をまたいで以来。しかし私はお話ししな ければ、でないと手遅れになってしまいます。
 皆さん、私はこの人の妻だと申し上げましたね。彼が五十歳、私が二十歳の愚かな娘の時、私たちは結婚 しました。ロシアの町、ある大学の--場所は言わずにおきましょう。」
 「感謝するよ、アンナ!」老人が再びつぶやいた。
 「私たちは改革者--革命家--ニヒリストでした、おわかりですね。彼と私とほかにたくさん。それ からやっかいなことになり、警官が殺され、多くの人が逮捕され、証言が必要とされ、そこで自分の命を 救い、なおかつ多額の報酬を得るため、彼は自分の妻と仲間たちを売ったのです。そうです、彼の自白を もとに私たちは全員逮捕されました。私たちの行き着く先は、一部は絞首刑であり、一部はシベリアでし た。私はその後者の方でしたが、終身刑ではありませんでした。夫は不正な利得を持ってイングランドに 来て、それ以来平穏に暮らしてきました。もっともどこにいるかを同志に知られたら一週間とたたぬうち に正義が行われるだろうことはよく知っていたでしょう。」
 老人は震える手を伸ばし、煙草を一本取った。「私はおまえ次第だよ、アンナ」と彼は言った。「おま えはいつも私によくしてくれた。」
 「私はまだこの人の最大の悪事を話していないのです」と彼女は言った。「私たちの結社の仲間の中に、 私の親友が一人おりました。彼は高潔で、非利己的で、愛情深く--夫はまったく違いました。その人は 暴力を憎みました。私たちは皆有罪でしたが--もしもそれが罪ならですが--その人は違いました。常に 手紙で私たちがそういう方針を取るのを思いとどまらせたのです。それらの手紙で彼は救われたはずでし た。私の日記にしてもそうです。そこに私は毎日毎日、彼に対する私の気持ちと私たちそれぞれの考え方を書 き込みました。夫が見つけ、その日記も手紙も取っておいたのです。夫はそれらを隠し、懸命になってその若者が 命を失うよう、宣誓もしました。それには失敗しましたが、アレクシスはシベリア送りの囚人となり、そ こで今も、この瞬間も、つらい労役をしています。そのことを考えなさい、この悪党、悪党!今も、今も、 まさにこの瞬間も、アレクシスは、あなたなどその名を口にするのもおこがましいその人は奴隷のように働 いて暮らしている、けれども私はあなたの命を握っています、そしてあなたを解放します。」
 「おまえはいつも高潔な女性だったよ、アンナ」と老人は煙草を吹かし続けながら言った。
 彼女は立ち上がっていたが、小さな苦痛の叫びを上げて再び腰を落とした。
 「私は終えなければ」と彼女は言った。「刑期が終わると私は日記と手紙を手に入れにかかりました。 それをロシア政府に送れば、友を釈放させられるものでした。夫がイングランドに来ていることは知って いました。何ヶ月か捜して、私は彼の居場所を発見しました。彼がまだ日記を持っていることは知ってい ました。シベリアにいた時に一度、その中のくだりをいくつか引用して私を非難する手紙を彼からもらっ たからです。けれども私は確信していました、夫の執念深い性質からして、自分の自由意志で私にそれを 渡すことは決してないだろうと。自分で手に入れなければなりません。そのために私は私立探偵の会社の 調査員を雇い、その人が夫の家に秘書として入り込みました--あなたの二番目の秘書ですよ、セルギウ ス、そそくさとあなたのところをやめてしまった人よ。彼はその文書類が戸棚にしまってあることを発見 し、鍵の型を取りました。でもそれ以上しようとはしませんでした。彼は家の図面を私によこし、午前中 は秘書もこちらの方に用があるから書斎はいつも空だと教えました。そこでついに私は思い切ってやること にして、自分でそれらのものを手に入れるためにやってきました。成功しました。でも何という代償でし ょう!
 私がちょうど書類を取り出し、戸棚の鍵を閉めている時、あの若い人が私を捕まえたのです。私はその 朝既にあの人と会っていました。私たちは道で会い、私はあの人が彼に使われていると知らずにコラム教 授の住まいがどこか教えて欲しいとあの人に訊いたのです。」
 「そうです!そうです!」とホームズが言った。「秘書は戻って、出会った婦人のことを雇い主に話し た。それで、いまわの際に、あの女ですというメッセージを伝えようとした--たった今話し合ったあ の女だと。」
 「私に話をさせてください」と婦人は命令口調で、痛みに耐えるかのように顔をしかめながら言っ た。「あの人が倒れた時、私は部屋から飛び出し、ドアを間違え、気がつくと夫の部屋にいました。夫は 私を引き渡すと言いました。そんなことをするなら、彼の命は私の手に握られている、ということを私は 教えました。彼が私を法に引き渡すなら、私は彼を仲間たちに引き渡せるのです。自分自身のために生き ていたくはないですが、どうしても目的を果たしたいと思いました。私が言った通りにするということを彼はわ かっていました--彼自身の運命が私のに巻き込まれたのです。そういう訳で、ただただそれだけで、彼 は私をかくまいました。彼は私は暗い隠れ場所に押し込みました--昔の名残で、彼だけが知っていました。 彼は食事を自分の部屋で取り、それでその一部を私に分けることができました。警察が家を去ったら、私は 夜に紛れてこっそりと出て、もう二度と戻ってこない、ということで同意していました。しかしどうして か私たちの計画はあなた方にわかってしまいました。」彼女は服の胸から小さな紙束を引っ張り出した。 「これが私の最後の言葉です」と彼女は言った。「この一束がアレクシスを救うことになります。これを あなた方の名誉、あなた方の正義を愛する心に託します。受け取ってください!ロシア大使館に届けてい ただけますね。さあ、私は自分の義務を果たしました、では--」
 「止めるんだ!」とホームズが叫んだ。彼は部屋を飛んで横切り、彼女の手から小さな薬瓶をもぎ取っ た。
 「手遅れです!」彼女はベッドの上でぐったりとして言った。「手遅れです!隠れ場所を出る前に毒を 飲みましたから。くらくらする!もう行きます!その束を忘れないようにしていただきます。」

 「単純な事件だが、それでもある意味、教訓的だったね」と、ロンドンへ戻る道すがら、ホームズが言 った。「発端から鼻眼鏡次第だったね。偶然にも死んだ男があれをつかんでいる幸運がなかったら、必ず 解決に至っていたという確信はないな。僕には明白だったが、眼鏡の強度から見て、つけていた人はあれを奪われてはまったく 見えず、どうしようもなくなったにちがいないのだ。彼女が狭い芝の筋に沿って一度も踏み違えずに 歩いた、と君が僕に信じさせようとした時、僕が言ったろ、覚えているかもしれないが、これは注目すべ き芸当だと。心中僕は、彼女が第二の眼鏡を持っていたというありそうもない場合を除いて、その芸当は 不可能と考えた。従って僕は、彼女が家の中にとどまっているという仮説を真剣に考慮せざるをえなかっ た。二つの廊下の類似に気づくと同時に、彼女がきわめて容易にああいう間違いをしかねないことが明ら かになり、そして、もしそうなら、明らかに彼女は教授の部屋に入ったにちがいなかった。そこで僕は、 この推測の裏づけとなるものにはどんなものにでも鋭い注意を向けたし、隠れる場所の形をしたものは何か ないかと丹念に部屋を調べたんだ。じゅうたんは常に、しっかりと釘付けになっているらしかった。それ で僕ははねぶたという考えを捨てた。本棚の後ろに凹みがあってもおかしくなかった。知っての通り、昔の 図書館にはよくそういう仕掛けがあったものだ。ほかの場所はどこも床の上に本が積み重なっているのに、 一つだけ本棚が片付けられているのに僕は気づいた。となると、それがドアかもしれなかった。どうやっ て入るのかを示す跡は見えなかったが、じゅうたんは検査に非常に適したこげ茶色だった。そこで僕はあ の上等の煙草を大量に吹かし、怪しい本棚の前一面に灰を落とした。単純なやり方だが非常に有効だった よ。それから僕は下りていって、ワトソン、君もいるところで確かめたね、君は僕の言っていることの趣旨に 気づかなかったようだが、コラム教授の食事の消費量が増えていたことを--第二の人物に与えていると すれば予期されることだ。それから再び僕たちは部屋に昇っていき、そこで、煙草の箱をひっくり返し、 それで非常によく床を見ることができ、煙草の灰の上の跡から、囚人が僕たちのいない間に隠れ家から出 てきていたことを完全にはっきりと確かめられた。さて、ホプキンズ、チャリング・クロスに着いたね、それでは 事件を成功裏に終えられておめでとう。君はたぶん本署に行くんだろうね。どうだい、ワトソン、君と僕 は一緒にロシア大使館に乗りつけようじゃないか。」

スリークォーターの失踪(The Adventure of the Missing Three-Quarter)

 ベーカー街の私たちが奇妙な電報を受け取るのはあまり珍しいことではなかったが、私が特に覚えて いるのは七、八年前の薄暗い二月の朝に着いて、十五分ばかりシャーロック・ホームズ君を悩ませた一通で ある。彼に宛てられたもので、こんなふうに書かれていた。

私をお待ちを。ひどい災難。スリークォーターの右ウィング失踪、明日欠かせぬ。  オゥヴァトン

「ストランドの消印、十時三十六分の発信」とホームズが何度も読み返して言った。「これを出す 時、オゥヴァトン氏は明らかに相当興奮していたね、そのせいかちょっと支離滅裂だ。まあいい、まあい い、たぶん僕がタイムズにひと通り目を通した頃にはここに来るだろうし、それですっかりわかるだろう。 このごろの停滞ぶりではどんなつまらない問題でも歓迎だがねえ。」
 実際、私たちにとって非常に活気に欠ける事態が続いており、私はそういう活動の無い時期を恐れるよ うになっていた。というのも私は経験によって、友の頭脳は異常に活動的であるゆえ、それを働かせる材 料の無いままにしておくのは危険なことと知っていたからだ。年月をかけて少しずつ私は、 かってその非凡な経歴を阻みそうになった例の麻薬癖を彼に捨てさせていた。当時私は、通常の状態では彼が もはやこの人工的刺激を必要としないとわかっていたが、悪魔は死んだのではなく眠っているだけである とよく知っていたし、眠りは浅いものであり、無為の時期のホームズの禁欲的な顔に浮かんだ引きつった 表情やくよくよしているその落ち窪んで不可解な目を見ていると、その目覚めが近いこともわかってい た。従って、このオゥヴァトン氏が何者にせよ、彼が謎の電文と共に登場し、我が友にとってその動乱 の風吹きまくる人生のすべての嵐にもまして危険をもたらす、あの恐ろしい無風状態を破ってくれること を私は感謝した。
 私たちの期待していた通り、電報のすぐ後を発信人が追い、ケンブリッジ、トリニティ・カレッジのシ リル・オゥヴァトン氏の名刺が筋骨隆々、百キロはある巨漢の青年の到着を告げた。彼は幅広い肩で戸口を いっぱいにし、心配にやつれたハンサムな顔で私たち二人を代わる代わる見た。
 「シャーロック・ホームズさんは?」
 相棒がお辞儀をした。
 「スコットランドヤードまで行ってきたんです、ホームズさん。スタンリイ・ホプキンズ警部に会いま して。こちらへ伺うよう勧められました。あの人の見る限り、事件は正規の警察よりもあなたの専門だ、 と言われたんです。」
 「どうか腰をかけてどうしたのか話してください。」
 「ひどいことです、ホームズさん--まったくひどい!白髪になってるんじゃないでしょうね。ゴドフ リー・スタントン--もちろん、お聞きになったことがあるでしょうね?彼はとにかくチームのかなめで チーム全体が彼にかかっているんです。フォワードのうち二人をなしですませてもスリークォーターのラ インにゴドフリーが欲しいくらいです。パスにしても、タックルにしても、ドリブルにしても彼に及ぶも のは一人もいませんし、それに彼は先頭に立って我々みんなをまとめることができます。僕はどうしたら いいでしょう?それをお尋ねしたいんです、ホームズさん。控えの一番手にはムーアハウスがいますが、 彼はハーフの練習をしてまして、スクラムの時、外のタッチライン上にいるのではなく常に右について進 みます。確かに彼はプレースキックはうまいのですが、判断力はないし、からっきし走れませ ん。なに、モートンとかジョンソンのようなオックスフォードの快速なら彼の周りを跳ね回っていられる でしょう。スティーヴンソンはスピードは十分ですが、二十五ヤードラインからのドロップキックができ ませんし、パントもドロップキックもできないスリークォーターでは速いというだけでポジションにつけ る価値はありません。いや、ホームズさん、あなたがゴドフリー・スタントンを見つけるのを助けてくだ さらないと我々は非常にまずいです。」
 話し手が屈強な手でひざを叩いては論点をすべて飲み込ませようとしながら、異常な活気と熱意でまく したてるこの長い話を、我が友は驚きながらもおもしろそうに聞いていた。客が静かになるとホームズは 手を伸ばし、いつもの切抜き帳の『S』の部を取った。今回はそのさまざまな情報の宝庫を捜しても無駄だ った。
 「アーサー・H・スタントンは売り出し中の若い偽造犯だし、」彼は言った、「ヘンリー・スタントン は僕が絞首刑にする手伝いをした、しかしゴドフリー・スタントンは初めて聞く名だな。」
 客の方が驚いた顔をする番だった。
 「何と、ホームズさん、事情はおわかりと思ってました」と彼は言った。「ではあれですね、ゴドフリー・スタ ントンを聞いたことが無いとなると、シリル・オゥヴァトンも知らないでしょうか?」
 ホームズは愛想よく首を振った。
 「まさか!」とスポーツマンは叫んだ。「いや、僕はウェールズ戦ではイングランドの第一補欠でした し、今年一年大学の主将を務めています。しかしそれはなんでもない!ケンブリッジ、ブラックヒース、 国際大会五回の名スリークォーター、ゴドフリー・スタントンを知らない人がイングランドにいるとは思 いませんでした。ああ!ホームズさん、どこで暮らしてきたんですか?」
 ホームズは若い大男の素朴な驚きようを見て笑った。
 「君は僕とは別の世界に生きているんですよ、オゥヴァトンさん--楽しい、健康な世界にね。僕は 社会の多くの分野に枝を伸ばしていますが、幸いなことに、イングランドで最も善良で健全な、アマチュア スポーツにはまだ入っていません。しかし、今朝の君の思いがけない訪問からすると、そのさわやかな空 気とフェアプレーの世界にさえも僕のする仕事がありうることを示してますね。さてそれでは、ねえ、ど うか腰を下ろして、ゆっくり落ち着いて、何が起こったのかを正確に、それから僕のどのような助けを望ん でいるのかを話してください。」
 オゥヴァトン青年の顔は知性よりも筋肉を使うことになれた人らしく困った様子を見せたが、少しずつ、 ここではその語りから省かせていただく反復や不明瞭なところをまじえながら、私たちに奇妙な話を聞か せた。
 「こうなんです、ホームズさん。申しましたように、僕はケンブリッジ大学のラグビーチームの主将で、 ゴドフリー・スタントンは主力選手です。明日我々はオックスフォードとやります。昨日全員でやってき て、ベントレーの民宿に落ち着きました。十時に僕は見回りをして、連中がみんなねぐらについているか確か めました。厳しいトレーニングをしてよく眠ることがチームのコンディションを保つと信じているからで す。僕はゴドフリーが寝る前に彼と少し話しました。僕には彼の顔色が悪く、悩みがあるように見えまし た。僕は彼にどうしたのか訊きました。彼は大丈夫だと言いました--ちょっと頭痛がするだけだと。僕 は彼におやすみを言って部屋を出ました。三十分後、ボーイの話では粗野な感じのあごひげのある男が手 紙を持ってゴドフリーを迎えに来ました。彼はまだ寝ていず、手紙は彼の部屋へ運ばれました。ゴドフリ ーはそれを読み、頭をガンとやられたかのように後ろの椅子に倒れこみました。ボーイはぎょっとして僕 を呼びにこようとしましたが、ゴドフリーは彼を止め、水を一杯飲み、落ち着きを取り戻しました。それ から彼は階下に下り、玄関で待っていた男に言葉をかけ、二人は一緒に出て行きました。最後にボーイが 彼らを見た時、彼らはほとんど走るようにして通りをストランドの方角に行ったそうです。今朝、ゴドフ リーの部屋は空で、ベッドで寝た形跡はなく、所持品はすべて前の晩僕が見たそのままでした。彼はその 見知らぬ男と即座に出て行ってしまい、それ以来彼からの知らせは何もないんです。彼がいつか戻ってく るとは思えません。彼は、ゴドフリーは骨の髄までスポーツマンでしたから、何か手におえない原因がな かったらトレーニングをやめたり主将を巻き込んだりするはずがありません。いや。彼が永久に行ってしまって 僕たちが彼を見ることはもうないような気がするんです。」
 シャーロック・ホームズは深い注意を払ってこの奇妙な物語を聞いた。
 「君はどうしましたか?」と彼は尋ねた。
 「何か彼の消息が聞かれてないかケンブリッジに電報を打ちました。誰一人彼を見た者はいません。」
 「ケンブリッジに帰ることはできたのですか?」
 「ええ、遅い列車があります--十一時十五分の。」
 「だが、君の確かめうる限りでは、彼はそれに乗らなかった?」
 「ええ、彼は見られていません。」
 「次に君は何をしました?」
 「マウントジェイムズ卿に電報を打ちました。」
 「なぜマウントジェイムズ卿に?」
 「ゴドフリーは孤児で、マウントジェイムズ卿がいちばん近い親戚です--確か叔父さんかと。」
 「ほう。それは問題に新しい光を投げかけるね。マウントジェイムズ卿はイングランドでも指折りの金 持ちですから。」
 「僕もゴドフリーからそう聞いたことがあります。」
 「それで君の友人は近い親類だったんですね?」
 「そうです、彼は跡取りで、老人は八十に近く、そのうえあちこち通風があります。ビリヤードのキュ ーには指関節を使ってチョークを塗れるそうです。まったくのけちん坊で生涯ゴドフリーには一文も与えません でしたが、確かに全部彼のものになるんでしょう。」
 「マウントジェイムズ卿からは連絡がありましたか?」
 「いいえ。」
 「君の友人がマウントジェイムズ卿の所に行く目的が何かありそうですか?」
 「そうですね、前夜彼は何事かを心配していましたし、それが金と関係があるならいちばん近い親戚の ところへ行くのは考えられますね、そんなにたくさん持っていることだし、もっとも僕の聞いた限りでは 金が手に入る見込みはあまりなかったでしょうが。ゴドフリーは老人が好きではありませんでした。助け てもらえるとしても行かなかったでしょう。」
 「まあ、それはすぐにはっきりわかりますよ。君の友人が親戚のマウントジェイムズ卿の所へ行ってい るとすると、その粗野な感じの男がそんな遅い時間に訪れたこと、その男が来たことで引き起こされた動 揺に説明をつけられるでしょうね。」
 シリル・オゥヴァトンは両手を頭に押し当てた。「僕にはわかりません。」
 「まあ、まあ、僕は一日することが無いし、喜んでこの問題を調べましょう」とホームズは言った。 「試合のことですが、その青年にかまわず準備するよう強く勧めたいですね。君の言うように、抵抗しが たい必要があって彼はそんな風にいやいや出かけたにちがいないわけで、同じ必要性から戻れないことも ありそうですから。一緒に行ってホテルに寄って、ボーイが問題に新たな光明を投じられるか見てみましょう。」
 シャーロック・ホームズの下層階級の証人をくつろがせる腕前は達人技で、あっという間にゴドフリー ・スタントンの放棄した部屋の奥で、ボーイの話すべきことをすべて引き出してしまった。前夜の訪問者 は紳士でもなく、労働者でもなかった。まったくのところボーイの評するに『中間どころの男』であり、 五十がらみで白髪交じりのあごひげ、青白い顔で地味な服装だった。その男自身も動揺しているように見 えた。彼が手紙を差し出した時、その手が震えていることにボーイは気づいた。ゴドフリー・スタントン は手紙をポケットに押し込んだ。スタントンは玄関で男と握手しなかった。彼らが交わしたのは二言三言 で、ボーイが聞き取れたのは『時間』という一言だけだった。それから彼らは前にも述べたように急いで 立ち去った。玄関ホールの時計がちょうど十時半だった。
 「ええと」とホームズはスタントンのベッドに座りながら言った。「君は昼間のボーイじゃないかな?」
 「はい、十一時に当番明けになります。」
 「夜のボーイは何も見てないんだろうね?」
 「はい、観劇の一行が遅くに入りました。ほかには誰も。」
 「君は昨日一日中当番だったのかな?」
 「そうです。」
 「スタントンさんに何かことづけを持っていったかい?」
 「はい、電報を一つ。」
 「ああ!それはおもしろい。それは何時だった?」
 「六時頃です。」
 「受け取った時、スタントンさんはどこに?」
 「このご自分の部屋に。」
 「それを開けた時、君はいたかい?」
 「はい、ご返事があるかどうかと待っていました。」
 「それで、あったかい?」
 「はい、ご返事を書かれました。」
 「君がそれを持っていった?」
 「いいえ、ご自身で持っていかれました。」
 「だが君のいるところで書いたんだね?」
 「はい、私はドアのそばに立っていまして、背中を向けてテーブルに向かわれました。書き終えると『 いいよ、ボーイさん、これは僕が自分で持っていこう』とおっしゃいました。」
 「何を使って書いていた?」
 「ペンです。」
 「電報発信紙はそのテーブルの上の一枚かな?」
 「はい、そのいちばん上のを。」
 ホームズは立ち上がった。用紙を取り、窓辺へ持っていき、いちばん上の方を注意深く調べた。
 「鉛筆で書いてくれなかったのが残念だね」と彼は言い、がっかりして肩をすくめ、それを元のところ へ放り出した。「たぶん君もしばしば気づいているだろうが、ワトソン、普通は跡が下に通るんだ--多 くの幸せな結婚を解消してきた事実が。しかしここには何の痕跡も見つからない。しかし嬉しいね、彼が 太書きの羽ペンで書いたのはわかるし、この吸い取りパッドに何か跡が見つかることは疑いえないな。あ あ、そうだ、間違いない、まさしくこれがそうだ!」
 彼は細長い吸い取り紙をはぎ取り、絵文字のようなものを私たちの方へ向けた。
 シリル・オゥヴァトンはすっかり興奮していた。「鏡の前へ持っていって!」と彼は叫んだ。
 「それは必要ない」とホームズは言った。「紙は薄いから裏返せば電文がわかるでしょう。ほら、こう です。」彼がそれをひっくり返し、私たちは読んだ。
 「というわけでそれはゴドフリー・スタントンが失踪前数時間以内に送った電文の末尾です。僕たちの 目を逃れたメッセージが少なくとも六語ある。しかし残った部分--『どうか僕たちを助けてください!』--は、 この若者の想像では恐るべき危険が彼に迫り、誰かが彼をそれから守れる、ということを示している。 『僕たち』に注意して!ほかの人間も巻き込まれていたわけだ。自身も神経質になっていたらしい、あ の青白い顔のあごひげの男以外の誰のはずがある?それではゴドフリー・スタントンとあごひげの男の間 にどんな関係があるのか?そして彼らがそれぞれ、差し迫った危険に備えて助けを求めた第三の人物とは 誰か?僕たちの調査は既にそこまで絞られたね。」
 「その電報が誰に宛てられたものか調べればいいんじゃないか」と私は提案した。
 「その通りだよ、ワトソン君。君の考えは、意味深いとはいえ、既に僕の心に浮かんだものだ。しかし おそらく君も知っているんじゃないかと思うが、郵便局に入って他人の電報の控えを見せろと要求しても、 役人の方では願いを聞き入れる気はまったくないかもしれないよ。そういうことではずいぶんお役所式だ から。しかし、少しばかり気配りと技巧があれば目的を達しうるのは間違いない。ところで、テーブルの 上に残されたこれらの書類を調べるには、オゥヴァトンさん、立ち会ってもらいたいんですが。」
 そこには多数の手紙、請求書、ノートがあり、ホームズは敏速で神経質な指とすばやい、洞察力ある視線 とで、それらをひっくり返し、調べた。「ここには何もない」と彼は最後に言った。「ところで、君の友 達は健康な若者でしょうね--どこも悪い所は無いですね?」
 「健康そのものです。」
 「彼が病気になった覚えはありませんか?」
 「一日として。すねをけられて動けなくなったことがあるのと、一度ひざのさらがずれましたが、そ れも何でもありませんでした。」
 「もしかすると君の思っているほど強くなかったんですよ。彼には何か秘密の悩みごとがあったかもし れないと思うんですがね。君の同意を得て、僕は二、三これらの書類をポケットに入れておきますよ、こ の先の調査に関係がある場合に備えて。」
 「ちょっと待った--ちょっと待った!」と文句たらしい声が叫び、私たちが目を上げると、奇妙な小 柄の老人が戸口でぴくぴく引きつっていた。彼は色あせた黒い服、非常につば広のシルクハット、ゆるん だ白いネクタイを着けていた--全体の印象はどいなかの牧師か葬儀屋のようだった。それでも、そのみ すぼらしい、こっけいとさえ言える外見にもかかわらず、彼の声は鋭くはじけるような音を立て、態度に はせかせかした激しさがあり、注目せざるをえなかった。
 「あなたはどなたです、そして何の権利があってここの人の書類に触れていらっしゃる?」と彼は尋ね た。
 「僕は私立探偵です、そして彼の失踪に説明をつけようと努力しているところです。」
 「ああ、あなたが、ですか?それで誰の指示です、ええ?」
 「こちらの紳士、スタントン氏の友人がスコットランドヤードから僕を紹介されたのです。」
 「あなたはどなたかな?」
 「僕はシリル・オゥヴァトンです。」
 「ではあなたが私に電報を送ったんですな。私の名はマウントジェイムズ卿。ベイズウォーターのバス でできるだけ急いで来たんです。するとあなたが探偵を頼んだんですな?」
 「はい。」
 「それであなたに費用を払う用意がおありかな?」
 「間違いなく友人のゴドフリーが見つかった時、彼が喜んで払うでしょう。」
 「しかしもし全然見つからなかったら、ええ?答えなさい!」
 「その場合は、たぶんご家族が--」
 「とんでもないですぞ!」小男は金切り声を立てた。「私に一ペニーも当てにせんことだ--一ペニ ーだって!おわかりかな、探偵さん!この若者の家族と言えば私だけだがね、言っておくが、私は責任を 持たん。あれにいくらかでも遺産の当てがあるとすれば、私が決して金を浪費しなかった事実の結果だか らな、今になってそんなことをやりだすつもりはない。そんな風にあなたが勝手にしているその書類につ いてはだ、言わせてもらえば、その中に何か何らかの価値のあるものがある場合には、あなたは厳格に それをどうなさるのかについて責任を持たねばならんですぞ。」
 「結構です」とシャーロック・ホームズは言った。「ところでどうでしょう、あなたご自身にはこの若者 の失踪の説明となるお説が何かありますか?」
 「いいえ、ありませんな。もう大きいんだし子供じゃないんだから自分の面倒は見られるし、姿を消す ほど愚かだとすれば、捜し出す責任を引き受けるなどまったくお断りです。」
 「お考えよくわかりました」とホームズは目をいたずらっぽく輝かせて言った。「たぶん僕の方の考えはよ くおわかりではない。ゴドフリー・スタントンは貧乏だったように思われます。彼が誘拐されたとすると、 彼自身の持っているものが目当てだったはずはない。あなたの富裕なことは、マウントジェイムズ卿、広く 知られていますし、強盗団があなたの甥を監禁しておいて、彼からあなたの家、あなたの習慣、あなたの 財宝に関して情報を手に入れようとするってことはまったくありそうなことです。」
 意地の悪い小柄な訪問者の顔はその首の布と同じように白くなった。
 「何とまあ、何たる考え!そんな悪事は考えもつかなかった!何という冷酷な悪党が世の中にはいるん だ!だがゴドフリーは立派な若者だ--しっかりした若者だ。何があっても年老いた叔父の秘密を明かす ようなことはせんでしょう。延べ板は今晩銀行に移させなくては。それまで労を惜しんでくださるな、探 偵さん!どうかあらゆる手を尽くしてあれを無事に連れ戻してください。金のことなら、まあ、五ポンド か、いやもう十ポンドぐらいまではいつでも私を当てにしてかまわんです。」
 懲りて気持ちを入れ替えたとはいえ、この貴族のけちん坊は私たちの助けとなる情報を持ち合わせなか った。甥の私生活についてはほとんど知らなかったのである。私たちの唯一の手がかりは電報の断片であり、 その写しを手に、ホームズは鎖の第二の輪を探しに出発した。私たちはマウントジェイムズ卿から逃れ、 またオゥヴァトンはチームに降りかかった不幸な出来事についてほかのメンバーと相談しに行った。
 ホテルから目と鼻のところに電信局があった。私たちはその外で立ち止まった。
 「試してみる価値はあるね、ワトソン」とホームズは言った。「もちろん令状があれば控えを見せろと 要求できるが、まだその段階には至っていない。こんなに忙しいところでは顔も覚えてなさそうだな。思 い切ってやってみるか。」
 「大変恐縮ですが、」彼はできるだけもの柔らかな態度で、格子の後ろの若い婦人に言った、「昨日送 った電報でちょっと間違いがありまして。まだ返事がないんです、それで最後に自分の名前を書くのを忘 れてしまったにちがいない、と非常に気になってるんです。そうなのかどうか教えていただけませんか?」
 若い婦人は控えの束をひっくり返した。
 「それは何時でしたか?」と彼女は尋ねた。
 「六時ちょっと過ぎです。」
 「あて先はどなたで?」
 ホームズは指を唇に当て私をチラッと見た。「その最後の言葉は『助けてください』でした」と彼はひそかに打 ち明けるようにささやいた。「返事がないので非常に心配です。」
 若い婦人は用紙の一つを切り離した。
 「これですね。名前はありません」と彼女は、カウンターの上でそのしわを伸ばしながら、言った。
 「それじゃあ、当然、返事をもらえないわけですね」とホームズは言った。「おやおや、何てばかなん だろう僕は、まったく!ごきげんよう、おねえさん、おかげさまで安心しました。」もう一度通りへ出た 時、彼はくすくす笑い、両手をこすり合わせた。
 「それで?」私は尋ねた。
 「前進したよ、ワトソン君、前進した。あの電報をのぞき見るために七種類の計画を考えていたが、初 めの一回からうまくいくとは思いもよらなかったねえ。」
 「それで何が得られたね?」
 「僕たちの調査の出発点さ。」彼は辻馬車を呼び止めた。「キングス・クロス駅」と彼は言った。
 「それじゃあ旅行かい?」
 「うん、ちょっとケンブリッジへ一緒に行かなくてはいけないと思ってね。僕にはあらゆる兆候がそっ ちの方を指し示しているように思えるんだ。」
 「ねえ、」グレイズ・イン街をガタゴト揺られながら私は尋ねた、「失踪の原因について何かもう考え はあるのかい?これほど動機があいまいな事件は今まで扱った中にも覚えがないように思うんだがね。ま さか君、本当に富裕な叔父に損害を与える情報を得るために誘拐されたかもしれないとは思っちゃいまい?」
 「実を言うとね、ワトソン君、ありそうな説明として僕の興味を引くものではなかったよ。しかしね、 何よりあのきわめて不愉快なご老人の関心を引きそうだなと思ったんでね。」
 「確かにそうだったね。だがどんな代案があるんだね?」
 「いくつか挙げられるよ。この出来事がこの大事な一戦の前夜に起こり、チームの成功にその存在だけ はどうしても欠かせないと思われる人間が巻き込まれたということが不思議であり暗示的であるのは 認めざるをえないだろう。もちろん偶然の一致かもしれないが興味はある。アマチュアスポーツに賭け はないが、大衆の賭けは関係ないところでたくさん行われているし、競馬界の悪党が競走馬に狙いをつけ るように、誰かにとって選手に狙いをつける価値があるってこともありうるね。これが一つ目の説明だ。 二つ目のきわめて明白なやつは、この若者の資力が現在いかにささやかなものであっても、大変な資産の 相続人であるのは事実であり、身代金目的に彼を人質にする陰謀が仕組まれることもありえないわけでは ないというものだ。」
 「それらの仮説は電報を考慮に入れてないね。」
 「まったくその通りだ、ワトソン。電報は依然、唯一根拠あるものとして僕たちは扱うべきであり、注 意をそこから脇にそらしてはならない。今僕たちがケンブリッジに向かっているのもこの電報の目的につ いて光明を得るためだ。僕たちの調査の軌道は今のところはっきりしないが、晩までにそれが明確になっ ていなかったら、いや、僕たちがそれに沿って相当進捗していなかったら、驚きというほかないね。」
 私たちが古い大学町に着いた時には既に暗かった。ホームズは馬車に乗り、御者にレスリー・アームス トロング医師の家までやってくれと命じた。数分後私たちは非常ににぎやかな往来に面した大きな邸宅の ところで止まった。私たちは中へ通され、長く待たされてやっと入れてもらった診察室には、その医師が テーブルの向こうに座っていた。
 レスリー・アームストロングの名を知らぬほど、私は自分の職業のことに疎くなっていた。今では私も 彼が大学の医学部の首脳の一人であるばかりでなく、科学の一分野を超えて全ヨーロッパで名高い思想家 であることを知っている。しかしその輝かしい経歴を知らなくとも、その人、その角張った大きな顔、垂 れ下がる眉の下の陰鬱な目、花崗岩の飾り縁のような毅然としたあごをほんの一目見れば、人は 必ず感銘を受けたろう。計り知れない性格、油断のない精神、厳格で、禁欲的で、自制的で、恐るべき人 物--そのように私はレスリー・アームストロング博士を読み取った。彼は我が友の名刺を手にし、気 難しい顔立ちに少しも喜ばしげな表情を浮かべずに目を上げた。
 「私はあなたの名を聞いたことがあるし、シャーロック・ホームズさん、職業も知っている--決して 私の承認しないものの一つですな。」
 「すると、博士、あなたはこの国のすべての犯罪者と同意見ということになりますね」と我が友は落ち着いて 言った。
 「あなたの努力が犯罪の抑制に向けられている限りはですね、共同社会の道理をわきまえたメンバーす べての支持を得るにちがいないが、それでも私は十分公的機関がその目的にかなうことを疑い 得ませんな。あなたが私人の秘密を穿鑿する時、隠しておいた方がよい家族の問題を暴き出す時、そのつ いでにあなたより忙しい人間の時間を浪費する時、あなたの仕事はさらに批判を免れない。たとえば今も、 私はあなたと話をするより論文を書いているべきなんです。」
 「その通りです、博士。それでもこの会話は論文よりも重要ということになるかもしれません。ついで ながら、そう言ってさしつかえないと思いますが、僕たちはあなたがきわめて正当に非難したことと逆のことをし ていますし、またひとたび事件がまったく公警察の手に移ればそれに続いて必然的に私的問題が世間へ暴露 されます、で、そうしたことを防ぐよう僕たちは努力しているのです。あなたは僕を単に正規軍の前を行 く不正規兵とみなしているのかもしれませんね。僕はあなたにゴドフリー・スタントン氏について尋ねる ために来たのです。」
 「彼がどうしました?」
 「彼のことはご存知ですね?」
 「懇意にしてますが。」
 「彼が失踪してしまったのは知ってますか?」
 「ああ、本当に!」医師のいかつい顔に浮かんだ表情に変化はなかった。
 「彼は昨日の夜ホテルを出て--消息が聞かれません。」
 「おそらく戻るでしょう。」
 「明日は大学対抗ラグビーです。」
 「あの子供じみた競技には何の共感も覚えません。若者の運命には深い関心を抱いてますが。彼を知っ てるし、彼が好きですから。ラグビーの試合は私の視野にはまったく入りません。」
 「それではスタントン氏の運命に関する僕の調査に共鳴していただきましょう。彼がどこにいるかご存 知ですか?」
 「いえ、まったく。」
 「昨日から彼に会いましたか?」
 「いいえ、会ってません。」
 「スタントン氏は健康ですか?」
 「完全に。」
 「以前の病気はご存知ですか?」
 「いいえまったく。」
 ホームズは紙を一枚医師の目の前にひょいと出した。「ではできましたらこの領収済みとある、先月ゴドフリー・スタ ントン氏がケンブリッジのレスリー・アームストロング医師に支払った十三ギニーの請求書の説明をしていた だけますか。彼の机の上の書類の中から見つけたものです。」
 医師は怒りに顔を赤くした。
 「私があなたに説明をしなけりゃならん理由があるとは思いません、ホームズさん。」
 ホームズは請求書を手帳に戻した。「公に説明する方がお好みなら、いずれそうなるにちがいありませ ん」と彼は言った。「既に申し上げたようにほかの人たちなら公表せざるをえないことを僕は隠しておけ ますし、本当にすっかり僕に秘密を打ち明ける方が賢明でしょうに。」
 「私はそれについては何も知りません。」
 「ロンドンにいたスタントン氏から連絡はありましたか?」
 「まったくありません。」
 「おやおや--また郵便局か!」ホームズはあきあきしたようにため息をついた。「非常に緊急の電報 が昨日の晩六時十五分、ロンドンのゴドフリー・スタントンからあなたに発信されました--間違いなく彼 の失踪と関係のある電報です--それなのにあなたは受け取らなかった。まったくけしからん。是非ともここ の局まで行って苦情を申し立てなくては。」
 レスリー・アームストロング医師は机の後ろから飛び上がり、その浅黒い顔は怒りのため真っ赤になっ た。
 「どうか私の家から出て行っていただきたい」と彼は言った。「雇い主のマウントジェイムズ卿に言っ てもらってかまわないが、私は彼ともその代理人とも一切かかわりを持ちたくない。いや--もう一言もおっしゃるな!」 彼は猛烈にベルを鳴らした。「ジョン、この紳士方を外へご案内して!」尊大な執事が私たちを容赦なく 戸口へ案内し、私たちは通りに出ていた。ホームズはドッと笑い出した。
 「レスリー・アームストロング博士は間違いなく気力と気骨の人だね」と彼は言った。「もし彼が才能 をあちらの方に向けるなら、傑物モリアーティの残した空白を埋めるのにあれ以上適した人物は見たことが ないんだがね。さてさて、ねえワトソン、僕たちはここにいて、立ち往生して、この無愛想な町に味方も 無く、さりとて出て行くには事件をあきらめなければならない。この、アームストロングの家の真向かい の小さな宿は僕たちの求めに実にぴったりじゃないか。君が正面の部屋を取って、今夜必要なものを買っ てくれれば、僕には二、三調査する時間があるかな。」
 しかし、この二、三の調査はホームズが思っていたよりも時間のかかることとなり、彼は九時近くまで宿 に戻らなかった。彼は青ざめ、落胆し、埃にまみれ、空腹と疲労でへとへとになっていた。冷たい夜食が テーブルに用意され、そして必要が満たされてパイプに火がつくと彼もすぐに、事件がうまくいっていな い時の彼の持ち味である、半ば喜劇的ですっかり達観した見方をする気になった。馬車の車輪 の音に彼は立ち上がり、窓の外に目をやった。ブルーム型の灰色の二頭立てがぎらぎらするガス灯の下、 医師の戸口の前に止まった。
 「三時間出ていた、」ホームズは言った、「六時半に出てこうしてまた戻ってきた。半径十マイルか十 二マイルになるが、それを彼は日に一度、時には二度やるんだ。」
 「開業医なら珍しいことじゃないよ。」
 「しかしアームストロングは実際には開業医ではない。彼は大学の講師であり顧問医師だが、一般の患 者は著述の仕事の気をそらすから診ないんだ。ではなぜ、彼にとってきわめて退屈にちがいないこの長旅を するのか、そして訪問の相手は誰なのか?」
 「彼の御者が--」
 「ワトソン君、御者なら僕が最初に当たるに決まってるじゃないか。生まれつき下劣だからか主人 に吹き込まれたからか知らないが、まったく無礼な奴で犬を僕にけしかけてきたよ。しかし犬も男も僕の ステッキの外見が気に入らなかったか、やっかいなことにはならなかったがね。その後は張り詰めた関 係になってそれ以上の質問など問題外だった。僕が知ったことはすべてこの宿の庭で親切な土地の人から 聞いたことだ。その人があの先生の習慣と毎日の旅について話してくれたんだ。ちょうど話してるところへ、論より 証拠、馬車が戸口へやってきたじゃないか。」
 「追跡できなかったのか?」
 「すばらしい、ワトソン!今夜は才気煥発だね。その考えは僕にも浮かんだ。君も気がついたかも しれないが、宿の隣に自転車屋がある。そこに僕は駆け込んで、一台借りて、出発できた時に馬車はい くらか見えていた。僕はすばやく追いつき、それから目立たないように百ヤードほどの距離を保ち、町を 離れるまで馬車の明かりを追った。すっかり田舎道に出た時だったよ、ちょっと悔しい出来事が起きたの は。馬車が止まり、先生が降り、僕が同じように立ち止まっているところまでさっさと戻ってきて、絶妙 の皮肉を利かせて言ったものさ、どうも道が狭いようだし、僕の自転車の通行の邪魔はしたくないとね。 あれ以上見事な言い方はできなかったろう。僕は直ちに乗って馬車を通り越し、本道から外れずに、数マ イル進み、手ごろな場所に立ち止まって馬車が通り過ぎるかどうか見ていた。しかし、その兆候はなく、 僕もいくつかわき道があるのには気がついていたが、その一つへと曲がったことが明らかになった。僕は ユーターンしたが、二度と馬車は見つからず、そして今、君も見たように、僕の後から戻ってきた。もち ろん初めから僕にはこの旅をゴドフリー・スタントンの失踪と結びつける理由は特になかったわけで、た だ目下、アームストロング博士に関するすべてが僕たちにとって興味深いという大まかな根拠で調べてみ る気になったにすぎないんだが、でもこの遠出をつけていく者が無いかと彼があんなに厳しく警戒するのを見 ると、事件はますます重大に見えてくるし、この事をはっきりさせるまでは何としても納得できないね。」
 「明日彼をつけることもできるじゃないか。」
 「明日?君は楽観しているようだね。君はケンブリッジシャーの風景をよく知らないんだろう?身を隠す には適していないんだ。今夜僕が通ってきたここら一帯はずっと、君の手のひら同様に平らできれいなも のだし、僕たちが追っている男は今夜きわめてはっきりと見せてもらったように決してばかじゃない。僕 はオゥヴァトンにロンドンで何か新たな進展があったらここの住所に知らせるよう電報を打っておいたか ら、何かあるまで僕たちはアームストロング博士に注意を集中するほかないな。局のあの親切な若い婦人 がスタントンの緊急の通信の控えにあるのを読ませてくれた名前だからね。彼は青年の居場所を知ってい る--それは誓って言うよ、そして彼が知っているなら、僕たちだってどうにか知ることができないとす ると、それは僕たち自身の落ち度にちがいない。今のところあちらがコツを呑み込んでいるのを認めざる をえないが、君も知っているようにね、ワトソン、そんな状態でゲームを捨てるのは僕の習慣にないんだ。」
 といっても翌日も私たちは謎の解決に少しも近づかなかった。朝食後に一通の手紙が手渡され、ホーム ズはそれを微笑みながら私の方へよこした。

拝啓(と書かれていた)
 これは確かなことですが、私の動きをつけまわしてもあなたには時間の無駄です。昨夜お気づきでしょ うが、私の馬車には後ろに窓がありますし、出発した地点に至る二十マイルの遠乗りをお望みなら私を追 っていればいいでしょう。一方、私をスパイしても決してゴドフリー・スタントンの助けにならないこと はお知らせできますし、私の確信するところ、あなたにできるあの紳士にとって最も役に立つことは直ち にロンドンに戻り、あなたの雇い主に彼を追跡することはできないと報告することです。ケンブリッジに いらっしゃることは間違いなく時間の浪費になります。

敬具
 レスリー・アームストロング


 「率直で正直な相手だね先生は」とホームズは言った。「まあいい、まあいい、彼は僕の好奇心をか き立てるし、おさらばする前にぜひとも知らなければなるまい。」
 「馬車が今、ドアの前にある」と私が言った。「ほら彼が乗り込んでいる。そうしながらこちらの窓を チラと見上げるのが見えた。僕が自転車に乗っていちかばちかやってみようか?」
 「だめ、だめだよ、ワトソン君!悪いが、いくら君が生まれつき明敏と言っても、あのなかなかな先生 の好敵手とはちょっと思えないよ。ことによると僕自身の独自の探求によって目的を達成できると思うん だ。残念だが君は好きなように過ごしてくれたまえ。静かな田舎にせんさく好きなよそ者が二人も現れて は余計なゴシップを引き起こしておもしろくないことになりかねないからね。間違いなくこの古都には君 も楽しめる見所がいくつか発見できるだろうし、僕も夕方前に戻って君にもっと有望な報告をしたいもの だ。」
 しかしもう一度、我が友は失望する運命にあった。彼は夜、疲れ、失敗して戻ってきた。
 「むなしい一日だったよ、ワトソン。先生の大体の方角をつかんで、僕は一日かけてケンブリッジのそ っちの方の村をすべて訪ね、パブの主人やらなにやら地元の情報源と意見交換をしたんだ。いくつかの土 地を踏破したよ。チェスタトン、ヒストン、ウォータービーチ、オーキントンをそれぞれ調査して、それ ぞれ失望に終わった。こういう静かな所では毎日現れる二頭立てのブルームが見逃されるはずはないんだ。 またもや先生の得点だ。僕に電報が来てるかい?」
 「ああ、開けてみた。これだよ。
   『トリニティー・カレッジのジェレミー・ディクソンにポンピーを頼め。』
 僕にはわからん。」
 「ああ、それははっきりしてる。我が友オゥヴァトンからで、僕の問い合わせへの答えだ。僕はちょっ とジェレミー・ディクソンに手紙を出してこよう、それできっと僕たちに運が向いてくるだろう。それは そうと試合のニュースはあるかい?」
 「ああ、地元の夕刊の最終版に優れた記事が出ている。オックスフォードがワンゴール、ツートライ差 で勝ったよ。記述の最後の部分でこう言っている。

ライトブルーの敗北は完全にイングランド代表の名手、ゴドフリー・スタントンの 残念な欠場のためであり、試合中一刻ごとに彼の必要が感じられた。スリークォーターラインの連携の欠 如とその攻守両面における弱点は、重量フォワードの懸命の努力も打ち消せないものだった。」

「それでは我が友オゥヴァトンの予感は正しかったんだ」とホームズは言った。個人的には僕もアー ムストロング博士に同感で、ラグビーは僕の視野には入ってこないがね。今夜は早く寝よう、ワトソン、 明日は波乱の一日になるかもしれないと思うから。」
 翌朝、まずホームズを一目見て私はぞっとした。彼が小さな皮下注射器を握って暖炉のそばに座ってい たからである。私はその器具を彼の性質のただ一つの弱点と結びつけ、彼の手の中でそれが光るのを見て 最悪のことを恐れたのだ。彼は狼狽した私の表情を見て笑い、それをテーブルの上に置いた。
 「いや、いや、君、心配することはないよ。今回はこれは邪悪な器具ではなくて、むしろ謎の扉を開ける鍵に なるだろう。この注射器に僕はすべての希望の基礎を置いているんだ。僕はたった今ちょっとした偵察活 動の遠征から戻ったところだが、すべてが順調だ。たっぷり朝食を取ることだ、ワトソン、今日はアーム ストロング博士の臭跡を追っていくつもりだし、一度見つけたら巣穴に追い込むまで休息や食事に止まる ことはないからね。」
 「それなら、」私は言った、「朝食は持っていった方がいいよ、彼は早めに出発しようとしている。馬 車が戸口にいるじゃないか。」
 「心配無用。行かせよう。僕が追っていけない所へ走らせることができたら向こうが利口ということに なる。終わったら一緒に下に行って君を探偵さんに紹介しよう。僕たちの前途にある仕事のきわめて卓越 した専門家だ。」
 一緒に下りていき、私はホームズについて馬屋の庭に入り、そこで彼は馬屋の戸を開け、ずんぐりした 垂れ耳の、ビーグルともフォックスハウンドともつかぬ白と茶色の犬を連れ出した。
 「ポンピーを紹介します」と彼は言った。「ポンピーは地元でいちばんの猟犬だ--つくりを見ればわ かるようにあまり快速というのではないが、嗅覚は信用できる猟犬だ。さて、ポンピー、君はあまり速く ないかもしれないが、中年のロンドン紳士二人にとっては速すぎるだろうと思うんだ、それで失礼だがこ の革紐を君の首輪につけさせてもらうよ。さあ、君、おいで、何ができるか見せてくれ。」彼は犬を医者 の戸口まで連れて行った。犬はほんのちょっとの間、あたりを嗅ぎまわり、それから興奮して鋭く鼻を鳴 らして通りを走り出し、速く行こうとぐいぐい革紐を引っ張った。三十分で私たちは町を離れ、田舎道に 沿って急いでいた。
 「何をしたんだ、ホームズ?」と私は尋ねた。
 「陳腐な古くさい方法だがね、時には役に立つ。今朝先生のうちの庭に入ってね、注射器いっぱいのア ニスを後輪にうってやったんだ。猟犬はどこまででもアニスを追ってゆく、だから我が友アームストロン グもポンピーを臭跡から振り切るにはケム川をくぐらなければなるまい。ああ、狡猾な悪党!こうやってこ の間の夜、僕をまいたんだ。」
 犬が突然本道から草の茂った小道に曲がったのだった。さらに半マイル行くとそれはもう一本の広い道 に通じ、臭跡は右に急カーブし、私たちが出てきたばかりの町の方角へ向かった。その道は町の南側へと 湾曲し、私たちが出発したのと正反対の方向に続いていた。
 「それじゃあ、この回り道はまったく僕たちのためか?」とホームズは言った。「村人たちを尋ね回っ て何にもならなかったのも不思議はないね。先生は確かに全力を尽くして勝負に臨んでいるが、そんな手 のこんだごまかしをする理由を知りたいものじゃないか。この僕たちの右側はトランピントンの村のはず だ。そして、なんと!ほらブルーム馬車が角を曲がってくる。急いで、ワトソン--急いで、でないと終 わりだ!」
 彼は嫌がる後ろのポンピーを引きずりながら門から畑に飛び込んだ。私たちが生垣に退避した時にはも う馬車がガタガタと通り過ぎていた。私には中のアームストロング博士の肩を落とし、両手に頭をうずめ た、まさしく苦悩の姿がチラと見えた。連れのまじめな顔から彼もまた見たことがわかった。
 「僕たちの探求は何か暗い終局を迎えるんじゃないだろうね」と彼は言った。「まもなくわかるはずだ。 さあ、ポンピー!ああ、野原の中の田舎家だ!」
 私たちが旅の目的地に到着したのは疑う余地がなかった。ポンピーが走り回り、門の外でしきりに鼻を 鳴らすあたりには、ブルーム馬車の車輪の跡がまだ見えていた。小道が寂しい田舎家へと横切っていた。 ホームズが犬を生垣につなぎ、私たちは急いで進んだ。友が小さい質朴なドアをノックし、もう一度ノッ クしたが応答はなかった。とはいえ家には人がいないのではなく、低い音が私たちの耳に聞こえていた-- 低い、一種の苦悩と絶望の音楽で、言葉に表せないほど物悲しい音だった。ホームズは決断できずにため らい、それから今横切ってきた道をチラと振り返った。ブルーム馬車がやってきており、紛う方ないあの 灰色の馬たちだった。
 「なんてこった、先生が戻ってきてる!」とホームズが叫んだ。「それで決まった。僕たちは彼が来る 前にこれが何を意味するのか見なければならない。」
 彼がドアを開け、私たちは玄関に踏み込んでいた。低い持続音は次第に私たちの耳に高まり、ついに長 く、太い、悲嘆の叫び声となった。それは二階から聞こえていた。ホームズが駆け上がり、私も続いた。 半開きのドアを彼が押し開けると、私たちは二人とも目の前の光景にぎょっとして立ちすくんだ。
 若く、美しい女性が死んでベッドに横たわっていた。その穏やかな青白い顔、ぼんやりと、大きく見開 かれた青い目は、もつれた豊かな金髪の中から上を見ていた。ベッドの足もとには半ば座り、半ばひざま ずき、寝具に顔を埋めた若い男がいて、その体はむせび泣きに揺れていた。つらい悲しみに心を奪われている彼は ホームズが肩に手を置くまで目を上げようとしなかった。
 「ゴドフリー・スタントンさんですね?」
 「ええ、ええ、そうです--でももう遅い。彼女は死にました。」
 呆然としているこの人に、私たちが決して助けに送られてきた医者ではないと飲み込ませることはでき なかった。ホームズが懸命になって、慰めの言葉をかけ、彼の突然の失踪が友人たちに引き起こした恐慌を説明しよう としている時、階段に足音がして、アームストロング博士の大きな、険しい、詰問するような顔が戸口に あった。
 「これは諸君、」彼は言った、「あなた方は目的を達成し、またまったくとりわけ慎みを要する瞬間を 選んで押し入ったのですね。死を面前にけんかするつもりはないが、私が若かったら間違いなく、あな た方もけしからぬふるまいをして無事にはすまなかったでしょうよ。」
 「失礼ですが、アームストロング博士、僕たちにはちょっとした行き違いがあるようです」と我が 友が威厳を持って言った。「一緒に下に下りてくだされば、この不幸な出来事を互いにいくらかでも明ら かにすることができるかもしれません。」
 一分後、いかめしい医者と私たちは下の居間にいた。
 「それで?」と彼は言った。
 「ご理解いただきたいのは、まず第一に、僕がマウントジェイムズ卿に雇われているのではないこと、 この事件に関して僕にはあの貴族とまったく共鳴するところはないことです。一人の男が行方不明になっ た時、その運命を確認するのが僕の務めですが、それが済めば僕に関する限りその件は終わりで、犯罪者 さえなければ私的なスキャンダルは公表するより、ぜひ口をつぐんでいたいのです。僕の想像通りこの件 に法律違反がないなら、事実が新聞に出ないようにする僕の思慮分別と協力を完全に信頼してくださって 結構です。」
 アームストロング博士はすばやく歩み寄ってホームズの手を固く握った。
 「あなたはいい方だ」と彼は言った。「私は判断を誤っていた。かわいそうなスタントンをたった一人 あの状態で残したことを後悔して馬車を引き返させ、それであなたと知り合いになれたことを天に感謝し ます。あなたはよくご存知だから、状況の説明はきわめて容易です。一年前ゴドフリー・スタントンは 一時ロンドンに下宿し、そこのおかみの娘を熱烈に愛するようになり、彼女と結婚しました。彼女はその 美しさに負けないほど思いやりがあり、その思いやりに負けないほど聡明でした。そのような妻を恥じる 必要のある男などありません。しかしゴドフリーはあのつむじ曲がりの老貴族の跡取りであり、彼の結婚 が知れるとその相続が取りやめになったはずであるのはまったく確実です。私は彼をよく知り、多くの優れた特 質がある彼が好きでした。私はできる限り、事態に間違いがないよう彼を助けました。私たちはその事を 誰にも知られないように最善を尽くしました。というのも、そういう噂は一度広まるとすぐに皆の耳に入 りますから。この寂しい田舎家と彼の慎重さのおかげで、今までゴドフリーはうまくやってました。彼ら の秘密は私と、今トランピントンに助けを呼びに行っている優秀な召使のほかには誰にも知られてません。 しかし恐ろしい打撃が彼の妻の危険な病気という形で襲いました。最も悪性に属する肺病でした。哀れな 青年は悲しみに気も狂わんばかりでしたが、それでもあの試合でプレーするためにロンドンに行かなけれ ばなりませんでした。彼の秘密をさらすことになる説明をしないで抜けることができなかったからです。私は 彼を元気づけようと電報を打ち、彼はできるだけのことをしてくれと懇願する返事を一通よこしました。 これがあなたが何か私にはわからない方法で見たらしい電報です。彼がここにいても何の役にも立てないのがわか っていたので、私は彼に危険がどれほど差し迫っているかを教えませんでしたが、娘の父親には本当のこ とを連絡し、そして彼がきわめて無分別にもそれをゴドフリーに伝えたのです。その結果、彼はまるで狂 乱状態になってすぐにやってきて、そのままの状態で、今朝、死が彼女の苦しみを終わりにするまで、彼 女のベッドの端にひざまずいていました。これで全部です、ホームズさん、私はあなたとあなたの友人の 分別を信頼できるものと確信しています。」
 ホームズは医者の手をしっかりと握った。
 「行こう、ワトソン」と彼が言い、私たちはその悲しみの家から冬の日の淡い陽光の中へ出た。

アビ屋敷(The Adventure of the Abbey Grange)

 

1897年の冬も終わりに近い、身を切るような寒い夜の明け、霜の降りる朝のこと、私は肩をぐいと引かれて 起こされた。ホームズだった。彼が手に持つろうそくがその興奮してかがみこむ顔を照らし、一目見て私 は何かよくないことがあったのを知った。
 「さあ、ワトソン、さあ!」彼は叫んだ。「ゲームは始まってる。黙って服を着て来るんだ!」
 十分後私たちは二人とも馬車に乗り、静かな街路をチャリング・クロスに向かってガタガタ揺られてい た。ほのかな冬の曙の先駆けが現れ始め、時折早出の労働者がロンドンのオパールの煙霧の中を通り行く、 にじんでぼやけた姿がかすかに見えた。ホームズは黙って厚いコートにくるまり、私も喜んで同じように していた。というのも空気は冷たく、私たちは二人とも食事をしていなかったからだ。
 駅で熱い茶を飲み干し、ケント行き列車に席を占めて十分温まってからやっとホームズが口を開き、私 も聞き耳を立てた。彼はポケットから手紙を引っ張り出し、音読した。

ケント州、マーシャム、大修道院跡、アビ屋敷、午前3時30分

シャーロック・ホームズ様
 きわめて驚くべき事件になりそうですのですぐに助力をいただけるとありがたいのですが。まったくあ なたの好みに合いそうです。奥方を解放したほかは、すべて私が発見したそのままに保たれていると思い ますが、サー・ユースタスをそのまま置いておけないので、一刻も失わぬようお願いします。

敬具
スタンリイ・ホプキンズ

ホプキンズに呼ばれたことは七回あるが、どの場合も彼の呼び出しは正しかった」とホームズは言っ た。「彼の事件はみんな君のコレクションに入れられちまったんじゃなかったかな。僕は認めるがね、ワ トソン、君には選択眼のようなものがあって、それがずいぶん償ってはいるが、君の記述はまったくいた だけないね。すべてを科学的課題として見る代わりに物語の観点から見る君の致命的な習慣が、啓蒙的で、その 上模範的な一連の実地教育となりえたはずのものをだめにしてしまった。君は興味本位の枝葉をくどくど書か んがために、最高に巧妙で精緻な仕事をあいまいにした。それで読者は興奮するかもしれないが、到底 読者に教えるところはない。」
 「なぜ自分で書かないんだ?」私はいささか皮肉をこめて言った。
 「書くよ、ワトソン君、今に。目下僕は、君も知ってるようにかなり忙しいが、晩年は教科書を書くこ とにささげるつもりなんだ。探偵技術のすべてを一冊に集約することになろう。僕たちの今日の研究は殺 人事件らしいね。」
 「ではこのサー・ユースタスが死んだと考えるんだね?」
 「そうだと思う。ホプキンズの書きっぷりにはかなり動揺が見られるが、彼は感情的な男ではないから ね。そう、暴力行為があって、死体は僕たちの検査のために残されているんだと思う。単なる自殺では彼 が僕に使いを出すことにはならないだろう。奥方の解放、ということは、彼女は惨事の間部屋に監禁されていた と思われる。僕たちが入っていくのは、ワトソン、上流の生活であり、パリパリの紙幣、『E.B.』のモノ グラム、紋章、大時代な所書きだ。友ホプキンズが評判にこたえれば、僕たちの朝はおもしろくなるだ ろうよ。犯行があったのは昨日の夜十二時前だ。」
 「どうしてわかるんだ?」
 「列車を詳しく調べて時間を計算したからさ。地元の警察を呼ばなければならない、次にスコットラ ンドヤードに連絡しなければならない、ホプキンズが出かけなければならない、今度は彼が僕を呼びに使 いを出さなければならない。それをすべて済ますにはまずまず一晩かかるよ。あ、さあチズルハースト駅 に着いたし、僕たちの疑いもすぐに解決するだろう。」
 狭いいなか道を数マイル走らせると私たちは庭園の門に着き、それを門番小屋の老人が開けてくれたが、 そのやつれた顔は何か大きな惨事のあったことを反映していた。見事な庭園の中を老いた楡の並木道が走 り、その果てに低い、翼を広げた、パラディオ風に正面の柱のある家があった。中央部は明らかに時代物 でツタに覆われていたが、大きな窓々は近代的な改修が行われたことを示し、また建物の一方の翼はまっ たく新しいように見えた。スタンリイ・ホプキンズの若々しい姿、油断ない、熱心な顔が開いた玄関口で 私たちを迎えた。
 「来てくださって大変嬉しいですよ、ホームズさん。それからあなたも、ワトソン博士。しかし、実を 言うと、時間を元に戻せるならあなた方にお手数をかけなかったのですが。いや、奥方が意識を回復して から事の顛末をはっきりと話されたので、我々のすることはあまり残っていないものですから。例のルイ シャムの夜盗団を覚えてますか?」
 「ん、ランダル三人組かい?」
 「そうです。親父と息子二人の。奴らの仕事ですよ。間違いありません。二週間前シドナムで一仕事し たのを見られて人相書きが出ています。こんなにすぐにこんなに近くでまたやるとはかなりずうずうしいです が、でも奴らです、まったく疑いなく。今度は絞首刑ものです。」
 「ではサー・ユースタスは死んだんだね?」
 「ええ、ご自分のとこの火かき棒で頭を強打されて。」
 「サー・ユースタス・ブラックンストール、と御者は言ったが。」
 「その通りです--ケントでも指折りの資産家です--レディー・ブラックンストールは居間におられ ます。お気の毒に、大変恐ろしい経験をされました。私が最初に見た時には半死半生のように見えました。 ご自分で彼女をご覧になって彼女の話す事実をお聞きになるのがいちばんだと思います。それから一緒に ダイニングルームを調べましょう。」
 レディー・ブラックンストールは決して平凡な人ではなかった。私はあのように優美な姿、あのように女性らしい 物腰、あのように美しい顔をめったに見たことがない。色白で金髪、目は青く、直前の経験により引きつ り、やつれていなければ、きっとそうした彩りにふさわしい理想的な顔色だったにちがいない。彼女の苦 しみは肉体、精神の両面にわたり、片方の目の上がひどく醜く紫色にはれ上がり、それを彼女のメイド、 背の高い、厳格な女が一生懸命酢と水で冷やしていた。レディーは疲れきって寝椅子に仰向けになっ ていたが、私たちが部屋に入った時の彼女の鋭く、注意深い視線、美しい顔に浮かんだ警戒の表情はその 判断力、勇気が恐ろしい経験によって揺るがされていないことを示していた。彼女は青と銀のゆったりし た部屋着にくるまっていたが、黒のスパンコールのついたディナードレスが寝椅子の彼女のそばに置かれ ていた。
 「起こったことはすべてあなたに申し上げましたが、ホプキンズさん」と彼女は疲れをにじませて言った。 「あなたが私の代わりに繰り返してくださらない?まあ、それが必要とお思いなら、私がこちらの紳士方 に何が起こったかお話ししましょう。もうダイニングルームにはいらしたのかしら?」
 「先に奥様のお話を伺う方がよいと思いまして。」
 「事を運んでいただけると嬉しいんですけど。あの人があそこに倒れていると思うとぞっとしますの。」 彼女は震え、両手で顔を覆った。その時、ゆるいガウンが彼女の前腕から滑り落ちた。ホームズが叫び声 を発した。
 「ほかにも傷がありますね、奥様!これは何です?」鮮明な赤い点が二つ、白く丸い上肢の一方の上に くっきりと見えていた。彼女は急いでそれを隠した。
 「何でもありません。昨夜のあの醜悪な事件とは何の関係もありません。どうぞあなたもお友達もお座 りになって、できる限りお話ししますわ。」
 「私はサー・ユースタス・ブラックンストールの妻です。結婚して一年ほどになります。私たちの結婚 が幸せなものではなかったことを隠そうとしても何にもならないでしょうね。私が否定してみたところで、 ご近所の皆さんがそうおっしゃるんじゃないかと思います。ことによると責任の一部は私にあるのでしょ う。私は南オーストラリアのより自由で慣習にとらわれない環境で育てられて、このイギリス生活は堅苦 しい礼儀作法が私の性に合わないのです。でも主な理由は、誰もが知っているある事実、つまりサー・ ユースタスが常習的な大酒飲みだということにあるのです。そんな男とは一時間一緒にいるのも不愉快で す。昼も夜も彼に縛り付けられることが感じやすい、気概のある女にとってどんな意味を持つか想像して いただけます?そんな結婚を義務と考えるのは冒涜、犯罪、不道徳ですわ。言っておきますがあなた方の このひどい法律は国に呪いをもたらしますよ--神がこんな邪悪なことを存続させておくものですか。」 束の間、彼女は起き直り、その頬は紅潮し、額のものすごい傷跡の下の目は燃え立った。その時厳しいメ イドの力強い、慰撫する手が彼女の頭をクッションの上に引き下ろすと、荒々しい怒りは静まって激しい すすり泣きに変わった。ようやく彼女が続けた。
 「昨夜のことを話しましょう。あるいはお気づきでしょうが、この家では召使は皆新しい翼で休みます。 この中央の建物はそれぞれ住まいとなる部屋部屋から成っていて、後ろに調理場があり、私たちの寝室は 二階です。メイドのテリーサは私の部屋の上で休みます。ほかには誰もいませんし、音がしても向こうの 翼にいる者に危険が伝わるはずがありません。これが泥棒たちによく知られていたにちがいありませ ん、さもなければあのようなふるまいはしなかったでしょう。
 サー・ユースタスは十時半頃引き取りました。召使たちはもう自分たちの部屋へ下がっていました。私 のメイドだけが起きていて、私の用があるのを待って建物の最上階の彼女の部屋に残っていました。私は 本に夢中になって十一時過ぎまでこの部屋に座っていました。それから私は二階へ上がる前に何も問題な いか見て回りました。自分でそうするのが私の習慣で、というのも、申しましたように、サー・ユースタ スをいつも信用するわけにいきませんので。私は調理場、食器室、銃器室、ビリヤードルーム、客間、そ して最後にダイニングルームに入りました。厚いカーテンのかかった窓に近づいた時です、不意に私は顔 に当たる風を感じ、窓が開いていることに気づきました。さっとカーテンをわきに寄せると、私は、ちょ うど部屋に踏み入ったばかりの、肩幅の広い年配の男と向かい合っていました。それは長いフランス窓で、 実際には芝生へ通じるドアになっていました。私は寝室のろうそくを灯して手に持っていましたが、その 明かりで初めの男の後ろにほかにも、まさに入ろうとしている二人が見えました。私は後ずさりしました が、男はたちまち私に向かってきました。まず私の手首を、それからのどをつかみました。私は口を開け、 叫びましたが、こぶしで目の上をひどく殴られ、床に打ち倒されました。私は数分間意識を失っていたに ちがいありません、正気に返ってみますと、彼らはベルの紐を引きちぎり、私をダイニングテーブルの上 座にあったオーク製の椅子にしっかりと縛り付けていました。固く縛られていた私は動くこともできず、 口のまわりのハンカチのため声も立てられませんでした。ちょうどこの時です、不運にも夫が部屋に入っ てきたのは。明らかに彼は怪しい物音を聞き、目にしたような状況に対する心構えをして来たのです。寝 巻きにズボンを着け、お気に入りのリンボクのステッキを手にしていました。彼は泥棒たちの方へ突進しましたが、一 人が--年配の男でした--かがんで、暖炉から火かき棒を取り、横から彼に恐ろしい一撃を加えました。 彼はうめき声を上げて倒れ、そのまま動かなくなりました。私はもう一度卒倒しましたが、それも意識を 失っていたのはほんの数分間だけだったはずです。目を開けると彼らはサイドボードから銀製品を集め、 そこにあったワインの瓶を出していました。それぞれがグラスを手にしていました。もう申しましたかし ら、一人は年配であごひげがあり、あとは若く、ひげのない若者でした。父親と息子二人だったかもしれ ません。彼らはひそひそ話し合っていました。それから彼らはやってきて、私をしっかり縛ってあるか確 かめました。最後に彼らは窓を後ろ手に閉めて引き上げました。十五分大変な思いをしてやっと口が自由 になりました。そうして、私の叫び声でメイドが助けに来ました。ほかの召使たちにもすぐに急が告げら れ、地元の警察に使いを出し、すぐにロンドンにも伝えられました。私に話せるのは本当にこれで全部で す、皆さん、こんなつらい話を繰り返すことはもう二度と必要ないと思うのですが。」
 「何か質問は、ホームズさん?」とホプキンズが尋ねた。
 「僕はもうこれ以上レディー・ブラックンストールに辛抱していただき、長時間の負担をおかけするつもりはあり ません」とホームズは言った。「ダイニングルームを調べる前に君の見聞きしたことを聞かせて欲しいの だが。」彼はメイドを見た。
 「私は家に入る前の男たちを見ました」と彼女は言った。「寝室の窓際に座っていた時、月明かりの下、 向こうの門番小屋の門のそばに三人の男が見えましたが、その時は何とも思いませんでした。一時間以上 たって奥様の叫び声を聞き、駆け下りて、見つけましたのが、かわいそうにお嬢様が、おっしゃる通りのご 様子で、それと旦那様は床に、部屋中血と脳みそで。女なら正気を失って当然でございます、そこに縛り つけられて、ドレスにまであの汚れがついて、でもアデレイドのメアリー・フレイザーお嬢様、アビ屋敷の レディー・ブラックンストールは新しいやり方は身につけていなくても、勇気が足りないなんてことは決 してありませんでした。もうずいぶん長く質問をなさったのですから、皆さん、奥様はご自分の部屋へ行 くことにしますよ、この老いたテリーサと一緒にね、どうしてもお休みを取らなくてはいけませんから。」
 母親のように優しく、やせた婦人はその手を女主人の腰に回し、部屋から連れ出した。
 「彼女は生涯付き添ってきたんです」とホプキンズは言った。「赤ん坊の時は乳母として、そして十八 ヶ月前、初めてオーストラリアを離れてイングランドに来る時も一緒に。テリーサ・ライトという名で、 今時ちょっと見つからないタイプのメイドですよ。こっちです、ホームズさん、よかったら。」
 強い関心はホームズの表情豊かな顔から消え、事件の魅力はすべて謎とともに去ったことが私にはわかっ た。まだ逮捕すると言うことが残っていたが、なぜこんな平凡な悪党に関係して彼が手を汚す必要がある のか?高度な学識ある専門医が往診を頼まれて行ってみるとはしかの患者だった時に経験する、ちょっとし た腹立たしさのようなものを私は友の目に読み取った。それでも現場のアビ屋敷のダイニングルームはか なり変わっていて彼の注意を捕らえ、衰えていた興味を呼び戻した。
 それは非常に大きな、天井の高い部屋で、オークの木彫りの天井、オークの羽目板、そしてまわりの壁 には鹿の頭や昔の武器が見事に並んでいた。ドアの反対側の端に私たちの聞いていた高いフランス窓があ った。右側にあるやや小さい三つの窓が広間を冬の冷たい陽射しで満たしていた。左側には大きな、奥行 きのある暖炉、どっしりと張り出したマントルピースがあった。暖炉のそばには肘掛と底部に筋交いのあ る重いオークの椅子があった。その木製品のすき間から出たり入ったりして真紅の紐が編まれ、その両端 は下の斜めの棒に固定されてた。レディーを解放して体は紐をすべり抜けていたが、紐を固定し ていた結び目はまだ残っていた。こうした細かいことはあとになって初めて私たちの注意を引いたものだ。なぜ なら、私たちは暖炉の前の敷物の上に横たわる恐ろしいものにすっかり思いを奪われていたからである。
 それは四十歳ほどの、長身のがっしりした男の死体だった。仰向けに倒れ、顔を上に向け、短く黒いあ ごひげの間から白い歯をむき出していた。こぶしを固めた両手は頭の上に上げられ、重いリンボ クのステッキがまたがっていた。その浅黒くハンサムな、鷲のような顔立ちはゆがんで、敵意あらわな憎悪に引 きつり、それが死に顔を恐ろしい鬼のような表情にしていた。突然警鐘が鳴らされた時、明らかに彼は寝 ていたので、おしゃれな刺繍入りの寝巻きを身に着け、素足がズボンから突き出ていた。頭にひどい 怪我をしており、部屋全体が彼を打ち倒した一撃の残忍きわまる性格を証言していた。彼のそばにはその 打撃で湾曲した重い火かき棒がころがっていた。ホームズはそれと、それがもたらした無残な姿の両方を 調べた。
 「力の強い男らしいね、ランダル老人は」と彼は言った。
 「ええ」とホプキンズが言った。「前歴を見ると荒っぽいやつです。」
 「捕まえるのは難しくないだろうね。」
 「ええ、少しも。我々は奴を警戒していたんですが、アメリカへ行ってしまったかとも考えてい ました。今や一味がここにいるとわかったからには、どうしたって逃げられっこありません。あらゆる港 から常に情報を得てますし、夕方前には朗報が来るでしょう。わからないのはどうして奴らがこんな無謀 なことをしてしまったのか、レディーは人相を言うはずだし、その人相が我々にわからないはずは絶対に ないとわかってたでしょうにね。」
 「その通りだね。レディー・ブラックンストールも同じように黙らせるだろうと思うところだが。」
 「気がつかなかったのかもしれないね、」私は言ってみた、「彼女が気絶から回復したと。」
 「ありそうなことだ。意識がないように見えたなら、命はとらなかったろう。この気の毒な男について はどうなんだ、ホプキンズ?いささか変な話を聞かされたようだが。」
 「しらふの時は優しい人なんですが、酔っ払った時、というよりむしろ、いやとことんやることはめっ たになかったんで酔っ払い加減の時はですね、まったく鬼のようでした。そういう時は悪魔が中にいるよ うにどんなことでもしでかしました。聞くところでは、あんな富や称号があるにもかかわらず、一、二度 危うく我々の世話になるところだったそうです。犬を石油でずぶぬれにして火をつけたというスキャンダ ルがありまして--さらに悪いことには奥方の犬でして--やっとのこと、かろうじてもみ消されました。 それからメイドのテリーサ・ライトにデカンターを投げつけ--それもやっかいなことになりました。概 して、ここだけの話、彼がいなければ明るい家になるでしょう。おや何をご覧になってるんです?」
 ホームズはひざまずき、レディーがくくりつけられていた赤い紐の結び目を非常に注意深く調べていた。 それから彼は、強盗が引きずり下ろした時にぷっつり切れたそのちぎれほつれた端を慎重に検査した。
 「これが引き下ろされた時、調理場のベルが激しく鳴ったにちがいない」と彼は言った。
 「誰にも聞こえませんでした。調理場は建物の真後ろにありますから。」
 「どうして強盗に誰にも聞こえないとわかったんだ?どうしてそんな無謀なやり方でベルの紐を引っ張 るなんてことを思い切ってしたんだ?」
 「その通りです、ホームズさん、その通りです。あなたのした質問はまさに私が繰り返し自分に尋ねて いたものです。疑いの余地なくこいつはこの家とその習慣を知っていたにちがいありません。召使たちが 皆、比較的早い時間に休むこと、調理場のベルが鳴っても誰にも聞こえるはずのないことを完全に承知し ていたにちがいありません。従って、奴は召使の一人に近寄り、結託していたにちがいありません。間違 いなく明白なことです。ところが八人いる召使はみんな申し分のない連中です。」
 「ほかの条件が同じなら、」ホームズが言った、「主人から頭にデカンターを投げつけられた者が疑わ しくなるね。とはいえそれはこの女が献身しているらしい女主人への裏切りを伴うことになる。まあ、ま あ、大した問題じゃないね、ランダルを捕まえれば、たぶん共犯者を確保するにも造作なかろう。レディ ーの話も、ま、裏づけが必要だったとすれば、目の前のあらゆる細部によって間違いなく裏づけられるよ うだね。」彼はフランス窓に歩み寄り、さっと開けた。「ここには何の痕跡もないが、地面は鉄のように固 いし、期待するがものはないからね。なるほど、このマントルピースのろうそくがついていたんだね。」
 「ええ、その明かりと、レディーの寝室用のろうそくの明かりで、強盗は勝手がわかったんです。」
 「それで連中は何を盗った?」
 「そうですね、あまりたくさんは盗ってません--サイドボードから皿をほんの六点です。レディー・ブラッ クンストールは連中自身がサー・ユースタスの死に動揺してしまって家をあさり回らなかった、さもなけ ればそうしたろう、とお考えです。」
 「おそらくその通りだろう、それでもワインをいくらか飲んだんだったね、うん。」
 「神経を落ち着かせるために。」
 「その通り。このサイドボードの上の三つのグラスは触ってないだろうね?」
 「ええ、瓶も残していったそのままです。」
 「ちょっと見てみようか。おや、おや!何だこれは?」
 三つのグラスがかたまって置かれ、そのすべてにワインの色がついていたが、一つにはオリのカスがいくらか 入っていた。近くに三分の二ほど入った瓶が立ち、そのそばに長い、濃く染まったコルクがあった。その 外観と瓶の上のほこりから、殺人者たちの楽しんだのは並のヴィンテージではないことがわかった。
 ホームズの様子に変化が生じた。気のない表情が消え、再び彼の鋭い、深くくぼんだ目に興味を示す油 断ない輝きが見えた。彼はコルクを持ち上げ、詳細に調べた。
 「どうやって抜いたのかな?」と彼は尋ねた。
 ホプキンズは半開きの引き出しを指さした。中には食卓用リネンと大きなコルク抜きがあった。
 「レディー・ブラックンストールはそのコルク抜きが使われたと言ってるのかね?」
 「いいえ、ご記憶でしょう、瓶が開けられた時、彼女は意識を失っていたんです。」
 「まったくそうだ。実際のところ、そのコルク抜きは使われなかった。瓶を開けたのは携帯用の栓抜き で、おそらくナイフについていて、長さ一インチ半以上ではない。コルクのてっぺんを調べてみれば、コ ルクを抜き取るまでに栓抜きが三回打ち込まれているのに気づくはずだ。突き通せなかったんだ。この長 い栓抜きなら突き抜けて、一度引けば引き抜けただろう。その男を捕まえたら、そういう万能ナイフを持 っていることがわかるだろう。」
 「すばらしい!」とホプキンズが言った。
 「しかしこの三つのグラスはどうにもふに落ちないんだ、実を言うと。レディー・ブラックンストール は実際に三人が飲むところを見たのかねえ?」
 「ええ。その点確かでした。」
 「それならそれで終わりだ。それ以上何を言うことがある?でもねえ、この三つのグラスはまったく驚 きじゃないか、そうだろ、ホプキンズ。え?何も驚くべきことはないって?まあ、まあ、いいとしよう。 たぶん、僕のように特別の知識、特別の能力を持っていると、単純な解釈が手近にあるのに、かえって複 雑なものを探し求める気になるんだな。もちろん、そのグラスについては単なる偶然にちがいない。さて、 ごきげんよう、ホプキンズ。僕が何か君の役に立つとは思わないし、君が事件をすっかり明らかにしそう だし。ランダルが逮捕されたら、それから何か新事実が生じたら知らせてくれるね。上首尾のお祝いをま もなく言えるものと思ってるよ。さあ、ワトソン、帰ってもっと有益なことに取り掛かれるんじゃな いかな。」
 帰途につき、ホームズの顔を見ると彼が何か観察したことについてひどく悩んでいるのがわかった。時 々、努力して、彼はその印象を振り捨て、あの件は明白であるかのように話そうとするのだが、そこで再 び疑惑が彼にのしかかり、ひそめた眉、ぼんやりした目から、彼の思いがもう一度、あの真夜中の悲劇が演 じられたアビ屋敷の大きなダイニングルームへ戻っていることがわかった。とうとう、突然衝動的に、ち ょうど私たちの列車がある郊外の駅をのろのろと出ようとした時、彼はホームに飛び降り、あとから私を引っ 張り出した。
 「申し訳ない、君、」カーブを曲がって消えていく私たちの列車の後部の客車をじっと見ながら、彼は 言った、「君をほんの気まぐれのように見えるかもしれないことの犠牲にしてすまない、しかしどうして もね、ワトソン、僕にはあの事件をこのままにしておくことはとてもできないんだ。僕の持てるあらゆる 本能が反対の声をあげる。あれは間違ってる--あれはみんな間違っている--誓ってもいい、あれは間 違っている。とは言っても、レディーの話は完璧だし、メイドの裏書は十分だし、細部はまったく正確だ。 それに対して何を持って僕は反論せねばならないか?三つのワイングラス、それだけだ。しかし僕が事態 を考えなしに信じなかったら、僕たちが事件に初めから取り掛かり、型にはまった話に心を歪められてい なければ当然示したはずの注意を傾けてすべてのものを調べていたら、僕はもっと明確な判断の材料を見 つけていたのではなかろうか?もちろん見つけていたろう。このベンチに腰を下ろそうよ、ワトソン、チズルハー スト行きの列車が着くまで。ひとつ君に証拠を提示させてもらうとして、まず第一に、メイドなり女主人 なりの言うことは何でも必然的に真実であるという考えを頭から払いのけるようお願いするよ。レディー のうっとりするような魅力に僕たちの判断が歪められるのを許してはならない。
 確かに彼女の話の細部には、冷静に見ると、疑惑をかき立てるものがある。あの夜盗団は二週間前シド ナムで相当の獲物を獲た。彼らやその風体についての記事は多少新聞に載ったし、架空の泥棒が役割を演 じる話をでっちあげたいとすれば誰にも当然思い浮かぶものだろう。実際のところ、夜盗団はうまく一 働きやってのけたら、普通、また別の危険な仕事に乗り出したりせずに、喜んで静かに上がりを楽しむも のだ。そのうえ、夜盗がそんなに早い時間に仕事をするのも異常なら、レディーが叫び声を上げるのを防 ぐために殴るのも異常だ、だってそんなことをすれば確実に叫び声を立てるのは想像がつくじゃないか。 また彼らが男一人押さえ込むのに十分な人数がいるのに人を殺すのも異常なら、まだたくさんのものに手 が届くのにわずかな略奪に甘んじるのも異常だし、そして最後に、そういう男たちがボトルの半分残すと いうのはきわめて異常なことじゃないかねえ。こういう異常なことに君はどんな感じがするかい、ワトソ ン?」
 「その累積効果は確かに相当なものだが、とはいえそれぞれ自体はまったくありうることだね。何より 異常なのは、レディーが椅子に縛りつけられたことだと私には思えるがね。」
 「さあて、僕のはそこのところはそうはっきりしないねえ、ワトソン、だって彼らが彼女を殺すか、そ うやって動けなくするかして、彼女がすぐに彼らの逃亡を通報できないようにしなければならなかったの は明らかだからね。しかしとにかく、レディーの話にはいささか本当らしくない要素があることを僕は明 らかにしたんじゃないかな?さてそこで、この上に登場するのがワイングラスの問題だ。」
 「ワイングラスがどうしたね?」
 「あれを思い浮かべてみてくれないか?」
 「はっきりと見えるよ。」
 「三人の男がそれぞれから飲んだと聞かされた。本当のことと思えるかい?」
 「なぜだね?ワインはどのグラスにも入っていたよ。」
 「その通り、だがオリが入っていたグラスは一つだけだ。その事実に気づいてなければいけない。そのことか ら君には何が思い浮かぶ?」
 「最後に満たされたグラスにオリが入るのが最もありそうなことじゃないかな。」
 「とんでもない。瓶はいっぱいだったんだし、最初の二つがきれいで三つ目にどっさり入ってるという のは想像もつかないよ。二つの解釈が可能であり、しかも二つだけだ。解釈一、二つ目のグラスを満たして から瓶を激しく振った、それで三つ目のグラスにオリが入った。これはありそうにないなあ。いや、いや、 確かだ、僕は間違ってない。」
 「それで、君はどう考えるんだね?」
 「グラスは二つだけ使われた、それぞれのカスが三つ目のグラスに注がれた、それは三人の人物がそこ にいたという誤った印象を与えるためだった。そういうわけでオリがすべて最後のグラスに入ったんじ ゃないかな?そうとも、僕はそうだと確信するね。しかし僕の解釈がこの一つの小さな現象の真実を射止めた とすると、事件はたちまちありふれたものからきわめて驚くべきものに出世する。なぜなら、そ れが意味するのはただ、レディー・ブラックンストールとメイドが故意に僕たちに嘘をついたこと、彼らの話は一言と して信じられないこと、彼らには真の犯人を隠す、何か非常に強い理由があること、僕たちは彼らの助け を借りずに自分で事件を構成しなければならないこと、だからだ。それが今僕たちの前にある使命だが、 ほら、ワトソン、シドナムの列車だ。」
 アビ屋敷の住人は私たちが戻ったことにひどく驚いたが、シャーロック・ホームズはスタンリイ・ホプ キンズが本部へ報告に行って不在なのを知ると、ダイニングルームを占領し、内側からドアに鍵をかけ、 二時間というもの、彼の輝かしい推理体系を築く固い基礎となる、例の綿密で骨の折れる調査に専心した。 教授の実地研究を観察する興味津々の学生よろしく隅に座り、私はそのすばらしい調査の一つ一つを追っ ていった。窓、カーテン、じゅうたん、椅子、紐--それぞれが順に、綿密に調査され、十分に考察され た。不運な准男爵の死体は移されていたが、ほかはすべて朝見た時のまま残っていた。最後に、ホームズ はがっしりしたマントルピースの上に登って私をびっくりさせた。彼の頭のはるか上にまだ針金にくっつ いている赤い紐が数インチぶら下がっていた。長い間彼はそれをじっと見上げていたが、それからもっと 近寄ろうとしてランプを取り付ける壁の木製のブラケットにひざをのせた。これで彼の手は引きちぎれた紐の端から数イン チのところまで行ったが、彼の注意を引いたのはそれよりもブラケットそのものらしかった。最後に彼は満足 の叫びを上げて飛び降りた。
 「申し分なしだ、ワトソン」と彼は言った。「僕たちは事件を--きわめて驚くべきものを一つ、コレ クションに加えたね。それにしても、いやはや、何とばかだったんだ僕は、何とまあ、危うく一生ものの失敗 をするところだった!今や、二、三の欠けている環があれば、僕の鎖もほとんど完成だと思うよ。」
 「やった男たちのことがわかったのか?」
 「男だ、ワトソン、たちじゃなく。たった一人だが、きわめて手ごわい人物だ。ライオンのような力-- あの火かき棒を曲げた一撃が証拠だ!身長六フィート三インチ、リスのように機敏、手先が器用、最後に、 驚くほど頭の回転が速い、なぜならこの独創的な話全体はその男がでっちあげたものだ。そうとも、ワト ソン、僕たちはきわめて非凡な人間の作品に出くわしたんだ。それでも、あのベルの紐に、彼は僕たちにとっ て疑いの余地のないものとなる手がかりを残してしまったのだ。」
 「どこに手がかりがあるんだ?」
 「そうだね、もし君がベルの紐を引き下ろしたら、ワトソン、どこでそれが切れると思う?間違いなく それが針金にくっついている箇所だ。どうして上から三インチのところで、これがそうだったようにさ、 ちぎれなければならなかったのか?」
 「そこでほつれていたから?」
 「その通り。こっちの端は、調べることができるが、ほつれている。実に狡猾な男でナイフでそうした んだ。ところが反対側の端はほつれていない。ここからではよく見えないだろうが、マントルピースにの れば一切ほつれた跡などなくきれいに切断されているのが見えるはずだ。君にも起こったことを再構成で きる。男は紐を必要とした。ベルが鳴れば急を知らせる恐れがあるからそれを引きちぎることはしたくなかった。 彼はどうしたか?彼はマントルピースに飛びのり、完全には届かなかったので、ブラケットにひざをのせ-- ほこりの中に痕跡が見えるよ--それでナイフを紐に当てた。僕はその場所に少なくとも三インチ届かな かった--そこから僕は彼が僕より少なくとも三インチ大きいと推測するんだ。オークの椅子の座部の上の痕 を見たまえ!何だね?」
 「血だ」
 「間違いなく血だ。これ一つだけでもレディーの話は問題外だ。犯行のあった時彼女が椅子に座ってい たならどうしてそんな痕がつく?いやいや、彼女は夫の死んだ後で椅子につかされたんだ。あの黒いドレ スにはこれに対応する痕があるにちがいない。僕たちはまだワーテルローの大敗を喫してはいないんだ、 ワトソン、これは僕たちのマレンゴさ、なぜならこれは敗北に始まり勝利に終わるのだから。すぐに 乳母のテリーサとちょっと話をしたいね。必要な情報を得るためにはしばらく慎重にやらなくてはいけな いよ。」
 彼女、この厳格なオーストラリア人の乳母はおもしろい人物で--無口で、疑り深く、無愛想であり、 ホームズが感じよくふるまい、彼女の言うことをすべて率直に受け取ることで、彼女が打ち解けて同じよ うに愛想よくなるまでにはしばらくかかった。彼女は死んだ雇い主に対する憎悪を隠そうとしなかった。
 「はい、本当ですとも、私にデカンターを投げつけたのです。あの人が奥様の悪口を言うのを聞きまし て、私は奥様のご兄弟がいらしたらそんな口は利けなかろうと言ったのです。その時です、投げつけられ たのは。ただ美しいお嬢様への意地悪をあきらめるほかなかったら一ダースでも投げたかもしれません。いつも奥様を 虐待していましたが、誇り高い奥様は不平を言いませんでした。あの人のしたことを私にさえ話そうとし ないんです。今朝ご覧になったあの腕の傷跡のことも私は聞かされてませんでしたが、私にはあれが帽子 のピンで刺されたものだとよくわかっています。悪賢い悪魔--私があの人をそう呼んだって神様はお許 しくださいます。今は死んでしまって!でも悪魔が地上にいるならあの人こそそうです。初めて会った時 にはとても素敵だったのに--ほんの十八ヶ月前ですけど、私たち二人には十八年前のような気がします。 奥様はちょうどロンドンに着いたばかりでした。ええ、初めての旅で--その前は一度も家を離れたこと がないんです。あの人は肩書きと財産と偽りのロンドン式のやり方で彼女を射止めました。彼女が誤りを 犯したとしたら、もう十分罰を受けています。あの人に会ったのは何月ですって?そうですね、ちょうど こちらへ着いた翌月です。六月について七月でした。去年の一月に結婚しました。ええ、奥様はまた居間 におりていらっしゃいますし、間違いなくお会いになるでしょうが、あまりいろいろ質問をしてはいけま せんよ、なにしろ人間の我慢の限界まで耐え抜いてきたんですから。」
 レディー・ブラックンストールは同じ寝椅子に横になっていたが、さっきより晴れやかに見えた。メイ ドは私たちとともに入室し、もう一度女主人の額の打撲傷に湿布を始めた。
 「また尋問にいらしたんじゃないでしょうね?」とレディーは言った。
 「いいえ、」ホームズは優しい声で答えた、「あなたに無用な迷惑をかけるつもりはありませんし、レ ディー・ブラックンストール、僕の願いはあなたの気持ちを楽にしたいだけです。というのもあなたを大変信頼でき る女性と確信しているからです。僕を友達と思って信用してくだされば、信用してよかったとおわかりに なるでしょう。」
 「私にどうして欲しいんですの?」
 「本当のことを話してください。」
 「ホームズさん!」
 「いやいや、レディー・ブラックンストール--むだなことです。僕の評判を少しはお聞きになったこ とがあるでしょうか。僕はそのすべてを賭してあなたの話はまったくの作り事だと申しましょう。」
 女主人とメイドはともに青ざめ、おびえた目でホームズを見つめていた。
 「何て厚かましい人でしょう!」テリーサが叫んだ。「奥様が嘘をついていると言うつもりですか?」
 ホームズは椅子から立ち上がった。
 「何もおっしゃることはありませんか?」
 「もうすべてを申し上げました。」
 「考え直してください、レディー・ブラックンストール。率直な方がよくありませんか?」
 一瞬彼女の美しい顔にためらいが見られた。その時何か強い考えが生じ、それは仮面のように固くなっ た。
 「知っていることはみんな申し上げました。」
 ホームズは帽子を取り、肩をすくめた。「残念です」と彼は言い、それ以上何も言わずに私たちは部屋 を、そして家を後にした。庭園には池が一つあり、我が友は先に立ってそこへ向かった。一面に凍ってい たが、群れから離れた白鳥のために一つだけ穴が残されていた。ホームズはそれをじっと見つめ、それから番小 屋のある門へ向かった。そこで彼はホプキンズ宛に短い手紙を走り書きし、それを小屋番に託した。
 「当たりにせよ、はずれにせよ、友ホプキンズに何かしてやるのが僕たちの義務だからね、この二回目 の訪問を正当化するためにも」と彼は言った。「まだ完全には彼に秘密を明かすつもりはないんだ。僕た ちの次なる活動の現場はアデレイド-サザンプトン航路の海運事務所ということになるかな、僕の記憶が 正しければペルメルのはずれにあると思うんだが。南オーストラリアとイングランドを結ぶ汽船には第二 の航路もあるが、大きな方から先に片付けよう。」
 支配人に取り次がれたホームズの名刺のおかげですぐさま配慮が得られ、必要な情報をすべて入手する のに長くはかからなかった。1895年にはこの航路で母港に着いたのはただ一つだけだった。それはロック ・オブ・ジブラルタルという最大、最上の船だった。乗船名簿を参照してアデレイドのミス・フレイザーがメ イドとそれに乗って航海したことがわかった。船は今、オーストラリアへの途中でスエズ運河のあたりだ った。乗務員は一人を除いて1895年と同じだった。一等航海士のジャック・クロッカー氏は船長になって おり、二日後にサザンプトンから出港するベイス・ロックという新しい船の指揮を執ることになった。彼 はシドナムに住んでいるが、私たちが待つ気なら、その朝は指示に現れそうだった。
 いや、ホームズ氏は彼に会いたいとは思わないが、彼の経歴や性格をもっと聞ければ嬉しいのだった。
 彼の経歴はすばらしかった。彼に匹敵する航海士はどの船にもいなかった。性格について言えば、職務 の上では頼もしいが、船のデッキを離れると荒々しく無鉄砲だ--短気で興奮しやすい、しかし忠実で正直 で心優しい。これがアデレイド-サザンプトンの会社の事務所を後にするホームズが得た情報の要点だった。 そこから彼はスコットランドヤードに走らせた、が、中に入らずに、馬車の中に座って眉を引き寄せ、深 いもの思いにふけっていた。結局彼は馬車をチャリング・クロスの電信局へ回し、一つ電報を打ち、それ から、最後に、もう一度私たちはベーカー街へ向かった。
 「いや、僕にはできないよ、ワトソン」と彼は、再び私たちの部屋に入る時に言った。「一度礼状が発 行されたら、どうあっても彼は救えない。僕はこれまでに一、二度、犯人を見つけたことで行われた犯 罪よりも大きな害をもたらしたことがある気がするんだ。今や僕は教訓から学んでいるから、自分の良心 よりもむしろイングランドの法をごまかしたいんだ。動く前にもう少し知るとしよう。」
 夕刻前、私たちはスタンリイ・ホプキンズ警部の訪問を受けた。事態は彼にとってあまりうまくいって なかった。
 「ホームズさんは魔法使いじゃないんですか。ほんとに時々思うんですが人間業じゃない能力をお持ち だ。さあ、いったいどうやってあの盗まれた銀製品が池の底にあるとわかったのですか?」
 「わからなかったよ。」
 「でも私に調べろとおっしゃったでしょう。」
 「それで、あったかい?」
 「ええ、ありました。」
 「助けになったなら非常に嬉しいよ。」
 「でも助けになってないんです。事件をはるかに難しくしてしまったんです。盗んでからその銀製品を いちばん近い池に放り込んでしまうとはどういう夜盗でしょう?」
 「確かにかなり常軌を逸した行動だね。僕は単にね、それが銀製品など欲しくない--言わば、単に目をくらますために 盗るような--連中に盗られたとすると、その後彼らは当然それをどうしても厄介払いしたくなるだろう、 という考えを基にしていたんだ。」
 「しかしなぜそのような考えが頭に浮かんだんで?」
 「まあ、可能性があると思ったのさ。フランス窓から出たとすると、池がすぐ鼻先にあって氷には心を そそられる小さな穴が一つあいているじゃないか。結構な隠し場所にならないかな?」
 「ああ、隠し場所--それならいい!」とスタンリイ・ホプキンズは叫んだ。「そうです、そうです、 やっとすべてわかった!早朝です、道には人がいる、奴らは銀製品を持っているのを見られるのを恐れた、 それで池に沈め、危険がなくなったら取りに戻るつもりだった。すばらしい、ホームズさん--目くらま しの考えよりいいですよ。」
 「まったくそうだ、君は見事な仮説を立てたね。確かに僕自身の考えはまったく見当違いだったが、そ の結果銀製品が発見されたことは認めてくれるだろ。」
 「ええ--そうですとも。全部あなたのなさったことです。しかし私はひどい頓挫ですよ。」
 「頓挫?」
 「ええ、ホームズさん。ランダル一味は今朝ニューヨークで逮捕されました。」
 「おやおや、ホプキンズ!それは確かにゆうべケントで人を殺したという君の説にはかなり不利だね。」
 「致命的です、ホームズさん--完全に致命的です。それでも、ランダル一家のほかにも三人組のギャ ングはいますし、でなければ、警察がまだつかんでいない新たな一味かもしれません。」
 「ほんとにそうだね、まったくありそうなことだ。え、もう行くのかい?」
 「ええ、ホームズさん、事件の真相をつかむまで私は休みなしです。何かヒントはないでしょうね。」
 「一つやったろう。」
 「どんな?」
 「ほらあれさ、目くらまし。」
 「でもなぜ、ホームズさん、なぜです?」
 「ああ、それが問題だよ、もちろん。だが僕は君にそれを考えてみるよう勧める。あるいはそれで何 か見つかるかもしれないよ。夕飯を食べていかないかい?そうか、ごきげんよう、どのくらい進展したか 知らせてくれたまえ。」
 夕食が終わり、テーブルが片付けられると、ホームズが再び事件のことを口にした。彼はパイプに火を つけ、室内履きをつけた足を暖炉の明るい炎の方へ伸ばした。不意に彼は時計を見た。
 「新たな動きを待っているんだよ、ワトソン。」
 「いつだね?」
 「今さ--数分以内。たぶん君は今しがた僕がスタンリイ・ホプキンズにしたことはちょっとひどいと 思ってるだろうね?」
 「君の判断を信じてるよ。」
 「実に賢明な答えだねえ、ワトソン。君にはこんなふうに考えてもらいたい。僕の知ることは非 公式であり、彼の知ることは公式だ。僕には私的な判断の権利があるが、彼にはない。彼はすべて を公開しなければならず、さもなければ公務に対する裏切りになる。はっきりしていないのに彼をそんな 辛い立場に立たせるのはいやだから、僕自身が事件に確信が持てるまで、僕は情報を留保しておく。」
 「しかしいつそうなるんだ?」
 「時は来たれりだ。今君は卓越した小劇の終幕に立ち会うんだ。」
 階段に音がして部屋のドアが開き、入ってきたのは実に見事な男らしさの典型であった。彼は非常に背 の高い、金色の口ひげ、青い目、熱帯の日に肌を焼かれた若い男で、そして軽快な足どりはその大きな体 が強靭なだけでなく機敏であることを示していた。彼は後ろ手にドアを閉め、そのまま両手のこぶしを固 め、胸を波打たせ、何か激しい感情を抑えていた。
 「お座りください、クロッカー船長。僕の電報を受け取ったんですね?」
 訪問者は肘掛け椅子に腰を下ろし、いぶかしそうな目で私たちを順に眺めた。
 「電報を受け取って、言われた時間に来ました。聞くところではあなたは事務所にまで来たそうですね。 あなたから逃げはしませんぜ。最悪のことを聞こうじゃないですか。私をどうするつもりです?逮捕する? 遠慮なく言ってくれ、おい!そこに座って猫がネズミをなぶるようなまねはさせないぞ。」
 「彼に葉巻を」とホームズは言った。「それをくわえて、クロッカー船長、我を忘れるほど興奮しちゃ いけない。君を普通の犯罪人と思ったらここに座って煙草なんか吸ってはいない、それはわかるだろう。 正直にすれば、よい結果を生むかもしれない。ごまかしてみたまえ、君をぺしゃんこにするからな。」
 「私はどうすればいいんです?」
 「ゆうべアビ屋敷で起こったことについてすべて本当のことを話してもらいたい--本当のことだ、い いかね、何も付け足さず、何も省かず。僕は既に多くを知っているからね、もし少しでも真の道を外れた ら、窓からこの警笛を吹く、すると事は永久に僕の手を離れることになる。」
 船乗りは少し考えていた。それから彼は大きな日焼けした手で自分のももを打った。
 「運を天にまかせよう」と彼は叫んだ。「あなたを信頼できる人、公明正大な人と信じてすべてを話し ましょう。しかし一つだけ先に言わせてください。私のことなら、何も後悔しないし何も恐れない、もう 一度やるかと言われればやるし、やったことを誇りに思います。あの畜生、何度生き返ったって同じ目に合わ せてやる!しかしあの人です、メアリー・・メアリー・フレイザー・・二度とあの呪われた名で呼ぶもの ですか。彼女を厄介な立場に巻き込むと考えると、あのいとしい顔に笑みが浮かぶなら命をささげてもい い私としては、この魂がどうにかなりそうです。でも--でも--どうしてこらえられたでしょう?私の話を 聞いてください、それから、尋ねてください、率直なところを、私があれをやらずにすんだかどうか?
 少し話を戻さなければなりません。すべてご存知のようですから、私がロック・オブ・ジ ブラルタルの一等航海士として乗客である彼女に出会ったこともご存知のことでしょう。出会った最初の 日から彼女は私にとってただ一人の女性となりました。船旅の日を重ねるほど私は彼女を愛し、以来何度 も夜の当番の闇の中で私はひざまずき、船のデッキにキスをしました。彼女のかわいい足が歩いたところ だからです。彼女は決して私に約束などしませんでした。彼女は女性として公正に私に接し ました。私は不平など言いません。恋心は私の方ばかり、彼女の側にはよき友愛、友情があるだけでした。 別れる時、彼女は自由な女でしたが、私は二度と自由な男には戻れませんでした。
 次の航海から帰った時、私は彼女の結婚を知りました。いや、どうして彼女が好きな男と結婚してはい けないんです?肩書きに金--彼女よりそれにふさわしい人がいるでしょうか?彼女は美しいもの、上品 なものすべてのために生まれたのです。私は彼女の結婚を悲しんだりしませんでした。私はそんな身勝手 な奴じゃありません。私はただ彼女に幸運が訪れ、一文無しの船乗りのために彼女が身を滅ぼさないです んだのを喜んだだけです。それが私のメアリー・フレイザーへの愛です。
 さて、私は二度と彼女に会えるとは思っていませんでしたが、この間の航海で私は昇進し、また新しい船は まだ進水前ということで、私はシドナムの家族のところで数ヶ月待たねばなりませんでした。ある日、い なか道に出た私はテリーサ・ライト、彼女の年取ったメイドに会いました。私は彼女のこと、彼のこと、 すべてのことを聞かされました。ねえ皆さん、私はもう気が狂いそうになりましたよ。あの酔っ払いの畜 生め、彼女の靴をなめるにも値しないくせに、よくもまあ、彼女に手を上げるとは!私はもう一度テリー サに会いました。それからメアリー本人に会い--そしてもう一度会いました。その時彼女はもう私に会 わないつもりでした。しかし先日、一週間以内に船旅に出発するという通知を受け、私は出発前にもう 一回彼女に会おうと決意しました。テリーサはいつも私の味方でした。ほとんど私同様にメアリーを愛し、あの悪 党を憎んでいたからです。彼女からあの家の慣わしを聞きました。メアリーはいつも階下の彼女の小さな部 屋で起きて本を読んでいます。ゆうべ私はそこへそっと近寄り、窓をひっかきました。最初彼女は私には あけようとしませんでしたが、彼女も今では心のうちで私を愛しているのを私は知ってましたし、彼女も 凍える夜に私を放っておくことはできませんでした。彼女が私に正面の大きな窓へ回るようささやき、そ れでその前に立つとそれが開いて私はダイニングルームに招じ入れられました。再び私は彼女自身の口か ら事情を聞いて血が煮えくり返るようになり、再び私は愛する女性を虐待するあのけだものをののしりま した。さて、お二方、私が彼女と一緒に、神に誓ってまったく後ろ暗いことなく、窓のすぐ内側に立って いた時です、あの男が狂ったように部屋に駆け込んできて、およそ女性に対して使うには最も下品な名で 彼女を呼び、手に持ったステッキで彼女の顔を横から殴ったのです。私は火かき棒に飛びついて、二人の間で正 々堂々の戦いです。ここ、私の腕を見てください、彼の最初の一撃が当たったところです。次は私の 番で、奴を腐ったかぼちゃのようにやっつけてやった。私がすまないことをしたと思ってると思いますか? とんでもない!あの男の命か私のかだったし、それにもまして、あの男の命か彼女のかだったんです。だ って、どうしてあの狂った男の手に彼女を残していけますか?だから私は彼を殺したんです。私が間違っ てましたか?では、それならあなた方お二人ならどうしました、もし私の立場だったら。
 彼女は殴られた時に叫び声を上げ、それでテリーサが上の部屋から下りてきました。サイドボードにワ インの瓶があったので、私はそれをあけ、ショックで死んだようになっているメアリーの唇の間に少 し注ぎました。それから私自身も一杯飲みました。テリーサは氷のように冷静で、策略は彼女と私の合作 でした。私たちはそれを夜盗のやったことに見えるようにしなければなりません。テリーサは我々の作り 話を繰り返し繰り返し彼女に聞かせ、一方私はよじ登ってベルの紐を切りました。それから私は彼女を椅 子に縛りつけ、紐の端を自然に見えるようにほつれさせました。そうしないといったいどうやって夜盗が あそこに上がって切ったのかと怪しまれますから。それから私は泥棒というアイディアを貫徹するために 銀の皿やポットをいくつかかき集め、私が出て十五分したら非常を知らせるよう指図してそこを離れまし た。銀製品は池の中に落とし、生涯のうちで今度だけは本当によいことをしたと思いながらシドナムへ向 かいました。これが真実です、余すところない真実です、ホームズさん、私の首がかかっているとしても。」
 ホームズはしばらく黙って煙を吐いていた。それから彼は部屋を横切り、訪問者の手を握った。
 「その通りと思います」と彼は言った。「一言一言が真実であるとわかります。君は僕の知らないこと はほとんど言わなかったから。軽業師か船乗りでなければブラケットからあのベルの紐までは届かないし、船乗り でなければ椅子にくくりつけられていた紐のあの結び目は作れない。たった一度だけあの婦人は船員たち と接触しており、それは彼女の船旅でのことで、それに彼女と同じ階級の誰かだった。なぜなら彼女は懸 命にその男をかばおうとしていて、つまり彼女が彼を愛していることを示しているからです。ひとたび正 しい手がかりから出発したからには、君を捕まえることが僕にとってどんなに容易だったかわかるでしょ う。」
 「警察には我々の手口は絶対に見抜けまいと思ってました。」
 「警察は見抜いてもいないし、見抜けまいよ、僕の信ずる限り。さあ、いいかな、クロッカー船長、 君がどんな人間をもとらえうる極度の憤激のもとに行動したことを認めるにやぶさかではないとはいえ、 これはきわめて重大な問題です。君の行動が正当防衛と断定されるかどうか、僕にはわからない。しかし、 それは英国陪審の決めることです。一方僕は君に大いに同情しているから、もし君が二十四時間以内に姿 を隠す気なら、誰も君を妨げる者はないと約束しよう。」
 「その後すべてが明るみに出るんですか?」
 「間違いなく明らかになるでしょう。」
 船乗りは怒って赤くなった。
 「何たる提案、それで男になれますか?私だって法は知ってる、メアリーが共犯者として拘束されるこ とぐらいわかります。私が非難を受ける彼女を残してこそこそ逃げ出していかれると思いますか?いや、 私にはどんなことでもするがいい、しかしお願いですからホームズさん、かわいそうなメアリーを法廷に 立たせない方法を見つけてください。」
 ホームズはもう一度船乗りに手を差し出した。
 「僕は君を試していただけであり、君は常に誠実なようだ。さて、僕は大変な責任を引き受けることに なるが、ホプキンズにはすばらしいヒントをやったんだし、彼がそれを生かせないなら僕だってそれ以上 のことはできないね。いいかね、クロッカー船長、僕たちはこれを正式に法にのっとってやろう。君は被 告人だ。ワトソン、君は英国陪審員だ、僕は代表者としてこんなにふさわしい人はほかに会ったことがな い。僕は裁判官だ。さて、陪審員諸君、諸君は今、証言を聞きました。被告人は有罪ですか、無罪ですか?」
 「無罪です、裁判長閣下」と私は言った。
 「民の声は神の声だ。君は無罪放免です、クロッカー船長。法が誰かほかの犠牲者を見出さない限り、 君は僕のことを心配しなくていい。一年もしたらあの婦人のところへ戻りたまえ、そして彼女と君の未来 によって、今夜僕たちが申し渡した判決が正しかったことになりますように!」

二つのしみ(The Adventure of the Second Stain)

 

私は『アビ屋敷』をもって、我が友、シャーロック・ホームズ君の偉業を公表する最後のものとする つもりでいた。私のこの決意は題材不足のためではない。私にはいまだ言及していない数百の事件 に関する覚書があるからである。またこの非凡な男の強烈な個性と独特の方法に対する読者の関心が衰え たからでもない。その真の理由はホームズ君が彼の体験を公表し続けることに難色を示していることにあ った。彼が実際に仕事をしている間は、彼にとってその成功の記録に多少は実際的な価値もあったが、既に はっきりロンドンから退き、サセックス・ダウンズで研究と養蜂に専念しているとあれば、有名であるこ ともいやになり、彼はこの問題における自分の希望が厳格に守られるよう、断固として要求したの だ。私が、時が熟したら『二つのしみ』は発表すると約束していたと抗議し、この長く続いた連載を締め くくるには彼が要請されて扱ったものの中でも最も重大な国際的事件こそふさわしいと指摘して初めて、 ようやくうまく彼の同意を取り付けられたので、やっと大衆を前にその出来事を慎重な言葉で語ることができるので ある。私の語りがある細かい部分でいくぶんあいまいに感じられても、私の遠慮には立派な理由があると 読者は快く承知してくださると思う。
 それはある年、いや年代さえも秘しておこう、ある秋の火曜日の朝、私たちはベーカー街の私たちのつ つましい部屋にヨーロッパでも高名な二人の客を迎えた。一人はいかめしく、鼻が高く、鷲のような 目で、まわりを圧倒する、知らぬ者なき英国首相二期目のベリンジャー卿にほかならなかった。もう一人 は浅黒く、端正で上品な、まだ中年とも言えず、肉体、精神ともに十分美しさに恵まれた、欧州問題担当大臣にし てこの国の最も有望な政治家、トレローニ・ホープ閣下だった。二人は書類の散らかった長いすに並ん で座ったが、その疲れて不安気な顔から彼らの持ち込んだ用件がきわめて緊急を要する重大事であること は容易に見て取れた。首相のやせて静脈の青く浮き出た両手は傘の上部の象牙をしっかりと握り、そのげ っそりやせた禁欲的な顔は憂鬱そうにホームズと私の顔を見ていた。欧州大臣は神経質に口ひげを引っ張 り、懐中時計の鎖の印章をいじっていた。
 「私が紛失を発見したのは、ホームズさん、今朝の八時でして、直ちに総理に知らせました。二人でこ ちらへ伺おうというのは総理の提案です。」
 「警察には知らせましたか?」
 「いいえ」と総理大臣は言った。その俊敏な、断固とした態度は有名だった。「そうはしていません し、そうすることは不可能です。警察に知らせることは、結局、一般に知らせることを意味します。それ をとりわけ我々は避けたいのです。」
 「それはまたなぜです?」
 「というのは問題の文書は計り知れないほど重要なもので、公表すればおそらく--十中八九と 言ってもいいでしょう--ヨーロッパにきわめて重大な紛糾を招くでしょう。戦争か平和かがこの問題に かかっていると言っても過言ではありません。高度な秘密を保ちつつ取り戻すことができないなら、まるで 取り戻さない方がいいくらいです。それを盗ったものたちの目的もその内容を一般に公表することだけで すから。」
 「わかりました。さて、トレローニ・ホープさん、この文書が消えた状況を正確に話していただけると ありがたいのですが。」
 「ほんの二言三言ですみます、ホームズさん。その手紙は--それはある外国の君主からの手紙だった のです--六日前に受け取ったものです。重要なものですから金庫に置きっぱなしにせず、毎晩ホワイト ホール・テラスの家へ持ち帰り、寝室の文書箱に鍵をかけてしまっていました。ゆうべはそこにありまし た。それは確かです。実際、私は夕食の前に着替えをする間に箱をあけ、中に文書があるのを見ました。 今朝はなくなっていました。文書箱は鏡台の鏡のそばに一晩中ありました。私は眠りの浅い方ですし、 妻もそうです。私たち二人とも、誰一人夜中に部屋に入ったはずがないと宣誓する用意があります。それ にもかかわらず、繰り返しますが、文書はなくなりました。」
 「夕食は何時でしたか?」
 「七時半です。」
 「お休みになるまでにどのくらいありましたか?」
 「妻が観劇に行っていました。私は彼女を起きて待っていました。十一時半過ぎに私たちは寝室に上が りました。」
 「それでは四時間というもの文書箱は無防備だったのですね?」
 「部屋に入ることを許可されているのは午前中の家政婦と、ほかの時間は私の従者か妻のメイドだけで す。双方とも信頼の置ける召使で、長いこと私たちのところにいます。その上、役所の普通の書類より価 値のあるものが文書箱に入っていたことを彼らが知っていたということはありえません。」
 「その手紙の存在を知っていたのは誰ですか?」
 「家の者にはおりません。」
 「きっと奥様はご存知でしょうね?」
 「いいえ。今朝文書がないことに気づくまでは妻には何も言ってませんでした。」
 首相も賛成してうなずいた。
 「前から君の公的義務感の強さは知っていたよ」と彼は言った。「この重大な秘密の場合、それは 最も深い家族の絆よりも上位に位置するものと私は確信している。」
 欧州大臣はお辞儀をした。
 「そうおっしゃるのは当然のことです。今朝まで私はこの件について妻には一言たりとも漏らしてません。」
 「奥様が見当をつけることはできたでしょうか?」
 「いいえ、ホームズさん、彼女に見当はつけられないし--誰にも見当のつくことではありません。」
 「以前に何か文書をなくされたことはありますか?」
 「いいえ。」
 「イングランドでこの文書の存在を知っているのは誰ですか?」
 「閣僚全員に昨日知らせましたが、各閣議に伴う秘密を守るという誓約は総理のなさった厳粛な警告によ ってより強固なものになりました。ああ、数時間のうちに私自身がなくしてしまうとは!」
 そのハンサムな顔は絶望に襲われてゆがみ、その両手は髪をかきむしった。一瞬私たちは衝動的で、激情に 駆られた、ひどく感じやすい、自然な人間をかいま見た。次の瞬間には貴族的な仮面が取って代わり、 穏やかな声に戻っていた。
 「閣僚のほかにも二人、あるいは三人、官吏が手紙のことを知っています。ほかにはイギリス中に誰も、 ホームズさん、確かです。」
 「でも外国には?」
 「書いた本人を除けばそれを見たものは外国に一人もいないと思います。その公使たち--通常の公式 ルートを通したものでないことは十分確信できます。」
 ホームズは少しの間考えていた。
 「さて、もう少し詳しくこれがどんな文書で、なぜその消失がそのよう に重大な結果を招くのか、お尋ねしなければなりません。」
 二人の政治家がすばやく視線を交わし、首相はもじゃもじゃの眉をひそめて渋い顔になった。
 「ホームズさん、封筒は長くて薄いもので色は薄い青です。赤い封ろうにうずくまるライオンの印章が 押されています。上書きは大きな肉太の手書きで--」
 「いや、」ホームズは言った、「そういう細かいことは興味深いし実際非常に大事ですが、僕の調査は もっと核心に迫らなければいけないんじゃないかと思うんです。どんな手紙だったんです?」
 「それは最重要の国家機密であり、あなたにはお話しできないし、またその必要もないように思います が。あなたがお持ちだと言われている能力を用いて、私が言ったような封筒と同封のものを発見できたら、 あなたは祖国に功労を立てることになるし、私たちに用意できる限りの報酬を受けることになるでしょう。」
 シャーロック・ホームズは微笑を浮かべて立ち上がった。
 「あなた方は我が国で最も忙しいお二人ですし、」彼は言った、「僕もまたささやかながら僕なりに多 くの仕事があるのです。きわめて遺憾ながらこの件でお力にはなれませんし、この面談を続けても時間の 無駄でしょう。」
 首相はパッと立ち上がり、その落ち窪んだ目から閣僚をもすくませるあのすばやい、すさまじい光を放った。 「こんなことには私は、」と彼は始めたが、怒りを抑え、また元の席に着いた。一分か、あるいはそれ以 上、私たちは皆、無言で座っていた。それから老政治家は肩をすくめた。
 「我々はあなたの条件を呑まねばなりませんな、ホームズさん。確かにあなたが正しい、完全な信頼な くしてあなたに行動を期待するのは不合理です。」
 「同感です」と若い政治家が言った。
 「それではお話ししましょう、あなたと、それから同僚のワトソン博士の信義を信頼して。またあなた 方の愛国心にも訴えていいかもしれない。この国にとってこの事が露顕するより以上の不幸は想像できな いくらいですから。」
 「僕たちを信用してくださって大丈夫です。」
 「手紙は、そう、最近の我が国の植民地展開に腹を立てたある外国の君主から来ました。性急に、 しかもまったく独断で書かれたものです。問い合わせたところ、その国の大臣たちはそのことを何も知りませんでし た。同時にそれには不適切な表現があり、挑発的な文句も散見されますので、それが公表されればこの国 の国民感情はきわめて危険な状態になるでしょう。醗酵しているものもありますからね、躊躇なく言わせ ていただけば、あの手紙の公表から一週間以内にこの国は大戦に巻き込まれるでしょう。」
 ホームズは一枚の紙片に名前を一つ書き、首相に手渡した。
 「その通り。その人です。そしてこの手紙です--この手紙の意味するところはおそらく数十億の支出と数 十万人の命でしょう--それがそんなふうにわけもわからずに失われることになるのです。」
 「差出人に知らせましたか?」
 「ええ、暗号電報を急いで打ちました。」
 「ことによるとあちらは手紙の公表を望んでいるかもしれませんね。」
 「いいえ、軽率かつ性急に行動してしまったことを既に先方も理解していると信ずる有力な根拠があり ます。この手紙が出回れば我々より相手とその国に大きな打撃となるでしょう。」
 「だとすると手紙が露顕して誰の利益になります?なぜ誰かがそれを盗んだり、公表したりしたがるの でしょう?」
 「それは、ホームズさん、高度な国際政治の領域に入ることになります。しかしヨーロッパの状況を考慮 すれば容易に動機に気づくはずです。ヨーロッパ全体が一つの軍営地ですから。二重の同盟があって軍事 力の均衡を適正にしています。英国が鍵を握っています。英国が一方の連合との戦争に駆り立てられれば 他方の連合は、戦争に参加しようとしまいと、確実に優位に立つでしょう。わかりますか?」
 「きわめて明瞭に。するとこの君主の敵側としては、君主の国と我々との間に不和をもたらすために、 手紙を手に入れて公表することが利益になりますね?」
 「ええ。」
 「それで敵の一人の手に落ちた場合、この文書は誰に送られるでしょう?」
 「ヨーロッパの大きな大使館ならどこでも。おそらくこの瞬間も蒸気が全速力でそちらへ運んでいる途 中でしょう。」
 トレローニ・ホープ氏は首を胸に垂れ、声に出してうめいた。首相はその手を優しく彼の肩に置いた。
 「不運なことだよ、ねえ君。誰も君を責められない。君が用心を怠っていたのではない。さあ、ホーム ズさん、事実をすべて入手されたんです。あなたならどんな方針を勧められますか?」
 ホームズは悲しげに首を振った。
 「その文書を取り戻さない限り戦争になるとお考えですか?」
 「おそらくそうなると思います。」
 「では戦争の準備をなさい。」
 「厳しい言い方があったものですね、ホームズさん。」
 「事実をお考えください。夜の十一時半以降に取られたとは考えられません。ホープ氏、奥様の二人と もその時間から紛失が発見されるまで部屋にいらしたのですから。すると取られたのはゆうべの七時半か ら十一時半の間、おそらく早い時間でしょう。誰が取ったにしろ、明らかにそこにあるのを知っていて、 当然できる限り早く手に入れたでしょうから。さて、この重要な文書がその時間に取られたとして、今ど こにありそうですか?持ち続けている理由は誰にもありません。すみやかに必要とするところへ回されて いますよ。今から追いつく、いやそれどころか跡をたどる見込みでさえどれほどありましょう?僕たちに はどうにもなりません。」
 総理大臣は長椅子から立ち上がった。
 「あなたの言うことはまったく筋が通ってますよ、ホームズさん。実際のところ我々の手の届かない事 になったと思います。」
 「議論のため、文書はお話のメイドか従者に取られたと仮定してみましょう--」
 「どちらも古い、信頼できる使用人です。」
 「お話からあなたの寝室は三階にあり、外から入ることはできないし、中からも気づかれずにあがって いくことはできないと考えます。すると家の中にいる誰かが取ったにちがいありません。誰のところへ泥棒 は持っていくでしょう?国際的なスパイ、秘密諜報員の一人のところです。彼らの名を僕はよく知ってい ます。この連中の首魁というべき者が三人います。僕はそのそれぞれが持ち場についているかどうかを回 って調べることから調査を始めましょう。もし一人がいなかったら--特にゆうべから姿を消して いたら--文書がどこへ行ってしまったかを示すものが多少は得られます。」
 「なぜその男がいなくなるのです?」欧州大臣が尋ねた。「手紙はロンドンにある大使館に持っていく でしょう、おそらく。」
 「そうではないでしょう。そういうスパイは独自に動いていて、大使館とは緊張した関係の場合が多い のです。」
 総理大臣は同意してうなずいた。
 「その通りと思いますよ、ホームズさん。それだけ価値のある大事なものですから自分の手で本国に持 っていくでしょうね。あなたの行動方針は大変結構なものと思います。ところで、ホープ、我々はこの不幸な出 来事一つのためにほかの務めをすべておろそかにするわけにはいかない。何か新たな進展があったら、 一日を通して我々はあなたと話し合いもしましょうし、あなたもきっと調査の結果を知らせてくれるでし ょうね。」
 二人の政治家はお辞儀をして厳かに部屋を出た。
 著名な客が立ち去ると、ホームズは無言でパイプで火をつけ、しばらくの間座って深い考えにふけって いた。私が朝刊を広げ、前の晩ロンドンで起こったセンセーショナルな犯罪に心を奪われていた時だった。 友が突然声を上げ、パッと立ち上がり、マントルピースの上にパイプを置いた。
 「そうだ、」彼は言った、「何よりまず取り掛かることだ。事態は望み薄だが、絶望的ではない。今で も誰が取ったのかはっきりさせられれば、まだそいつの手を離れていないことだってありうるからね。何 といっても、こういう連中は金の問題だし、僕のバックにはイギリスの国庫がついているんだ。市場に出 たらそれを買おう--所得税が増えることになるとしてもね。そいつがほかで運を試す前にこっちの方で どんな値がつくか見るために押さえているってことも考えられるし。こんな大胆なゲームができるのはあ の三人だけ--オバースタイン、ラ・ロシェール、エドゥアルド・ルーカスだ。それぞれ会ってみるかな。」
 私は朝刊に目をやった。
 「ゴドルフィン街のエドゥアルド・ルーカスかい?」
 「そうだ。」
 「その男には会えないな。」
 「なぜだね?」
 「ゆうべ自宅で殺害されたよ。」
 友には私たちの冒険を通じてしょっちゅう驚かされていたので、彼を完全に驚かせたと知った私はし てやったりとほくそえんだ。彼はびっくりして目を丸くし、それから私の手から新聞をひったくった。こ れが、彼が椅子から立ち上がった時に私が夢中で読んでいた記事である。

ウェストミンスターの殺人
 昨夜、英国国会議事堂大塔の足下とも言える、テムズ川とウェストミンスター寺院の間の古風で閑静な 十八世紀の家並みの一つ、ゴドルフィン街16において謎めいた犯罪が行われた。この高級な小邸宅にはこ こ数年エドゥアルド・ルーカス氏が住んでいた。氏は魅力的な個性および我が国最高のアマチュアテノー ルの一人との尤もな評判により社交界で有名だった。ルーカス氏は未婚で三十四歳、その世帯は初老の家政婦、 プリングル夫人と従者のミトンから成る。前者は早めに引き取って建物の最上階で休む。従者は昨晩外出 してハマースミスの友人を訪ねていた。十時以降ルーカス氏は家に一人だった。その時何が起こったかは まだ明らかでないが、ゴドルフィン街を巡回するバレット巡査が十二時十五分前に16番のドアが少し開い ていることに気づいた。ノックしたが答えはなかった。正面の部屋に明かりを認め、巡査は廊下へ通り、 再びノックしたが返事はなかった。そこでドアを押し開けて部屋に入った。部屋は散らかった状態で、家 具はすべて片側に寄せられ、中央に椅子が一つひっくり返っていた。この椅子のそばに、なおもその足を 握った不運なこの家の住人が横たわっていた。心臓を刺されており、即死だったにちがいない。犯行に使 われたのはインドの短刀で、壁の一つを飾る戦勝記念の東洋の武器から引き抜かれたものだ。窃盗が犯行 の動機ではなかったらしく、高価な部屋の内容物を持ち去る試みはなされていない。エドゥアルド・ルー カス氏の知名度と評判から、その暴力による謎の死は広い交友関係に痛ましい関心と熱い弔意を引き起こ すだろう。


 「ねえ、ワトソン、これをどう思う?」長い間をおいてホームズが尋ねた。
 「驚くべき偶然の一致だね。」
 「偶然の一致!このドラマの役者の候補として僕たちが名を挙げた三人のうちの一人がここにいて、そ のドラマが演じられていたことがわかっているちょうどその時間帯に変死にあう。偶然の一致の確率はも のすごく低いよ。問題にならない数字だ。いや、ワトソン君、二つの出来事には関連がある--関連が なければならない。僕たちはその関連を見つけるべきだ。」
 「でももう警察が何もかも知っているにちがいないよ。」
 「全然。彼らが知るのはゴドルフィン街にあるものだけだ。ホワイトホール・テラスのことは何一つ知 らないし、知ることもないだろう。僕たちだけが両方の出来事を知っていて、その関係をたどることがで きるんだ。とにかく疑いをルーカスに向けさせる明白な点が一つある。ウェストミンスター、ゴドルフィ ン街はホワイトホール・テラスから歩いてほんの数分だ。僕が名指ししたほかの諜報員はウェストエンド のはずれに住んでいる。従ってルーカスはほかの二人より欧州大臣の家の者と関係を築き、通信をするの が容易だ--小さなことだが、事件を数時間に短縮するには非常に重要なことなるかもしれない。おや! 誰を招いたかな?」
 ハドソン夫人が婦人の名刺を盆に載せて現れた。ホームズはそれをチラッと見て眉を上げ、私の方へよ こした。
 「どうかレディー・ヒルダ・トレローニ・ホープに上がっていただいてください」と彼は言った。
 一瞬の後、私たちのつつましい部屋は、既にその朝受けた栄誉に加え、ロンドンで最も美しい女性の入 室という光栄を賜った。私はベルミンスター公爵の末娘の美しさについてしばしば耳にしていたが、どの ように描写され、色のない写真を凝視したところで、その微妙で繊細な魅力やその妙なる顔の美しい色合 いに対する心構えをができるものではなかった。それにもかかわらず、その秋の朝、私たちが彼女を見た時、 見る者の心を打ったのは第一印象となるはずのその美しさではなかった。頬は美しかったが興奮に青ざめ、 目は輝いていたが熱性の輝きであり、感じやすい口元は固く結ばれ、自制の努力に引きつっていた。美し い訪問者が開いたドアの額縁の中に立った時、最初に目に飛び込んできたものは美しさではなく恐怖だっ た。
 「主人がこちらへ来ましたでしょうか、ホームズさん?」
 「はい、奥様、いらっしゃいました。」
 「ホームズさん、私がこちらへ参りましたことは彼に言わないようお願いします。」
 ホームズは冷ややかにお辞儀し、身振りで夫人に椅子を勧めた。
 「奥様、僕はきわめて微妙な立場に置かれます。どうかお掛けになって何をお望みか話してくだ さい。ただし僕としては無条件の約束はできかねるのですが。」
 彼女は颯爽と部屋を横切り、窓を背に席に着いた。背が高く、優雅で、強烈に女性らしい--女王のよう な態度だった。
 「ホームズさん」と彼女は言った--話しながら白い手袋をした手を握りしめたり開いたりしていた。 「私は率直にお話ししますわ。そうすればお返しにあなたも率直にお話しくださる気になるかもしれない と思いますので。夫と私はただ一つを除けばあらゆる事柄で完全に信頼しあっています。その一つとは政 治のことです。この点彼は固く口を閉ざしています。私には何も言ってくれません。さて、ゆうべ我が家で 非常に嘆かわしい事が起きたのを私は知っています。書類が一つなくなったのです。でも政治の問題です から夫は私にすっかり打ち明けることを拒むのです。今絶対に必要なのは--いいですか、絶対に ですよ--私が完全に理解することです。本当の事実を知っているのは、一部の政治家たちを除くと、あ なたただ一人です。ですから、どうぞホームズさん、何が起こったのか、そしてその結果どうなるのか、 正確に私に話してください。すべてを話してください、ホームズさん。依頼人の利益に配慮して口をつぐ まないでください。保証しますが、彼の利 益に最も役立つのは、彼がそうと気づいて、秘密を私に完全に打ち明けるこ となんですから。この盗まれた書類とは何なのですか?」
 「奥様、それは本当に無理なご注文です。」
 彼女はうめき、両手で顔を覆った。
 「それはおわかりいただかなくては、奥様。ご主人がこの問題をあなたに隠しておくべきだとお考えな ら、職業上の秘密の誓いのもとに本当の事実を知っただけの僕が、ご主人が差し控えていることを話せます か?そのお尋ねは公正ではありません。あなたが尋ねるべきはご主人です。」
 「彼には尋ねました。頼みの綱としてこちらへ来ているのです。でもあなたが明確なことを何もおっ しゃれないなら、ホームズさん、ただ一点教えてくださるととても助かるのですが。」
 「何です、奥様?」
 「この出来事により夫の政治的キャリアに傷がつきそうですか?」
 「そうですね、奥様、事態が正されない限り、確かに非常に不幸な結果を招くかもしれません。」
 「ああ!」彼女は疑惑が解けたかのように、鋭く息を吸った。
 「もう一問、ホームズさん。この災難の最初の衝撃に夫が漏らした言葉つきから、私はこの文書の紛失 によって国家的に恐ろしい結果が生じるかもしれないと解釈したのですが。」
 「ご主人がそうおっしゃったなら、確かに僕に否定はできません。」
 「どのような種類のことでしょうか?」
 「いや、奥様、また僕に答えられないことをお尋ねです。」
 「それではもうこれ以上お時間を取らせません。もっと遠慮なくお話しなさろうとしなかったことを責 めませんわ、ホームズさん、あなたの方もきっと、私のことを悪くお思いにならないでしょうね。私は、 夫の意志にそむいてまでも、彼の心配事を共有したかったんですもの。もう一度お願いします、私が参り ましたことは何もおっしゃらないでください。」
 彼女が戸口から私たちを振り返り、私は最後にまたその美しい悩ましげな顔、ショックをうかがわせる 目、引きつった口元を見て感銘を受けた。そして彼女は立ち去った。
 「さあ、ワトソン、女性は君の専門だぞ。」次第に遠のくスカートの衣擦れがバタンと閉まる玄関の戸 の向こうに消えた時、ホームズが笑いながら言った。「あの美人は何をたくらんでる?本当はどうしたい んだ?」
 「彼女が自分で言っていることは疑いなく明瞭だし、彼女の心配は至極もっともだ。」
 「フム!彼女の様子を考えてみたまえ、ワトソン--彼女の態度、抑えた興奮、落ち着きのなさ、質問 する時の執拗さ。彼女が軽々しく感情を表さない階層の出であることを思い出してくれたまえ。」
 「確かに彼女はひどく動揺していたね。」
 「それから彼女がすべてを知ることが旦那にとってベストであると念を押した時の不思議なほどの真剣 さも思い出してくれたまえ。あれはどういうつもりだったのか?それにね、ワトソン、彼女が巧妙に光を 背にしたやり方にも気づいてなければいけないよ。僕たちに表情を読まれたくなかったんだ。」
 「そうだね、彼女は部屋にただ一つの席を選んだ。」
 「それにしても女性の動機というものは不可解だからねえ。マーゲイトの女を覚えているだろう、 僕が同じ理由で疑いをかけたじゃないか。鼻の化粧がはげていた--それが正しい解答だった。どうやっ てそんな流砂の上に建設するんだ?彼女たちのきわめてささいな行動が大きな意味を持ち、彼女たちのき わめて異常なふるまいがヘアピンやヘアアイロン次第かもしれないんだからねえ。ごきげんよう、ワトソ ン。」
 「出かけるのかい?」
 「うん、朝のうちはゴドルフィン街で官憲の友人たちとぶらぶら過ごすよ。僕たちの問題の答えはエドゥア ルド・ルーカスのところにある。それがどんな形を取るか、まったく見えていないのは認めざるをえない がね。事実に先立って理論を立てるのは致命的な誤りだからね。君は用心のため残って新たな訪問者を迎 えてくれたまえ、ワトソン君。できれば昼食は一緒に取るよ。」
 その日一日、そして翌日もまたその翌日もホームズは彼の友人なら無口、ほかの者なら不機嫌と呼ぶ状 態だった。彼は走り出ては駆け込み、ひっきりなしに煙草を吸い、バイオリンを断片的に鳴らし、もの思 いにふけり、不規則な時間にサンドイッチをむさぼり、何気ない私の質問にもほとんど答えなかった。彼 にとって、あるいは彼の探求にとって事態がうまく運んでいないのは明らかだった。彼は事件について何 も語ろうとせず、私が検視の詳細や、故人の従者ジョン・ミトンの逮捕とそれに続く釈放について知った のは新聞からであった。検視陪審は明白な故殺との評決を下したが、実行者は未知のままだった。動機は 一つも挙がっていなかった。部屋には貴重品があふれていたが、何も取られていなかった。死んだ男の 書類もいじられてなかった。注意深く調べた結果、彼は国際政治学の熱心な研究者であり、疲れを知らぬ ゴシップ屋であり、非凡な語学者であり、きわめて筆まめであった。彼は数ヶ国の指導的政治家たちと親 交があった。しかし引き出しいっぱいの書類の中にセンセーショナルなものは発見されなかった。女性関 係は乱れていたが深いものはなかったようだ。女性の知り合いは多かったが、友人は少なく、一人も彼は 愛していなかった。その習慣は規則正しく、行為は当たり障りがなかった。彼の死はまったくの謎であり、 謎のままになりそうだった。
 従者のジョン・ミトンの逮捕について言えば、まったく何もしないわけにもいかないことからの窮余の 策だった。しかし彼に対して訴訟を維持できるものではなかった。彼はその夜ハマースミスの友人たちを 訪ねていた。アリバイは完璧だった。確かに彼は犯行が発見された時刻の前にウェストミンスターに着く 時間に家路についたが、帰路の一部を歩いたという彼自身の説明もすばらしい夜だったことを考えれば十 分ありそうに思われた。彼は実際に十二時に着き、予期せぬ悲劇に圧倒されたように見えた。彼はいつ も主人とはうまくやっていた。死んだ男の持ち物がいくつか--特にかみそりを入れる小さなケースが--従者 の持ち物の箱の中に発見されたが、彼はそれを故人からの贈り物だったと説明し、家政婦によってその話 は裏付けられた。ミトンはルーカスのところに三年間勤めていた。注目に値するのはルーカスがミトンを 大陸には一緒に連れて行かなかったことだ。時々彼は三ヶ月続けてパリに滞在したが、ミトンはゴドルフ ィン街の家を預かって残っていた。家政婦はと言えば、犯罪のあった夜、何も聞いていなかった。主人に 客があったなら彼自身が中に入れたと言った。
 私が新聞をたどる限りでは、三日目の朝も謎はそのままだった。ホームズはもっと知っていたとしても、 自分の考えを明かさなかった。しかしレストレード警部が事件について打ち明けてくれたと彼が言った ので、彼があらゆる進展に深く通じているのがわかった。四日目にパリからの長文の外電によりすべての 疑問が解決したように見えた。

 ある発見がパリ警察によってなされ(デイリー・テレグラフに書かれていた)、それによって去る月曜 の夜、ウェストミンスターのゴドルフィン街で変死したエドゥアルド・ルーカス氏の悲惨な運命に垂れ込 めていたベールが除かれた。亡くなった紳士が自室で胸を刺されて発見されたこと、そして疑いが従者にかけら れたこと、しかしアリバイにより訴訟事実が崩れたことを読者は思い出されるだろう。昨日、ルー・オス テルリッツの小さな住宅に住む、マダム・アンリ・フォルネとして知られる婦人が正気でないと召使から 当局に報告された。診察の結果、彼女は本当に強度の偏執狂で、危険で永続性のものだった。調査により 警察はマダム・アンリ・フォルネが火曜日にロンドンへの旅から戻ったばかりであり、彼女をウェストミンスタ ーの犯罪と結びつける証拠があることを発見した。写真の比較により、最終的に、ムッシュー・アンリ・ フォルネとエドゥアルド・ルーカスは実は一人であり、同一人物であること、故人は何らかの理由でロン ドンとパリで二重生活を送っていたことが証明された。クリオール系であるマダム・フォルネはきわめて 高ぶりやすい性質で、これまで逆上するほどの発作的な嫉妬に苦しんでいた。そういう状態において彼女は、 ロンドンにこのようなセンセーションを引き起こした恐ろしい犯罪を行ったと推測される。月曜日の夜の 彼女の行動はまだ突き止められていないが、彼女の人相書きと一致する女性が火曜日の朝チャリング・ク ロス駅で乱れた風采と乱暴なしぐさにより大いに人目を引いたのは確かである。従って、犯行が狂気の時 に行われたか、あるいはその直接の影響が不幸な女性を狂気に至らしめたか、そのどちらもありうる。現 在彼女は出来事について筋の通って話をできないし、医師団は彼女の正気が回復する見込みを約束しなか った。マダム・フォルネと思われる女が月曜日の夜数時間にわたってゴドルフィン街の家を見ているのを 見たという証言もある。

 「これをどう思う、ホームズ?」私が彼に記事を読んでやっている間に彼は朝食を終えた。
 「ワトソン君、」彼は食卓から立って部屋を行ったり来たりしながら言った、「君はとても辛抱強いが、 この三日間僕が君に何も言わなかったのは何も話すことがないからだ。今だってこのパリからの報道はあ まり僕たちの役には立たないね。」
 「男の死に関しては間違いなく決定的だが。」
 「男の死は単なる付随事--ささいなエピソードだ--あの文書を追跡し、ヨーロッパの破局を防ぐと いう僕たちの真の務めと比較すると。この三日間に起こった重要なことがたった一つあるが、それは何も起こらなかっ たことだ。僕はほとんど一時間おきに政府から報告を受けているが、ヨーロッパのどこにも紛争の兆候が ないのは確かだ。そこで、もしあの手紙が出回っていたら--いや、出回っているはずはない--だが出 回っていないとすると、いったいどこにある?誰が持っている?なぜ押さえている?それが僕の脳内でハ ンマーのように鳴っている疑問だ。手紙の消えた夜にルーカスが死んだのは本当に偶然の一致だったのか? 手紙は彼の手に渡ったのか?それならなぜ彼の書類の中になかったのか?その彼の狂った妻がそれを持ち 去ったのか?それならそれはパリの彼女の家にあるのか?どうしたらフランスの警察の疑いを起こさずに それを捜せるだろうか?この事件ではね、ワトソン君、法律は僕たちにとって犯罪者同様に危険なんだ。 あらゆる人の手が僕たちの邪魔をするが、それでも懸かっている利益は巨大だ。首尾よい結果を得られれ ば、間違いなく僕のキャリアにとって無上の光栄を意味することになろう。ああ、前線からの最新ニュ ースが来た!」彼は手渡された手紙に大急ぎで目を通した。「おや!レストレードが何かおもしろいこと に気づいたらしいよ。帽子をかぶって、ワトソン、一緒にウェストミンスターまでぶらぶら行こうよ。」
 私が初めて訪れた犯罪現場だった--背の高い、すすけた、幅の狭い家で、それを生み出した世紀同様、 整い、形式ばり、がっしりしていた。正面の窓の中から私たちを見つめていたのはレストレードのブルド ッグのような顔で、大きな巡査がドアを開けて私たちを中に入れると、彼は温かく私たちを迎えた。私た ちが案内されたのは犯罪のあった部屋だったが、カーペットの上の醜い、不定形のしみを除いて、もう何も跡は残っていな かった。このカーペットは小さな正方形のインド織物で部屋の中央にあり、まわりにはよく磨かれた正方 形のパネルを敷き詰めた美しい、古風な木のフローリングが広がっていた。暖炉の上には見事な戦利品の武器が 並び、その一つがあの悲劇の夜に使われたものだった。窓のところには豪華な書き物机があり、また住ま いのあらゆる装飾、絵画にしろ、敷物にしろ、壁掛けにしろ、すべてが女々しさに通じかねないぜいたく な趣味を示していた。
 「パリのニュースを見ました?」とレストレードが尋ねた。
 ホームズはうなずいた。
 「今回はフランスの友人たちが物にしたようですね。疑いなく彼らの言う通りでしょう。彼女がドアを ノックした--不意の訪問ですな、きっと、なにしろ彼はすきのない二重生活を続けていたんですから-- 彼は、彼女を通りに立たせておくわけにもいかないので中に入れた。彼女はどうやって彼を捜し出したか を話し、彼を責めた。それが次から次へと続き、それからすぐ手近にあったあの短剣によりまもなく終わり が来た。とはいえ、すべてが一瞬に済んだのではなかった、これらの椅子が向こうに押しやられていたし、 彼は一つ手に取ってそれで彼女を寄せつけまいとしたようですからな。我々はこの目で見たかのごとく、 すべてはっきりわかっています。」
 ホームズは眉を上げた。
 「それなのに君は僕を呼び出したね?」
 「ああ、ええ、それは別の問題で--ほんのささいな、でもあなたが関心を持ちそうなことで--妙な、 何と言いますかとっぴなことでね。主要な事実とは関係ありません--一見したところ、関係あるはずが ありません。」
 「それで、何なんだね?」
 「それがですね、こうした事件の後、我々は非常に注意してそれぞれの物の位置を保持します。何一つ 動かしていません。担当の警官が昼夜ここにいます。今朝は死者も埋葬し、調査も終了したので--この部屋 に関する限りはですね--少しばかり片付けられるかと思ったんです。このカーペットですがね。いいですか、 下に留められていず、そこに置いてあるだけです。私たちはそれを持ち上げることになりまして。それで 見つけたのが--」
 「それで?見つけたのが--」
 ホームズの顔は不安のため、緊張してきた。
 「まあ、我々が何を見つけたか、百年たっても決して言い当てられないでしょうよ。カーペットの上に しみが見えますよね?でですね、かなり下に染み透ったにちがいありませんよね?」
 「確かにそれにちがいない。」
 「さてと、聞いて驚くなかれ、対応する白い木のパネルの上にしみはなかったのです。」
 「しみがない!しかしそんなはずは--」
 「ええ、そうおっしゃるのも無理はない。だがそこにないという事実は残っています。」
 彼はカーペットの角を手に持ってめくり、実際彼の言う通りであることを見せた。
 「しかしカーペットの裏側は表と同じようにしみがあるね。痕は残っっているはずだ。」
 レストレードは名高い専門家を途方に暮れさせたのが嬉しくてくすくす笑った。
 「ではご説明いたしましょうか。もう一つしみがあるんです。ところがそれが他方と一致していない。 自分でご覧なさい。」そう言いながら彼がカーペットの別の部分をめくると、はたしてそこに、古風な床 の正方形の白い化粧面の上にこぼれた深紅の色があった。「これをどう思いますか、ホームズさん?」
 「なに、簡単そのものだ。二つのしみは一致していたが、カーペットがくるっと回されたんだ。正方形 で留められていないから容易にできたんだ。」
 「カーペットが回されたにちがいないってことは、警察だってあなたに教えてもらうまでもないですな、 ホームズさん。明瞭至極です、二つのしみは互いに重なりますから--こんなふうにのせてみればね。し かし私が知りたいのはですね、誰がカーペットの位置を変えたのか、そしてなぜか?です。」
 私はホームズのこわばった顔に、内心の興奮にゾクゾクしている彼を見て取った。
 「ちょっと、レストレード、」彼は言った、「あの廊下の巡査は一日中そこに詰めていたのかね?」
 「ええ、そうです。」
 「あのね、よく聞いてくれたまえ。注意深く彼を尋問するんだ。僕たちの前でやっちゃいけない。僕た ちはここで待つとしよう。奥の部屋へ彼を連れて行くといい。二人だけの方が彼から告白を引き出せそう だからね。彼にね、よくもまあこの部屋に人を入れて一人にしておいたな、と尋ねるんだ。彼にやったのか なんて尋ねちゃいけないよ。そうと決めてかかるんだ。誰かがここへ入ったこ とは知っていると言うんだ。責め立てるんだ。すっかり白状しなければ容赦するわけにはいかないと言っ てやりたまえ。僕が言った通りにやるんだ!」
 「まったく、奴が知ってるならきっと聞き出してやる!」とレストレードは叫んだ。彼は玄関ホールへ 駆け込み、しばらくすると彼の威張り散らす声が奥の部屋から響いてきた。
 「さあ、ワトソン、今だ!」とホームズは度外れに熱狂して叫んだ。あの無関心な態度に隠されたこの 男の鬼のような力のすべてが突発的なエネルギーとなって爆発したのだった。彼はインド織物を床からは ぎ取り、すぐに両手両膝をついて、下の木の正方形を一枚一枚、爪で探りだした。一つの縁に爪を突き立 てると、それが横向きになった。それは箱のふたのようにちょうつがいで裏返った。その下に小さな黒い空 洞が口を開けていた。ホームズは待ちきれないようにその中に手を突っ込み、怒りと失望の激しいうなり 声とともに手を引き出した。空だったのだ。
 「早く、ワトソン、早く!また元へ戻すんだ!」木のふたが元に戻され、インド織物をきちんと引き寄 せたちょうどその時、レストレードの声が廊下に聞こえた。彼が見たのは物憂げにマントルピースに寄り かかり、あきらめて辛抱とばかりに、こらえきれないあくびを隠そうと努力しているホームズだった。
 「お待たせして申し訳ない、ホームズさん。どうも事件全体にほとほとうんざりのご様子ですな。ところ でやっこさん、白状しましたよ、ちゃんと。さあ入れ、マクファーソン。こちらのお二人におまえのまっ たく許しがたい行為をお聞かせするんだ。」
 大きな巡査はすっかり興奮し、後悔し、こそこそと部屋に入った。
 「悪気はなかったんです、ほんとに。若い女がゆうべ戸口に現れまして--家を間違えたんですね。 それでおしゃべりをしました。一日ここに立っていると寂しいもんで。」
 「それで、それから何があった?」
 「彼女が犯罪のあったところを見てみたいと--新聞で読んでいたそうで。彼女はとてもきちんとした 上品な娘さんで、ちょっとのぞかせても差し支えないと思いまして。カーペットの上の血痕を見て、彼女 はバッタリ床に倒れて、死んだように横になってしまったんです。私は奥に行って水を取ってきましたが、 彼女を正気づかせることはできませんでした。そこで私はブランデーをと角を曲がってアイビー・プラン トへ行きましたが、持ち帰った時には若い女は回復していなくなってました--たぶん恥ずかしくなって、 私に顔を合わせる勇気がなかったんでしょう。」
 「あの敷物を動かしたのは?」
 「それはですね、ちょっとしわくちゃになってまして、確かに、私が戻った時にですね。だって、彼女 がそこに倒れて、つるつるの床の上にあるし、ちゃんと留めておくものはないんですから。後で私がまっ すぐにしました。」
 「私を欺くことはできないという教訓にするんだな、マクファーレン巡査」とレストレードが重々しく 言った。「きっとおまえは自分の職務怠慢は決して見つかるはずがないと思ったんだろうが、 私はほんの一目あの敷物を見ただけで、誰かを部屋に入れたな、と確信したんだ。何もなくなってなくて よかったんだぞ、おい、さもなければおまえは困ったことになっていたんだからな。こんなつまらない件 で呼び出してすみませんでした、ホームズさん、しかし最初のと一致しないもう一つのしみの問題はおも しろかったんじゃないですか。」
 「もちろんだ、とてもおもしろかった。その女がここへ来たのは一度だけかな、おまわりさん?」
 「ええ、一度だけです。」
 「何者だろう?」
 「名前は知りません。タイピストの広告に応じて間違った番地に来たのです--非常に感じのいい、上 品な娘さんでした。」
 「背が高い?美人?」
 「ええ、発育のいい娘さんで。美人といってかまわないでしょうね。あるいは非常に美しいという 人もあるかもしれません。『ああ、おまわりさん、ぜひちょっとのぞかせて!』って言うんです。かわい い、その気にさせるやり方、って言うんでしょうか、ちょっとドアから首をのぞかせるぐらい、差し支え ないだろうと思ったもので。」
 「どんな服を着ていたかな?」
 「地味でした--足下までの長いマントです。」
 「何時だった?」
 「ちょうど薄暗くなる時刻でした。ブランデーを持って戻る時、街灯を火を入れてましたっけ。」
 「結構」とホームズは言った。「さあ、ワトソン、僕たちにはもっと重要な仕事がほかにあると思うよ。」
 私たちが家を去る時、レストレードは居間に残り、後悔しきりの巡査がドアをあけて私たちを送りだし た。ホームズは戸口の段で振り返り、手に持った何かを掲げた。巡査は熱心に見つめた。
 「ああ、これは!」彼はびっくりした顔で叫んだ。ホームズは唇に指をあて、手を胸のポケットに戻し、 通りを曲がるとドッと笑い出した。「上々!」と彼は言った。「さあ、ワトソン君、終幕のベルが鳴っ ている。戦争にはならずにすむし、トレローニ・ホープ閣下はその輝かしいキャリアにおける挫折を味 わわないですむし、無分別な元首は無分別の罰を受けずにすむし、首相はヨーロッパの紛糾を処理しないで すむし、僕たちがちょっと機転をきかせてうまく扱えば非常に醜い事件だったにしても誰も損をしないで すむ、と聞けば君も安心だろう。」
 私の心はこの非凡な男を称賛する気持ちでいっぱいになった。
 「解決したんだな!」私は叫んだ。
 「とてもとても、ワトソン。相変わらずはっきりしない点がいくつかあるんだ。でもだいぶわかってい るから残りをつかめなかったら僕たち自身の責任だね。まっすぐにホワイトホール・テラスへ行って、問 題をさっさと片付けてしまおう。」
 欧州大臣の住まいに着き、シャーロック・ホームズが面会を求めたのはレディー・ヒルダ・トレローニ・ホープ だった。私たちは居間に案内された。
 「ホームズさん!」憤りに顔を赤くして奥方は言った。「あなたとしては本当にとても不当で卑劣なこ とじゃないですか。申しましたように、夫の仕事に私が立ち入っていると彼が思わないように、私があな たを訪ねたことを秘密にしたいと願ってました。それなのにあなたはここへいらして私たちに取引関係が あることを示して私をおとしめるではないですか。」
 「遺憾ながら、奥様、ほかに方法がなかったのです。僕は非常に重要な書類を取り戻すよう、依頼され ています。そこであなたにお願いしなければなりませんが、奥様、どうかそれを僕に渡してください。」
 奥方はパッと立ち上がったが、一瞬のうちにその美しい顔からすっかり血の気が引いた。目はぼんやり として--よろよろとして--私は彼女が卒倒するかと思った。それでも壮大な努力により、彼女はショ ックから回復し、極度の驚きと憤慨がその顔からほかのすべての表情を追い立てた。
 「あなたは--無礼ですわ、ホームズさん。」
 「さあ、さあ、奥様、無益なことです。手紙をお引き渡しなさい。」
 彼女はベルのところへ飛んでいった。
 「執事が出口へご案内します。」
 「鳴らしてはなりません、レディー・ヒルダ。そんなことをすれば、スキャンダルを避けようという僕の切なる 努力もすべて水の泡です。手紙をお渡しなさい、それですべて正常になります。僕に協力してくだされば 何もかも取り計らうことができます。敵対なさるなら、僕はあなたを暴きたてなければなりません。」
 彼女は女王のような姿で、尊大に挑むように立ち、まるで彼の魂そのものを読み取ろうとするかのよう にその目を彼の目に据えていた。彼女の手はベルの上にあったが、彼女は鳴らすのを控えていた。
 「私を脅そうとなさってるんだわ。あまり男らしいことではありませんわね、ホームズさん、ここへい らして女を脅しつけるなんて。何かご存知のようにおっしゃるけど。何をご存知ですの?」
 「どうかお座りください、奥様。そこで倒れると怪我をなさいますよ。お掛けになるまで話しません。 ありがとう。」
 「五分差し上げますわ、ホームズさん。」
 「一分で充分です、レディー・ヒルダ。僕はあなたがエドゥアルド・ルーカスを訪ねたこと、あなたが 彼にその文書を渡したこと、あなたがゆうべ巧妙にあの部屋に戻ったこと、そしてあなたがカーペットの 下の隠し場所から手紙を取り出した方法を知っています。」
 彼女は青ざめた顔で彼を見つめ、どうにか口を開く前に二度、息を飲み込んだ。
 「あなたは狂ってます、ホームズさん、狂ってるわ!」と彼女はようやく叫んだ。
 彼はポケットから一枚の小さなカードを引き出した。それは肖像画から切り取った女性の顔だった。
 「僕はこれを役に立つかもしれないと思って持っていたんです」と彼は言った。「警官が見分けました。」
 彼女は息を飲み、その頭は椅子の背に倒れた。
 「さあ、レディー・ヒルダ。あなたは手紙を持っている。事はまだ調整できるかもしれません。僕にあ なたを苦しめる気はまったくないんです。失われた手紙をご主人に返してしまったら僕の務めは終わりで す。僕の言うことを聞いて隠し立てをしないでいただきたいのです。」
 彼女の勇気は称賛に値した。この期に及んでも負けを認めようとしなかった。
 「もう一度申しますが、ホームズさん、あなたは何かばかげた思い違いをなさってます。」
 ホームズは椅子から立ち上がった。
 「残念です、レディー・ヒルダ。あなたのために最善を尽くしたのですが。すべて無駄のようですね。」
 彼はベルを鳴らした。執事が入室した。
 「トレローニ・ホープ氏は在宅ですか?」
 「一時十五分前にはお帰りのことでしょう。」
 ホームズは自分の時計に目をやった。
 「まだ十五分ある」と彼は言った。「結構、待つとしよう。」
 執事はドアを閉めかねていた。レディー・ヒルダがホームズの足下にひざまずき、両手を差し伸べ、そ の上を向いた美しい顔が涙にぬれていたのだ。
 「おお、助けて、ホームズさん!助けてください!」彼女は半狂乱になって懇願した。「お願いですか ら彼には言わないで!私は彼をとても愛しているんです!彼の人生に一つのかげりももたらしたくありま せんし、これは彼の気高い心をひどく傷つけることでしょう。」
 ホームズは夫人を立たせた。「感謝します、奥様、この最後の瞬間になって分別を取り戻していただい て!一刻の猶予もありません。手紙はどこです?」
 彼女は書き物机に駆け寄り、鍵をあけ、青い長封筒を引き出した。
 「さあこれです、ホームズさん。ああ、こんなものを知らずにすめばよかったのに!」
 「どうやったら戻せるかな?」ホームズがつぶやいた。「早く、早く、何か方法を思いつかなければ! 文書箱はどこですか?」
 「相変わらず彼の寝室です。」
 「何て運がいいんだろう!急いで、奥様、ここへ持ってきてください!」
 あっと言う間に彼女は赤い、平たい箱を手に戻っていた。
 「前にはどうやってあけたんです?合鍵をお持ちですか?ああ、もちろん、お持ちだ。あけてください!」
 レディー・ヒルダは胸から小さな鍵を取り出した。箱はパッと開いた。書類でいっぱいだった。ホーム ズは青い封筒をその中心部の奥深く、ほかの文書の間に突っ込んだ。箱は閉められ、鍵をかけられ、寝室 に戻された。
 「これでいつでもご主人を迎えられます」とホームズは言った。「まだ十分あります。僕がうまくあなたを かばいますよ、レディー・ヒルダ。その代わりあなたは時間を活用して、この異常な事件の真の意味を率 直にお話しください。」
 「ホームズさん、何もかもお話ししますわ」と夫人は叫んだ。「ああ、ホームズさん、少しでも彼を悲 しませるならこの右腕を切り落としてもいい!私ほど夫を愛している女はロンドンにいません。それでも 私がどのようなふるまいをしたか--どのようなふるまいをせざるをえなかったかを彼が知ったら、彼は 決して私を許さないでしょう。彼自身高潔な道義心の持ち主ですから、ほかの人間の過ちを忘れることも 許すこともできないんです。助けてください、ホームズさん!私の幸せ、彼の幸せ、私たちの人生そ のものが懸かっているんです!」
 「急いで、奥様、時間が短くなる!」
 「私の手紙なんです、ホームズさん、結婚前に書いた一通の軽率な手紙--ばかな手紙、衝動的な、恋 する娘の手紙でした。害のないものでしたが、それでも彼は嘆かわしいものと考えたでしょう。その手紙 を彼が読んだら、彼の信頼は永久に打ち砕かれてしまったでしょう。私がそれを書いてからずいぶんたち ます。私はそのことはすっかり忘れられたものと思っていました。そこへとうとうあの男、ルーカスがそ れが自分の手に入った、それを夫に見せると言ってきたのです。私はあの男に情けを請いました。彼は、 夫の文書箱の中に、ある文書があるから、それを持ってくれば私の手紙を返してやると言いま した。彼には役所内にスパイがいて、その存在を彼に話したのです。夫に害はないと彼は保証しました。 私の立場に立って考えてください、ホームズさん!私にどうすることができましょう?」
 「ご主人に秘密を打ち明けることです。」
 「できませんでした、ホームズさん、できませんわ!一方を取れば確かに破滅らしい、他方、夫の書 類を取るのは恐ろしいことのようですが、それでも政治の問題では私にはその結果がわかりません、とこ ろが愛と信頼の問題は私にとってはっきりし過ぎているくらいですから。私はやりました、ホームズさん! 私は鍵の型を取りました。あの男、ルーカスが合鍵を用意しました。私は彼の文書箱をあけ、文書を取り、 ゴドルフィン街へ持っていきました。」
 「そこで何がありました、奥様?」
 「私は決めた通りにドアを軽く叩きました。ルーカスがあけました。私はあの男と二人だけになるのを 恐れて玄関の戸を半開きにしたまま、彼について部屋に入りました。私が入った時、外に女の人が一 人いたのを覚えています。私たちの取引はすぐに済みました。彼が私の手紙を机の上に置き、私は彼に文 書を手渡しました。彼は手紙を渡してくれました。ちょうどこの時、ドアの音がしました。そして廊下に 足音が。ルーカスは手早く敷物をめくり、文書をそこの隠し場所に突っ込み、覆いをしました。
 その後起こったことはなんだか恐ろしい夢のようです。幻が見えるんです、浅黒い、半狂乱の顔、女の 声、それがフランス語で叫んでました、『待っているのも無駄じゃないわね。ついに、ついに、女と一 緒のところを見つけてやった!』激しい争いがありました。彼が椅子を手にし、彼女の手にナイフが光 るのが見えました。私は身の毛もよだつ場面から飛び出し、家から駆け出し、翌日の朝になってやっと新聞 で恐ろしい結末を知りました。その夜、手紙があるので私は幸せでしたし、未来が何をもたらすのかまだ わかっていませんでした。
 翌日の朝、私は一つの悩みをもう一つと取り替えただけだったことを悟りました。文書を失った夫の苦 悩は私の胸にこたえました。私はその場で彼の足下にひざまずき、自分のしてしまったことを彼に話さず にいられない思いでした。しかしそれはまた過去を告白することを意味します。私はあの朝、自分の犯し た罪の大きさを完全に理解するためにあなたのところへ行きました。それを把握した瞬間から私の心はす べて、夫の書類を取り戻そうという考えだけに向かいました。それはあの恐ろしい女性が部屋に入る前に 隠されたのですから、まだルーカスが置いた場所にあるにちがいありません。彼女が来ることがなかった ら、私は隠し場所がどこか知らなかったでしょう。どうやって部屋に入るつもりだったかですか?二日間、 私はあそこを見張っていましたが、ドアは開け放しになることはありませんでした。ゆうべはこれが最後 のつもりでやってみました。何をしたか、どうやってうまくいったかはもうご存知ですわね。私は文書を 持ち帰り、それを破棄しようと思いました。夫に罪を告白せずに返す方法がわかりませんでしたので。ま あ、階段にあの人の足音が!」
 欧州大臣は興奮して部屋に飛び込んだ。
 「何かありましたか、ホームズさん、何か?」と彼は叫んだ。
 「多少望みはあります。」
 「ああ、ありがたい!」その顔は晴れやかになった。「総理と昼食をともにするんです。総理にもそのお 話をいいですか?鉄の神経をお持ちだが、あの恐ろしい出来事以来ろくに眠られてないのがわかりますか らね。ジェイコブズ、総理に上がっていただいてくれ。君はね、ほら、これは政治の事柄だから。二、三 分したら、君の後からダイニングルームに行くからね。」
 首相は抑制した態度を取っていたが、そのきらめく目、ぴくぴくする骨ばった手から、彼も若い同僚の 興奮を共有しているのがわかった。
 「何か報告することがあるそうですな、ホームズさん?」
 「今までのところ、まったく消極的なものではありますが」と友は答えた。「ありそうなところはすべて問い合わせたんですが、悟 られる危険がないのは確かです。」
 「でもそれでは十分ではありませんよ、ホームズさん。そんな火山の上で永久に暮らすわけにはいかな いですから。我々には何か明確なものが必要です。」
 「僕は手に入ると期待してるんです。それでここへ来たわけです。問題を考えれば考えるほど、手紙は この家を決して出ていない、と僕は確信するのです。」
 「ホームズさん!」
 「そうでなければ間違いなく今頃は公表されているはずです。」
 「でもどうしてこの家に置いておくために誰かが取ったりするものですか?」
 「僕は誰かが取ったものと確信していません。」
 「ではどうやって文書箱から出て行ったのです?」
 「文書箱から出て行ったことがあるとの確信もありません。」
 「ホームズさん、まったくジョークを言ってる場合じゃないんです。箱の中にないことは私が保証しま す。」
 「火曜日の朝以来、箱を調べたことがありますか?」
 「いいえ。必要ありません。」
 「あるいはあなたが見落とされたかもしれませんよ。」
 「ありえないことです。」
 「でも僕は納得していないんです。そういうことはあるものなんですよ。ほかにも文書類があったんで しょう。ほら、そこに混ざってしまったかもしれないですよ。」
 「いちばん上にありました。」
 「誰かが箱を揺すってずれたかもしれません。」
 「いいえ、いいえ、私は全部出したんです。」
 「なに、すぐわかることじゃないか、ホープ」と首相が言った。「文書箱を持ってこさせよう。」
 大臣がベルを鳴らした。
 「ジェイコブズ、私の文書箱を持ってきてくれ。これはばかげた時間の浪費ですが、でも、どうしても そうしなければあなたが納得しないなら、それを済ませましょう。ありがとう、ジェイコブズ、ここに置 いて。常に鍵は私の時計の鎖につけています。ほら、書類がありますね。メロウ卿からの手紙、サー・ チャールズ・ハーディーの報告書、ベオグラードからの覚書、露独の穀物税についての文書、マドリード からの手紙、フラワーズ卿からの書状--おや!何だこれは?ベリンジャー卿!ベリンジャー卿!」
 首相は青い封筒を彼の手からひったくった。
 「ああ、これです--それに手紙もそのままだ。ホープ、おめでとう。」
 「ありがとう!ありがとう!すっかり心の重しが取れました。でもこれは信じられない--ありえません。 ホームズさん、あなたは魔法使いだ、魔術師だ!どうしてそこにあるとわかったのです?」
 「ほかのどこにもないことを知ったからです。」
 「自分の目が信じられません!」彼は夢中になってドアへ走った。「妻はどこだろう?万事オーケー と言わなくては。ヒルダ!ヒルダ!」と階段の上から彼の声が聞こえた。
 首相は目を輝かせてホームズを見た。
 「さてさて」と彼は言った。「ここには見ただけではわからないことがありますぞ。どうして手紙は箱 に戻ったんですかな?」
 ホームズは微笑みながら、あのすごい目の鋭い凝視から顔をそむけた。
 「僕たちにも外交上の秘密がありましてね」と彼は言い、帽子を手に取り、ドアへ向かった。


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